底辺地下アイドルの僕がスパダリ様に推されてます!?

皇 いちこ

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#2 渋谷は夜の7時

2-2 渋谷は夜の7時

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まるで、台風が過ぎ去った後のようだった。
直矢は皺一つなくプレスされたスーツに袖を通し、洗面所に置きっぱなしにしていたタイピンを着ける。もぬけのベッドには温もりが残っているようで、後ろ髪を引かれた。
一階のフロントを通る間際に横目で見ても、もちろん彼の姿は無い。直矢はぼんやりとした心地のまま、ロビーラウンジで朝食を摂った。経済新聞をながら読みする間は、評判のオムレツもクロワッサンも味気なく感じられた。

(……あいつ……バンドマンだったのか)

直矢は食後のコーヒーを啜ると、ジャケットの胸元に忍ばせていたチケットを取り出した。青年がフリーターと自称していたことに合点がいく。それも涙交じりに苦労を語っていたから、売れない方の、だ。

会場は渋谷。最近できたライブハウスなのか、見たことも聞いたこともない。
そもそも仕事の打ち合わせ以外では、寄りつきもしない場所だ。誰が好き好んで、異常なまでの人混みに近寄るものか。今日はハロウィン前の土日で、普段の数倍は混雑しているだろう。何せ、若者の音楽になどには微塵も興味はない。クライアントの接待が絡むなら別だが。直矢はカップを置くと、静かに胸ポケットにチケットを仕舞った。

チェックアウトを済ませ、タクシーを走らせること10分。
休日にもやるべきことは山積みで、家に帰れば休息もそこそこに時間に追われることになる。
月曜のクライアントミーティングに万全の状態で臨むための資料作り。パワーポイント100枚にも及ぶスライドは、叩き台を作っておいたので、あとは細部をブラッシュアップするだけ。そうこうするうちに、部下から確認の依頼が飛んでくる。仕事の持ち帰りや休日出勤は、業界では暗黙のルール。『UP or OUT』――昇進か退職かの実力主義の世界なのだから。プロジェクト単位と期末単位の人事評価で、己のクビを卓上に賭けながら、文字通り命を削って働く。使えない人間はプロジェクトからリリースされて、available(お払い箱)になるだけだ。心身を病む者も少なくない中、淘汰された猛者だけが生き残る。繁忙時は残業月200時間にものぼり、誰もが限界社畜の粋をとうに突破していた。

階下まで降りる時間も惜しく、昼食は相変わらずデリバリーだ。
長い夏が終わり、いつの間にか一足飛びに晩秋の気候がやってきた。1LDKの窓の外は暁色に変わり、夜の薄闇に塗り潰されようとした時。デスクの上に置いていたスマホの振動が鳴り響く。

通話ではない。アラームだった。
時間は18時ちょうど。根を詰め過ぎないよう、休憩のタイミングで設定したものだった。しかし、思惑はもう一つある。直矢はPCメガネを外して、深い溜息を吐いた。

「……どうするかな」

無理やり集中したおかげで、仕事は9割ほど片付いた。
だが、その合間にも時折昨夜の映像がちらつき、何度か作業の手が止まった。悩ましげに濡れた白い肌。何度も快楽に歪んだ瞳。目を離せない危うい色香。
一夜の関係を引きずるつもりは毛頭ない。にもかかわらず、ある疑問が直矢の頭から離れなかった。あの鈴の鳴くような声で、どんな歌を聞かせてくれるのかと。

これ以上の生産性低下は、自分で自分の首を絞めるようなものだ。
今から出れば、まだ開演時間に間に合う。直矢は体の良い大義名分を見つけると、弾かれたように身支度を済ませた。コンシェルジュに見送られながらマンションを出て、メトロを乗り継ぐ間も、抜かりなくタブレットで仕事を続けた。
スマホに気を取られた人だかりにぶつかりそうになりながら、渋谷駅の地下街を早足で歩く。これだから、この街は嫌なのだ。

(――どうして貴重な休みを割いてまで、こんな掃き溜めに)

空気を吸うだけで具合が悪くなるセンター街を避けたのは、もちろんのこと。
ランジェリーショップ、大手家電量販店、楽器屋。雑多な店舗がひしめく通りを抜けて、ようやく目的地へ辿り着く。≪Voom Shibuya≫――黄色のネオンサインが輝く会場前には、すでに長蛇の列ができていた。頭上では、忙しなく点滅する屋外ビジョンがノイズを発している。

例年とは違う規制のおかげか、地上ではほとんど見かけなかったコスプレ姿がここで目立つ。ナース、ミニスカポリス、バンパイア。際どい肌の露出が多く、女には困らないアラフォーでもさすがに目のやり場がない。その中に混ざって、折り目正しい着物姿もちらほら。予想はしていたが、圧倒的に女性の比率が高い。年齢層はバラバラで、制服姿の女子高生まで。友人同士での参加者たちは、興奮気味に話しながら順番待ちをしている。一体何の集会かと目を疑う、異様な光景だった。

平静を装いながら直矢が内心戸惑っていると、ガードパイプの前で、プラカードを掲げた男性スタッフが指示を出していた。

「ただいま、整理番号順に入場開始してま――す!」

関係者であっても、同性の人間を見つけたことに安堵する。
直矢は咳払いを一つ落とし、クラッチバッグから取り出したチケットを見せた。

「失礼。会場はここですか?」
「はい、こちらの番号を持って最後尾にお並びください」

地下に続く階段にズラリと並んだ列が、少しずつ前進している。
人いきれと香水の混ざった化学的な匂いに、直矢は若干の頭痛を覚える。ただ待つのも居心地が悪く、タブレットを開いて資料の手直しを再開した。

(……完全にアウェイだ。よく調べもしないで、俺としたことが)

案件が立て込んでいる最近は、持ち前の情報収集力をプライベートに回す余裕もない。ひしひしと肌で感じる疎外感に、後悔の念を抱き始めていた時だった。
背後から近づいていたヒールの音が次第に大きくなる。甲高い靴音は、直矢のすぐ後ろで止まった。

「良かった――、間に合ったぁ!」

肩で息を切る女性客の元へ、スタッフが気遣う様子で近づく。会話の様子から、どうやら常連客らしい。

「お疲れ様です。どうぞ」
「わっ、ありがとうございます!さすがに213番かぁ、残念」

横目で盗み見ていると、すぐ後に慌ただしい足音が響く。
アスファルトを力強く叩く靴音に続いて現れた風貌に、直矢は思わず目を見張った。

「お、お疲れ様です、姐さんっ!ふぅ、ふぅっ、ひぃ……ギリギリだぁ……!」

牛乳瓶の底のように分厚いメガネ。色褪せたチェック柄のシャツ。額に張り付いた心許ない毛髪。そして、息を切らすたびに揺れる贅肉。
秋葉原のメイド喫茶から直行してきたような中年男が、首に巻いたタオルで大粒の汗をぬぐっていた。

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