ニューヨークの賞味期限

皇 いちこ

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Chapter 2 友情 — Amitiés

5. 選択の重み ―― The Weight of Choice

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ドアハンドルに手を掛ける前に、一呼吸を置いて口角を上げる。
この部屋の扉を開ける指先が、こんな風に緊張で強張るなんて、もう無いと思っていた。

「オフをありがとう。リフレッシュできたわ」

カミーユは明るく微笑み、紙袋を二つ、ギルバートのデスクの端にそっと置いた。
一つは、彼の好物も一緒にと、母が持たせてくれたチョコレートクロワッサン。もう一つは、クリスマスに向けて試作を重ねているというシュトーレンだった。

「実家に寄って来たの。お母さんが、あなたに宜しくって」

生地から溢れそうなほど折り込まれた、ショコラの香りにつられたのか。
ギルバートはモニターから顔を上げて、ブラウンの瞳を細める。一見すると精悍なスポーツマンタイプなのに、甘い物に目がないところは昔から変わらない。

「ありがたいな。この辺の洒落た店より、お前んとこのが一番だ」

カミーユは何気ない素振りを装いながら、彼の書斎を見渡した。
埃の落ちていないデスクの上で、そこだけが不自然なほど、空いていた。
利発そうな二人の子どもと、可愛らしく気立ての良い年下の妻と、四人で写ったあの写真が。

喉の奥に、鉛が落ちたようだった。

「……あなた、最近……家族との時間は、取れてるの?」

言い淀みかけた問いは、ほとんど祈りに近い。
冷えた心臓が煩わしいほど鼓動を刻む。
凛々しく弧を描いた眉が一瞬跳ね上がり、ギルバードは観念したように苦笑を漏らした。

「ああ……噂が回るのは早いな」

淡々とした口調だった。
感情を込めないことが彼なりの誠実さだと、カミーユは知っている。

「子どもたちとは、これからも定期的に会う。経済的な援助も当然続ける」

感情を乱しては、動揺してはいけない。
そう自分に言い聞かせても、否応なしに声が震えてしまう。

「……もう……決まったこと、なの?」
「俺が決めた。お前は気にしなくていい」

一抹の未練すら残らない決意が、刃のように胸に突き刺さる。
彼の子どもたちは、まだ小さい。
上の子は小学校に上がったばかり、下の子はプリスクールだったはず。強気な目元は父親譲りで、今度二人をオフィスに連れて来てとせがんだ約束も、まだ叶っていない。

「――……ごめんなさい」

気づけば、カミーユの口から、悲痛な後悔が零れ落ちていた。

「やっぱり、あなたに頼りすぎていたのよ。ずっと甘えていた。
責任範囲も見直す。オペレーションと対外折衝、どちらかを切り分ける。
夜のミーティングも減らすわ。私から奥さんに話してみるから――だから……」

謝罪というには遅すぎて、懺悔と呼ぶには身勝手だった。
見落としてきた兆しの数だけ、言葉が溢れ出した。
いつもそうだ。目の前のことに没頭すればするほど、周りが見えなくなってしまう。
誰かを救うために設計したはずのものが、一番近くにいた人間の人生を削っていた。
その事実だけが、胸に残った。

「私のために……何もかも犠牲にしないで」

願わくは、もう決して使いたくなかった二文字。
初めは、両親のくたびれた背中に。次は、力無く肩を落とす当事者に。そして、今は運命を共にしてきた親友に。

「――犠牲なものか」

鋭い視線が、不安定に揺れる双眸を捉えた。
低い声で放った迷いの無い言葉が、カミーユの鼓膜を劈く。

「プライベートは一切関係無い。
お前と築き上げたこの場所が、俺の人生の一番の誇りなんだ」

――社員の目もあるから。
それは、もっともらしい理由でもあったし、彼なりの最後の防波堤でもあった。
彼は潔く会話を切り上げ、稟議が必要な書類を差し出した。CEOのサインを待つ資料だ。
厳しい口調に滲むのは、怒りか拒絶か、それとも痛みか。

カミーユはそれ以上何も言えず、ファイルを受け取った。
ヒールを運ぶ足取りは重く、執務室へ戻る廊下が、いつもより長く感じられた。

デスクに戻っても、画面の文字はまったく頭に入ってこない。
カーペットに寝そべり、大人しく留守番をしていたリュヌを抱き上げる。彼女は飼い主を心配するように甲高い鳴き声を上げた。

「……どうすればいい?あなたのパパを……傷つけてしまった」

薄暗いシェルターの檻の中で、傷が癒えないまま縮こまっていたこの子を、新しい家族として迎えて数日後の夜。
急激な環境の変化によるストレスが小さな体を蝕んだのか、リュヌは苦しそうに嘔吐を繰り返していた。初めて飼うペットの急変に狼狽えたカミーユは、嗚咽交じりに彼に電話して助けを求めた。友人は数少ない救急動物病院を探し出し、夜道を車で飛ばして連れて行ってくれた。
それからカミーユが車を買ったのは言うまでもないが、この夜を境に、ギルバートは愛犬の体調まで気に掛けてくれるようになった。

目頭に熱が込み上げ、嵐のように入り乱れる感情を止められない。
カミーユの意識は、自然と過去へ引き戻されていた。

――あの時も、ちょうど今ぐらいの肌寒い時期だった。
第一志望の大学に無事入学して数か月経ち、寮生活にもようやく慣れた初冬。
華やかな社交クラブソロリティには目もくれず、学業とアルバイト以外の時間の使い道を迷い抜き、門を叩いたのが学生団体『Social Impact Tech Lab』だった。

親の書類が一つ足りないだけで、門前払いされることが何度あっただろう。
制度から取り残されるたび抱えていたジレンマを言語化して、何かのアクションを起こすために。
恒例のピッチイベントで、緊張で震える手を抑えながら、初めて世に送り出した論文。

教室の後ろで腕を組み、半ば惰性で聞いていたギルバートの注意を、ただ一人引き留めたらしい。厚底眼鏡をかけて、眉毛もボサボサで、歯列矯正中の冴えない女子生徒の拙い弁舌が。

声が裏返り、言葉を探すように視線が泳ぐ。
スライドの順番を一つ飛ばしてしまい、慌てて戻る。間の取り方も最悪だった。
FinTechを駆使した小銭稼ぎでも、VCベンチャーキャピタル受けを狙ったわけでもない。

銀行口座を持てない移民。
制度の隙間に落ちる人々。
『技術で埋められる空白がある』と、必死さを剥き出しで訴えた。

これは理想論じゃない。実装されれば、世界が変わる。
その確信が、たまたま見学に立ち寄っただけの、彼の人生を動かしたようだった。

一年目、構想と論文、二人だけのチーム発足。
二年目、学内助成金、アクセラレーター参加、テスト導入。
三年目、試作版プロダクトMVPの完成、学外NPOと初の正式契約、非営利寄りのスタートアップとして起業。
四年目、法人化、財団助成と小規模VCベンチャーキャピタルの初期投資、卒業後のフルタイム化。

規制でローンチ直前に止められた夜。
調達資金がショートしかけた朝。
不正利用が発覚し、全責任を背負った日。
それでも、信念を貫き通した。

初めて届いた、利用者からの感謝のメール。
小さな自治体との契約。
Forbes Under 30『ソーシャルインパクト部門』『ファイナンス部門』のW受賞。

気づけば社員は百人近くになり、BRIDGE PAYは、二人の手から静かに溢れ始めていた。

――もう、二人だけでは抱えきれない。
その事実が、最も残酷な形で突きつけられる。

彼を楽にしたい。
会社を守りたい。
その思いが、いつしか新たな選択を呼び込むことになるとは、この時はまだ知らずに。

夕方、彼女は静かにオフィスを抜けると、行きつけのデリへ向かった。
自分の分と、ギルバートへの差し入れを注文する。忙しくても筋トレを欠かさない彼には、ケールシーザーサラダと鶏むね肉のトッピングを多めに。

外の空気を吸いに出たはずなのに、料理を待つ間も思考は止まらない。
――Chief of Staff参謀役を置く?
――取締役会を強化する?
――規制・法務関連をもっと外部に委託すべき?

まだ間に合うのか。
どんな数式なら、未来を書き換えられるのか。
罪の無い子ども二人に、父親のいない人生を背負わせるわけにはいかない。

注文を受け取って、機械的に出口へ向かう。
頭の中で、条件分岐と例外処理を延々と組み替えながら、カミーユはぼんやりと霞む視界の中、目の前に鈍い衝撃を感じた。

「――すみませ……」

幸いにも、イタリア仕立ての上質なウールに、ソースが跳ねた気配はない。
慌てて顔を上げたカミーユは、驚きの声を上げた。

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