ニューヨークの賞味期限

皇 いちこ

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Chapter 3 特権 — Privilège

10. 戻る場所、残る場所 ―― Where Home Still Is

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大晦日の夕方まで、カミーユは監査対応と年次レポートの最終確認に追われていた。
表向きは『休暇』でも、年を跨ぐ数字だけは、誰の都合も待ってはくれない。Slackで幹部三人のグループチャットがようやく静かになり、最後の確認スタンプが流れたところで、彼女はノートPCを閉じた。リュヌをゲージに入れ、コートを羽織ってエレベーターに乗る。

PATHトレインは、思った以上に混んでいた。帰省の荷物を抱えた人々、カウントダウンを控えた浮き足立つ会話。祝祭と生活が、同じ車両に同居している。
車窓に流れるマンハッタンの灯りは、ハドソン川を越えるにつれて、少しずつ低く、柔らかくなっていった。

向かった先は、ジャージーシティの両親の元。
ジャーナルスクエアの角にあるそのベーカリーは、パンの焼ける匂いと一緒に、時間を積み重ねてきた場所だ。基本的に週一の定休日以外は早朝から店を開けているが、今はシャッターが下りている。今年最後の営業を終えたらしい。

「あら、久しぶりね、カミーユ。良いお年を!」
「ありがとう!おばさんも、素敵な年越しを」

二軒隣の常連客と挨拶を交わす。
この界隈には、肌の色も訛りも異なる人々が暮らしている。誰かの店が忙しければ、誰かが手を貸す。小さな親切が循環している街だ。クリスマス以来の訪問でも、不思議と『帰ってきた』感覚が先に立った。

「寒かったでしょう。さあ、ストーブのそばへ。リュヌもおめかしして、可愛いこと!」

セーターを着たリュヌを母が抱き上げると、尻尾を振りながら鼻先を舐め回した。
Réveillonは本来なら、友人家族を大勢招いて賑やかに過ごすのがフランス流。それでも今年は、娘の忙しさを知って、家族だけの長いディナーにしてくれた。

テーブルには牡蠣、チーズ、焼きたてのバゲット。故郷であるブルターニュのグラスワインが人数分並び、デザートにはガレット・デ・ロワとミルクたっぷりの紅茶。
パイに隠れたフェーブ陶器の人形を引き当てた父は、紙の王冠を被り、上機嫌で貴腐ワインを傾けている。

「あなた、もうそのぐらいにしないと!」
「そうよ!お父さんったら、すぐ顔に出るんだから」

母がボトルを取り上げようとする手を、父は名残惜しそうに制した。

「――いいじゃないか、今夜ぐらいは」

その瞬間、交わされた視線が、ほんのわずか物憂げな色を帯びた。
カミーユの口元から、自然と笑顔が消える。胸に小さな棘が刺さるようで、彼女は膝の上のリュヌの頭を撫でた。

「カミーユ、愛する娘よ」

母が観念したように溜息を吐き、静かに切り出した。

「お祝いの席で、こんな話をするつもりはなかったのだけれどね」

差し出された手は、痛々しいあかぎれで荒れている。娘はそっと握り返す。
長い年月、考え抜かれてきた決断だと、皺の深さが語っていた。

「ほら、お父さんが大酒飲みでしょう。そのせいで、最近心臓に少しガタが来てるみたいなの」

いつか来ると覚悟していた未来。それが、少しだけ早まっただけだ。
まだまだ元気そうに見えるからと、事情も知らずに、勝手に安心していただけ。

「それで――近いうちにお店を閉めて、故郷に戻ろうと思う」

母の瞳から零れた涙に呼応するように、視界が滲む。
原料や光熱費の高騰、値上げの苦渋。それでも名物のクロワッサンとバケットは、三十年近く“日常のパン”として愛されてきた。

「二人が選んだなら、それが一番いい。腰が痛いってぼやきながら……ここまで続けてくれたんだもの」

フランスの公的医療Assurance Maladieなら、基本治療費はほとんどがカバーされる。慢性疾患や高齢者ほど、負担が軽い。NYの法外な医療費を思えば、現実的な選択だった。

「俺はまだやれるぞ。向こうでも、また店を開く」

頑固な職人の言葉に、母は小さく笑った。
グリーンカードを取るまでの数年間、父が夜遅くまで書類を書き直していたことを、カミーユは覚えている。粉袋より重たい書類の山。国籍を残したのは、帰る場所を失わないためだった。
海辺のサン=マロなら、気候も穏やかで、療養にはぴったりだろう。

「もう、今は休養に専念するのが最優先よ!それはそうと……命に別状は無いの?」
「軽い心疾患なんだけど、立ち仕事が多いから、時々めまいがね。先生にそろそろ引退だって、止められたわ」

苦笑する母の先行きの不安は、もう一つある気がした。
ICEによる移民取り締まり強化のニュースだ。ここでは対岸の火事でも、誤認拘束や、家族が引き裂かれるケースもある。
いつルールが変わるかわからない気疲れは、街の住民にも間接的な影を落としていた。

「体調が良くなったら、時々でも遊びに来て。航空券とホテル代は、もちろんプレゼントするから」

リビングに飾られている開店当時の家族写真から、歳月はあっという間に流れた。
粉まみれのエプロン、借り物のオーブン、夜明け前のシャッター。流星のように速かったのは、成功ではなく、ただ続けてきた時間だ。

「ありがとう……ここまで来られたのは、あなたがいたからよ」

娘が挫けそうになるたびに、寡黙な父は好物のクロワッサンを焼いてくれた。
母は、バターの匂いが残る腕で、落ち着くまで抱き締めた。
三人で越えてきた節目は、賞でも称号でもない。それでも確かに、この家の中に積もっていた。

「でもね……大切な一人娘を残していくと思うと、少しだけ心配なの。
たまにでいいから、連絡はちょうだい」
「わかってるわ。私ももう良い年だし、一人暮らしにも慣れてるもの」

半分は本当で、半分はそう言い聞かせているだけだ。
料理の腕は壊滅的で、食事はもっぱらデリかデリバリー。仕事を持ち帰って、シャワーを浴びて眠るだけの部屋は、散らかる余地さえ少ない。

「……そうね。でも、もし何かあった時――」

母は言葉を探すように、頬杖をついて視線を遠くへ滑らせた。

「今はギルバートがいてくれるから安心だけど……ずっと、っていうわけにはいかないでしょう?」

高校卒業と同時に出た頃から、一人部屋のインテリアはそのままにしてある。
抱き枕の代わりだったぬいぐるみも、色褪せたジグソーパズルも処分しなければならないだろう。

(……でも、これが私の原点)

埃が積もった本棚から、背表紙の破れた本を一、二冊取り出してみる。

『Automate the Boring Stuff with Python』
『Grokking Algorithms』

大学の副専攻でCSコンピュータ・サイエンスを選ぶきっかけをくれた。
いざ事業を始めてみると、世の中は一つの定数式では解けなかったけれど。

リュヌはベッドに潜り込むと、変わらない飼い主の匂いに安心したのか、すぐに眠ってしまう。
カミーユは、頭の片隅では理解していた。この小さな天使が、先に旅立ってしまうことくらい。寿命もそう長くはないことを。
一人になった時、あの機能面に偏ったコンドミニアムで、静寂に耐えられるのだろうか。

母の口からギルバートの名前が出て、時間が経っても先に立つのは、彼への罪悪感だった。
それと同時に、The Shedのイベントでの友人の冗談と訓戒が、脳裏を掠める。
結婚とは、どう“自分らしくいられるか”。

共同経営者として二十年近く並んで歩いてきた彼は、隣にいても呼吸が乱れない相手だった。考えなくていいという安心は、同時に越えない境界線でもある。

それで十分だ、とカミーユは思う。
今はまだ、彼の人生を元に戻す時間なのだから。

――忙しさのせいで、距離を生んだのだとしたら。
そう考えるだけで、胸の奥が少し重くなった。

そこへ、枕元のスマホが震えた。
あと二時間もすれば、年が変わる頃だ。女友達からの年越しメッセージだろうかと思い、画面を開く。

〈先日はありがとう。
こちらにとっても、新しい一歩になりそうで楽しみだ〉

意外な送り主からの、短いメッセージ。
先ほどまで思い浮かべていた相手とは、正反対の存在だった。

大学のキャンパスでは、遠くから眺めるだけの人。拍手や称賛が、自然と集まる世界に生きていた。
ゼミの議論でさえ、ギルバートを挟まなければ視線を交わせなかった。
会議テーブル越しの今も、正面から向き合うには、ほんの少しだけ意識が要る。
彼もまた、祖国で両親や美しい妻と、年越しを迎えているのだろう。

〈良いお年を、おやすみ〉

お礼への返事と、年明けに向けた条件整理。
シンプルな文面を送り終えて、カミーユは目を閉じた。

部屋は静かで、時計の針だけが進んでいる。
月明かりの中で、何かが動き出す音はしない。それでも確かに、もう同じ場所には戻れないとわかっていた。
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