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第1章 策士、俺 (1543年 4月〜)

第三十話 二人、約束

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 南部との一件以来、俺は呆然と心に穴が開いてしまった様な、空白の時間を過ごしていた。
 無論、南部の死を聞きつけた時にはやりようのない後悔の念に駆られ、一日の内に何かにつけ思い悩むほどであった。

 少なくとも晴信に呼び出されるまでは、それが続いていたと思う。
 

 「殿、如何なさいましたか」
 戦が終わり、彼に呼び出される理由。
 俺の中で特に思い当たる節は無かった。
 いや、思い当たらない訳ではないが、
 〈其れ〉を理由に呼び出されたとは考えにくい。


 晴信は、俺の方を睨む。

 「嘘偽りを申すな、有体に申せ。
  其方は一度、城を抜け出したのだろう」
 「!」

 晴信は知っていた。
 俺がしでかした、赦されざる行為を。

 どうして〈其れ〉を知っているのか。
 虎胤が報告したとは思えない。
 しかし、今は犯人捜しをしている暇は無い事を悟り、俺は脳内で幾つかの言い訳を巡らせていた。


 「……案ずるな、儂が自ずから知った事じゃ。
  とにかく、其方が嘘を付けぬ男であることは分かった」

 俺は昔から、隠し事をすると表情に出てしまう癖がある。
 今回もその癖が出てしまっていた訳だが、晴信はさほど怒ってはいない様で、俺は内心安堵していた。
 
 それに乗じ、俺は訊ねる。
 如何して此度の件において南部殿を改易し、俺には何もしなかったのか。
 城を抜け出した自分の方が、責任はあるように思えて仕方がなかった。
 

 「其方は助太刀に過ぎぬ」

 晴信の返答は、その一言のみである。納得しない理由は無かった。
 追求すれば、相手にはまるで自分が死にたがっている・・・・・・・・様に見えてしまうと思ったからだ。

 「しかし、南部は惜しい男であった。
  何も好き好んでではない。
  儂が改易の命を下したのも、
  あの男が此処に戻って来なかった故じゃ」

 自身にとっても苦渋の決断だったと、彼は言う。
 俺は彼の言葉に、沈黙を貫いていた。

 「晴幸、其方は儂には無いものを持っておる。
  例い醜く蔑まれたとしても、
  儂は其方を見捨てたりはせぬ。
  此れからは南部の分まで、宜しく頼むぞ」

 晴信の浮かべる微笑みに、俺は思う。






 その笑みはきっと、〈偽り〉なのだと。




 俺には、他人には頼もしく見える晴信かれの笑顔が、恐ろしい。
 何故なら、俺は知っているからだ。
 此度の件で《南部が晴信の不興を買っていた》事を。



 ある日の夕食後、通りかかる部屋から不意に聞こえてきた晴信と家臣の会話。
 俺を非難した南部を《邪魔》だと判断し追放したと言っていたのを、この耳で聞いていた。

 恐ろしい男だと思った。
 惜しいと口にしながら、いとも簡単に斬り捨てる。
 まるで、〈虎に化けた鬼〉の様だと。




 「其方はこれからも、儂の許に居てくれるか」
 晴信は俺に向け、念押しする様に語り掛ける。
 

 だが、俺はそれでも良いと思った。
 南部が言っていた様に、俺もこの男と同じ化物である事に変わりはない。
 俺は偽善ながら頬を緩ませる。


 俺の生きるべき場所は、此処にもある。
 化物には化物だというならば、生き易い世界だ。
 もし、晴信このおとこが望むのならば、
 鬼にでも何でも、なってやろうじゃないか。

 俺の右目は、
 スキルの通じない化物の目をしっかりと捉えていた。
 
 
 「......良し、晴幸、
  金打きんちょうの儀じゃ、刀を持て」
 晴信は刀を立て、俺も続き、刀を立てる。
 
 《金打》。戦国時代における、約束を取り交わす作法。今で言う〈指切り〉のようなもの。
 言葉は交わさずとも分かり合える。
 武士としての、誓いの印。
 
 「金打」

 二人は、お互いの唾をかんと打ち合わせた。







 やはり、俺は愚かな男だった。
 自らの正当性を主張するのも、南部が死んだことを棚に上げるのも、ただ行き場を失うのが怖かっただけ。
 それすらも、今は正しいと思い込んでしまう。
 いつから俺は、こんな人間に成り果ててしまったのだろうか。


 俺はこれからも晴信に慕われ続け、この世を全うする、そんな人生を歩む。そんな気がする。
 その日まで、晴信は生きてくれるだろうか。
 俺はふと、彼と交わした約束の意味を考える。


 
 秋は深まり、冬がやって来る。
 冷たい風が身を震わせる。
 城から出た俺は一歩歩き、空を見る。

 曇天に、蜻蛉はいない。
 死ぬのはまだ先の事の様だと、俺は微笑んだ。

 若殿は元気にしているだろうか。
 そうだ、久しぶりに手紙でも書いてやろう。
 寒くなるから、くれぐれも病には気を付けてと。
 その為には、筆と硯も用意しなければ。

 思い立ったが吉日。
 しかし、その前に薪を取りに行かないとな。


 息が白い煙となり、宙に消える。
 遠くの山々は、既に白く染まり始めている。
 此処にももうじき、雪が降り始める。そんな事を思いながら、俺は誰もいない森へと向かうのであった。
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