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#26 The die is cast
26-2 The die is cast
しおりを挟む熟した赤果実を味わうかのように、桐谷はブルゴーニュグラスの中の香りを深く吸い込んだ。クロ・ド・ヴージョの希少ロットは紅を刷いたように赤く、ヴィアンドとして供された仔鳩の心臓の血を滴らせたよう。
「バニュルス酒の甘みと腿肉の旨味が絶妙ですね。ワインとのマリアージュも素晴らしい」
滑らかに紡ぎ出された言葉に、苦々しい感情が蘇る。
最も聞きたくないフレーズを思考から追いやるべく、直矢はカトラリーを動かす手に力を込めた。彼が恋人と描いていた美しい未来図をあざ笑うかのように、桐谷は核心に近づいていく。
「稀有なヴィンテージも、人生も――価値は管理の仕方次第です」
温度、照明、料理とのバランス。すべてが精巧な管理の元で演出される奇跡の雫は、今や毒々しい悪魔の盃のように思えた。
テーブルの中央で静かに咲く紫のヒヤシンスが、この場にいない恋人の面影を彷彿とさせる。意図を仄めかせる色に桐谷が視線を向けると、優雅な花弁は燭台の灯りに照らされた贄のように浮かび上がった。
「……あの子が得られるのは、単なる舞台経験やキャリアの幅だけじゃない」
琥珀色の瞳に揺らめくのは、単純な愛への渇望だけではない。高揚する野心と壮大なビジョンが滲んでいた。
「資金援助も、世界に羽ばたく機会も、自分なら思いのままに管理できる。その選択肢を与えられるのは、僕だけでしょう」
『世界』――ドーム公演の先まで見据えた口ぶりに、直矢は動揺を隠すのに必死だった。この男は一体、恋人をどんな高みまで連れ出そうとしているのか。
対する桐谷は確信の笑みを崩さず、酸の余韻を楽しむかのようにワインをまた一口含む。
華々しい成功譚を裏付けるストラテジー。そして、この青年は若くして実力も結果も兼ね備えている。
同時に、恋人の実姉から受けた忠告が直矢の脳裏を過る。純粋な恋慕なのか、掌の上で踊らせようとしているのか。ポーカーフェイスに隠された本心までは見極めることができない。
「確かに条件は整えられるのでしょう。
しかし物理的なお膳立てだけでは、彼の心は動きません。真の理解と信頼があってこそ、彼の魅力も未来も花開くのでは?」
底辺地下アイドルという蛹から羽化し、最旬アーティストの座を手にしたばかり。Digorミューズ抜擢も異例中の異例だった。しかし、SNSの話題性だけでは海外公演まで実現しない。会場手配、許認可、現地プロモーション、物流――彼が所属する弱小事務所に、そのすべてを手配する力はまだ無い。
一方、欧米で事業を確立させた強力な後ろ盾があれば、可能性は急上昇する。地球上の全大陸をSPLASHの飛沫で包み込むのは、古参フラワーズの譫妄でしかなかったワールドツアーが現実になる。例に漏れず、直矢もその一人だった。
「もちろん時間をかけて、慎重に事を運ぶつもりですよ。ですが、それ以前にお聞きしたいことがある」
すでにドーム公演を成功させる自信がある、その上での『世界』。
世界地図を乳白色で塗り替えようとする、圧倒的な先見力。今回のシンガポール進出にも、恋人を巻き込むつもりなのか。直矢がそう勘ぐったところで、桐谷の唇に挑発的な微笑が浮かぶ。
「――貴方は、紫音に何を与えられるんですか?」
鋭く冷淡な眼差しが直矢の心臓を抉る。
鴨の血に塗れたステーキナイフを、喉元に突き付けられた衝撃に眩暈がした。立場が逆転してから感じていた無力感が、この一瞬に鮮明に甦る。直矢は唇を噛み締め、喉の渇きをワインで潤した。
「俺は……アイドルの彼も、素顔の彼も愛してる。彼の真心に寄り添える」
もはや、主人として経済面で支援することは叶わない。今の恋人は、自分の年棒を優に超えてしまったのだ。唯一与えられるのは、紛れの無い愛と安らぎ。誠実でなかった過去の自分を張り倒したいほど、ひたむきな彼の存在すべてを愛していた。
「貴方が現れる前から積み重ねた時間が、俺達にはあるんですよ」
これまで二人で分かち合った時間は、夢でも嘘でもない。
紫の歌姫と出会って、直矢は打算の無い愛に初めて触れることもできた。彼を取り巻く環境が変わっても、自分に寄せてくれる清廉な想いはいつまでも同じまま。無条件の信頼が、二人の揺るぎない絆を築いていたのだ。
だが桐谷は露骨に嫌悪感を示し、容赦無く追い打ちをかける。
「トップオタでしたっけ?Fステの中継で、世間から何と言われているかわかりますか。
勘違いファン、もしくはボディガードですよ」
SNSや掲示板で散々罵られていることも、運命の再会を果たした二人の恋路を阻むヒール役でしかないことも、本人が一番知り尽くしている。
彼はゴシップの細部まで掌握しすぎていた。自身が仕掛けるショーの演出なのかと疑うほどに。
「外野からどう言われようと関係ありません。身分の差があろうが、俺達は愛し合っているので」
直矢は静かな覚悟を双眸に湛え、毅然と答えた。
もう、この男の支配欲に吞まれたりしない。あらゆる障壁から、恋人の繊細な心を守れるのは自分しかいないのだから。
「諦めの悪い人だ。貴方はトップアイドルの彼にふさわしくない……足枷にしかなりえないと言っているんです」
桐谷は高らかに右手を掲げ、軽快に指を鳴らす。
すると、扉の外で待機していた秘書がすばやく入室してくる。長野の山奥で見かけたのと同一人物が、仰々しく茶封筒を上司に手渡した。直矢が訝しげに視線を向けると、その封筒から飛び出したのは。
「この写真は……あの日の……!?」
バリ風のラブホテルから寄り添うように出てきた二人の写真に、直矢は目を疑う。
コラボカフェでランチを楽しみ、水族館でイルカショーを見て、ごく普通の恋人らしい時間を送った日。そして一室で愛し合った後、重要案件の連絡で追われるように建物を出た直後の瞬間を捉えたものだった。ずり落ちたサングラスの隙間から覗く愛らしい瞳に、直矢の呼吸は奪われる。
「状況が理解できたなら、大人しく身を引いてください」
有無を言わせない脅迫が、無情に響き渡る。
どこからどこまで糸を引いているのか。想像の域をはるかに超える計略に、直矢の胸の奥で血が凍るような感覚が走った。王者は不敵に笑み、グラスに残る最後の一滴を啜る。
「取引は最後まで続けさせてもらいますよ。貴方の能力は買っているので」
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