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第九章
『情火』#2
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あれはロイスが六歳か七歳の頃だった。
屋敷の庭に温室があり、中には大切に育てられているバラがあった。
ロイスは庭師に「トゲがあるから危ない」との理由で近付かせて貰えなかったが、その時は十五歳だったシエンと二人で温室に忍び込んだ。
中には何種類もの花が育てられていたが、ロイスはその内の、クリーム色のバラに真っ直ぐに近付いた。
「ロイス様、トゲにお気を付けて」
「うん」
そう答えて、背伸びをしてバラに鼻を近付ける。
彼なりにトゲに気を付けているのだろうが、シエンはロイスが怪我をしないか、気を揉みながら見守る。
「──ねえ、シエン」
こちらに背を向けているロイスの表情は見えない。
「はい、何でしょう?」
「このバラの“花言葉”、知ってる?」
シエンは好奇心旺盛で、ちょっと背伸びしたい年頃の少年にありがちな質問だ、と思った。だが、この年齢の少年から“花言葉”という単語が出て来る事に、少し違和感を覚えた。
これは「教えて欲しい」のか「教えたい」のかも、分からなかった。
「…申し訳ありません。勉強不足で存じ上げません」
しばし考えて、シエンは伏せ目がちに謝罪した。
「パパがね、このバラは“特別なバラ”なんだって」
声に優越感が含まれていたが、無邪気な子供の行動の一つだと、気にも留めなかった。
「そうなんですね」
シエンは後ろ手を組み、不動でロイスを注視する。
「庭師の人が何年もかけて作った、うちだけのバラなんだって」
ロイスがシエンに駆け寄って、背伸びをする。
シエンは慌ててロイスの背丈に合わせて、腰を屈めた。
そして、ロイスが耳元で囁く。
「──だからね、“花言葉は無い”んだよ」
ロイスの小さな声と、息遣いを耳で感じると、今まで彼に感じていた「少し歳の離れた弟のような存在」が揺らぐのを感じる。
ロイスは内緒話を終えると、“悪戯《いたずら》”が成功して嬉しそうに笑ってみせた。
シエンはやられた、と思った。
だが、彼は主人のご子息であり、自分はその執事の息子──怒ることなど出来るはずがない。
このような小さな悪戯《いたずら》はいつものことのはずだったのが、今は別の感情が心をざわつかせていた。
「では、ロイス様なら、どんな花言葉をお付けになりますか?」
シエンはそれを隠すように、務めて笑顔を作る。
「うーーん…」
ロイスが少し考えると、突然手を掴んで来た。
心臓がドキリと高鳴る。
「──わかんない‼︎ でもいい匂いだったね!」
その時、開いていた天窓から、風が吹き込む。
シエンの肩まで伸びた黒髪がなびき、“特別なバラ”の香りを小さな天使が運んで来て、身体を包み込んだ錯覚に陥った。
「──次はこっちだよ」
ロイスが手を引っ張った。
この時…シエンにとってロイスは特別な存在になった。
ロイスは制服の上着のポケットから、シエンの手紙を取り出す。
『今度の土曜日、空いていますか? X.U』
見間違いは無いか、何度も読み返す。
確かに特徴的なハネのある、シエンの文字。そしてイニシャルもシエンのものだ。
シエンが先日と同じ鮮やかな青色のマグカップと白いマグカップを片手に一つずつ持って来る。
「お待たせしました」
青色のマグカップを差し出されると、アールグレイの香りと、ほんのりと甘い香りがする。
「シエン、これ…俺の好きな紅茶だ」
「今日はちゃんと用意しておきましたよ」
シエンがニコリと笑った。
「前のお茶でも良かったんだけど」
ロイスは手紙のことを、どう切り出そうか悩みながら、チラリとシエンを見る。
「では、今度からどちらが良いか、お聞きしてからにしましょう──で、私に話があるのでしょう?」
シエンの表情が、柔らかいものからロイスを揶揄《からか》うような含み笑いに変わった。
ロイスの心臓の鼓動が早くなる。
いよいよ、その時がやって来た。
「こ、れ…、どういう意味だ?」
手に持っていた手紙を机の上に置いた。
授業中に自分から頷《うなず》いて、了承の意を伝えておきながら、変な質問だと思った。だが、今はこれが精一杯の切り出し方だった。
シエンはその紙に目を落とす。
「そのままの意味ですよ。今度の土曜日、空いていませんか?」
ロイスはマグカップの色に似た、キラキラしたスカイブルーの瞳でシエンを見る。
「空…空いてる! 何の予定も無い!」
期待で気持ちが前のめりになり、自分が聞いたことの無いくらい早口になっていた。
「それは良かったです。デート、行きましょう」
「……‼︎」
予想はしていた。と、言うより確信していた。
それでも本人の口から直接聞くと、嬉しさが違う。
瞬きも忘れて口元が緩むのを、必死で堪える。
「──行、行く…行く! 行くっ‼︎」
ロイスは思わず立ち上がる。
「はっはっは…ロイス様、落ち着いて。座ってお茶でも飲んで下さい」
シエンは普段の冷静なロイスらしからぬ行動に、思わず声を出して笑ってしまった。
屋敷の庭に温室があり、中には大切に育てられているバラがあった。
ロイスは庭師に「トゲがあるから危ない」との理由で近付かせて貰えなかったが、その時は十五歳だったシエンと二人で温室に忍び込んだ。
中には何種類もの花が育てられていたが、ロイスはその内の、クリーム色のバラに真っ直ぐに近付いた。
「ロイス様、トゲにお気を付けて」
「うん」
そう答えて、背伸びをしてバラに鼻を近付ける。
彼なりにトゲに気を付けているのだろうが、シエンはロイスが怪我をしないか、気を揉みながら見守る。
「──ねえ、シエン」
こちらに背を向けているロイスの表情は見えない。
「はい、何でしょう?」
「このバラの“花言葉”、知ってる?」
シエンは好奇心旺盛で、ちょっと背伸びしたい年頃の少年にありがちな質問だ、と思った。だが、この年齢の少年から“花言葉”という単語が出て来る事に、少し違和感を覚えた。
これは「教えて欲しい」のか「教えたい」のかも、分からなかった。
「…申し訳ありません。勉強不足で存じ上げません」
しばし考えて、シエンは伏せ目がちに謝罪した。
「パパがね、このバラは“特別なバラ”なんだって」
声に優越感が含まれていたが、無邪気な子供の行動の一つだと、気にも留めなかった。
「そうなんですね」
シエンは後ろ手を組み、不動でロイスを注視する。
「庭師の人が何年もかけて作った、うちだけのバラなんだって」
ロイスがシエンに駆け寄って、背伸びをする。
シエンは慌ててロイスの背丈に合わせて、腰を屈めた。
そして、ロイスが耳元で囁く。
「──だからね、“花言葉は無い”んだよ」
ロイスの小さな声と、息遣いを耳で感じると、今まで彼に感じていた「少し歳の離れた弟のような存在」が揺らぐのを感じる。
ロイスは内緒話を終えると、“悪戯《いたずら》”が成功して嬉しそうに笑ってみせた。
シエンはやられた、と思った。
だが、彼は主人のご子息であり、自分はその執事の息子──怒ることなど出来るはずがない。
このような小さな悪戯《いたずら》はいつものことのはずだったのが、今は別の感情が心をざわつかせていた。
「では、ロイス様なら、どんな花言葉をお付けになりますか?」
シエンはそれを隠すように、務めて笑顔を作る。
「うーーん…」
ロイスが少し考えると、突然手を掴んで来た。
心臓がドキリと高鳴る。
「──わかんない‼︎ でもいい匂いだったね!」
その時、開いていた天窓から、風が吹き込む。
シエンの肩まで伸びた黒髪がなびき、“特別なバラ”の香りを小さな天使が運んで来て、身体を包み込んだ錯覚に陥った。
「──次はこっちだよ」
ロイスが手を引っ張った。
この時…シエンにとってロイスは特別な存在になった。
ロイスは制服の上着のポケットから、シエンの手紙を取り出す。
『今度の土曜日、空いていますか? X.U』
見間違いは無いか、何度も読み返す。
確かに特徴的なハネのある、シエンの文字。そしてイニシャルもシエンのものだ。
シエンが先日と同じ鮮やかな青色のマグカップと白いマグカップを片手に一つずつ持って来る。
「お待たせしました」
青色のマグカップを差し出されると、アールグレイの香りと、ほんのりと甘い香りがする。
「シエン、これ…俺の好きな紅茶だ」
「今日はちゃんと用意しておきましたよ」
シエンがニコリと笑った。
「前のお茶でも良かったんだけど」
ロイスは手紙のことを、どう切り出そうか悩みながら、チラリとシエンを見る。
「では、今度からどちらが良いか、お聞きしてからにしましょう──で、私に話があるのでしょう?」
シエンの表情が、柔らかいものからロイスを揶揄《からか》うような含み笑いに変わった。
ロイスの心臓の鼓動が早くなる。
いよいよ、その時がやって来た。
「こ、れ…、どういう意味だ?」
手に持っていた手紙を机の上に置いた。
授業中に自分から頷《うなず》いて、了承の意を伝えておきながら、変な質問だと思った。だが、今はこれが精一杯の切り出し方だった。
シエンはその紙に目を落とす。
「そのままの意味ですよ。今度の土曜日、空いていませんか?」
ロイスはマグカップの色に似た、キラキラしたスカイブルーの瞳でシエンを見る。
「空…空いてる! 何の予定も無い!」
期待で気持ちが前のめりになり、自分が聞いたことの無いくらい早口になっていた。
「それは良かったです。デート、行きましょう」
「……‼︎」
予想はしていた。と、言うより確信していた。
それでも本人の口から直接聞くと、嬉しさが違う。
瞬きも忘れて口元が緩むのを、必死で堪える。
「──行、行く…行く! 行くっ‼︎」
ロイスは思わず立ち上がる。
「はっはっは…ロイス様、落ち着いて。座ってお茶でも飲んで下さい」
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