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序幕 桶狭間
第2話
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どれくらい眠っていたのか。
女は常人では感じ取れない微かな気配を外に感じ、音を立てず素早く身を起こした。荷物から手裏剣が入った袋と短刀を取りだし、そっと刀を抜く。同時に手裏剣もいくつか抜き出し、いつでも投げ打てる体勢になる。寝息の演技をしつつもそっと立ち上がり、女は臨戦態勢になる。緊張が最高潮に達したとき、不意に女は左に飛びながら手裏剣を外に向けて投げ打つ。
同時に外からも手裏剣が打ち込まれた。女は太い梁に飛びつくと屋根へ上がり、茅を掻き分け飛び降り暗闇に紛れ気配を消した。相手も闇雲に突っ込むという愚を犯さず、物陰からこちらを伺っている。そのまま暫く睨み合いが続いたが、やがて相手の殺気が緩んだ。だが、女は警戒心を解かない。手裏剣と短刀を持ち合わせていることから、彼女がただの歩き巫女でない事は明白だ。何処かの女忍びなのだが、相手が敵か味方か判らぬうちは気が抜けない。
息を殺した睨み合いは、二十ほど呼吸を数えたところで終わりを告げた。不意に相手が声をかけたからだ。
「於小夜か?」
「小十郎どのか、これは人が悪い」
短刀を収め、於小夜は警戒心を解いた。味方の男忍びの名を呼ぶ声は、年齢相応の幼さをいくぶん残している。闇の中から姿を現した小十郎は、きちんと忍び装束に身を固めていた。背が高く肩幅が広い。顔を忍び頭巾で隠しているため正確な年齢は判らないが、声の印象からすると、於小夜と年齢は変わらぬようだ。
「そなたの手並みを確かめたくてな。よく俺の気配を察した、褒めてやろう」
「おお、小十郎どのが褒めてくださるとは。ふふ、私も少しは成長したようですな」
それに対して小十郎は微笑みで答えると、一足跳びで於小夜の傍に来た。
「お屋形さまからの命令だ。すぐに城に潜り込み、信長の様子を探れと」
「ではすぐに、着替えます」
二人の間に声なき会話があった。互いに唇を読み合っているのだが、修行で鍛えられた二人の目は暗闇の中でも見える。於小夜はさっきまで潜んでいた家へ戻ると、手早く歩き巫女の格好から忍び装束に替わった。手裏剣の袋を腰に括り付け、忍び刀も腰に差す。目だけ露わな頭巾を被ると、二人して真夜中の城下を疾風の如く走り抜ける。
織田信長の動向を探れ。
このことから、二人が何処からか依頼を受けた忍びと判る。当面の敵である今川家かと思われるが、そうではない。彼らは今川と同盟を結んでいる甲斐国の武田家に飼われる、三ツ者と呼ばれる忍びだ。先ほど小十郎が「お屋形さま」と呼んだのは、武田信玄その人である。
「しかし今川は忍びを使わないのですな。何ゆえお屋形さまは、我らを探りに出させたのでしょうか」
「お屋形さまの御心を、我らが推し量ることなどできようか。我らはただ、遂行するのみ」
「それはそうですが」
走りながら交わされる会話の声音は極々小さく、甲府訛りが微かに感じられた。今川家や武田家から見たら、尾張国の織田など、軽く捻り潰せる。信玄も、いずれ京へ上洛をと野心を抱く男。目の前を飛び回る蝿ぐらいにしか思っていないが、尾張の大うつけ者と呼ばれる信長がどのような男か、興味はある。何せ信秀の死後に早々と尾張を統一したその手腕は、間違いないのだから。
万が一にも脅威となるのならば、災いの芽は早く摘むに限ると判断し、信玄は二人を派遣したのだった。
女は常人では感じ取れない微かな気配を外に感じ、音を立てず素早く身を起こした。荷物から手裏剣が入った袋と短刀を取りだし、そっと刀を抜く。同時に手裏剣もいくつか抜き出し、いつでも投げ打てる体勢になる。寝息の演技をしつつもそっと立ち上がり、女は臨戦態勢になる。緊張が最高潮に達したとき、不意に女は左に飛びながら手裏剣を外に向けて投げ打つ。
同時に外からも手裏剣が打ち込まれた。女は太い梁に飛びつくと屋根へ上がり、茅を掻き分け飛び降り暗闇に紛れ気配を消した。相手も闇雲に突っ込むという愚を犯さず、物陰からこちらを伺っている。そのまま暫く睨み合いが続いたが、やがて相手の殺気が緩んだ。だが、女は警戒心を解かない。手裏剣と短刀を持ち合わせていることから、彼女がただの歩き巫女でない事は明白だ。何処かの女忍びなのだが、相手が敵か味方か判らぬうちは気が抜けない。
息を殺した睨み合いは、二十ほど呼吸を数えたところで終わりを告げた。不意に相手が声をかけたからだ。
「於小夜か?」
「小十郎どのか、これは人が悪い」
短刀を収め、於小夜は警戒心を解いた。味方の男忍びの名を呼ぶ声は、年齢相応の幼さをいくぶん残している。闇の中から姿を現した小十郎は、きちんと忍び装束に身を固めていた。背が高く肩幅が広い。顔を忍び頭巾で隠しているため正確な年齢は判らないが、声の印象からすると、於小夜と年齢は変わらぬようだ。
「そなたの手並みを確かめたくてな。よく俺の気配を察した、褒めてやろう」
「おお、小十郎どのが褒めてくださるとは。ふふ、私も少しは成長したようですな」
それに対して小十郎は微笑みで答えると、一足跳びで於小夜の傍に来た。
「お屋形さまからの命令だ。すぐに城に潜り込み、信長の様子を探れと」
「ではすぐに、着替えます」
二人の間に声なき会話があった。互いに唇を読み合っているのだが、修行で鍛えられた二人の目は暗闇の中でも見える。於小夜はさっきまで潜んでいた家へ戻ると、手早く歩き巫女の格好から忍び装束に替わった。手裏剣の袋を腰に括り付け、忍び刀も腰に差す。目だけ露わな頭巾を被ると、二人して真夜中の城下を疾風の如く走り抜ける。
織田信長の動向を探れ。
このことから、二人が何処からか依頼を受けた忍びと判る。当面の敵である今川家かと思われるが、そうではない。彼らは今川と同盟を結んでいる甲斐国の武田家に飼われる、三ツ者と呼ばれる忍びだ。先ほど小十郎が「お屋形さま」と呼んだのは、武田信玄その人である。
「しかし今川は忍びを使わないのですな。何ゆえお屋形さまは、我らを探りに出させたのでしょうか」
「お屋形さまの御心を、我らが推し量ることなどできようか。我らはただ、遂行するのみ」
「それはそうですが」
走りながら交わされる会話の声音は極々小さく、甲府訛りが微かに感じられた。今川家や武田家から見たら、尾張国の織田など、軽く捻り潰せる。信玄も、いずれ京へ上洛をと野心を抱く男。目の前を飛び回る蝿ぐらいにしか思っていないが、尾張の大うつけ者と呼ばれる信長がどのような男か、興味はある。何せ信秀の死後に早々と尾張を統一したその手腕は、間違いないのだから。
万が一にも脅威となるのならば、災いの芽は早く摘むに限ると判断し、信玄は二人を派遣したのだった。
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