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99回目のエピローグ

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 結果的に言えば、俺は村上との約束を守ることができなかった。
 俺の意志とは別に、様々な人間の欲望と都合がぶつかった結果として、俺は停学になり損なってしまったからだ。
 当然、担任の吉田に見張られながら反省文を書かされたが、警察に比べれば大したことじゃなかった。
 母さんからの送金も、今のところは途絶えていない。

「あ、桜井じゃん。おはよう」

 学園の構内に入ったところで、いつも通り滝川が話しかけてきた。

「おはよう、滝川」
「桜井、先週の古文の宿題ってちゃんとやってきた?」
「やったよ。まさか忘れたのか?」
「いやー、うっかりしててさ」

 いつも通りにそう言って、滝川は爽やかに笑う。

「見せないぞ」
「えー、ケチだなぁ。ジュース奢るからさ」
「…………しょうがないな」
「へへ、サンキュー」

 階段を登りながら、本当にいつも通りの他愛ない会話を滝川と交わす。
 俺と違い、村上は数日間の停学処分を受けていた。
 一方の俺はというと、停学にはならないものの欠席を強要されるという、なんだか曖昧な処分が下された。
 おそらくは学園の大人の都合と、俺と村上のどっちがより正直者であったかによる違いなのだろうと思っている。
 もちろん、正直者は村上の方だ。

「瀬戸ーおはよー」

 いつも通り三階に辿り着き、教室に向かって歩いていると、滝川が瀬戸に声をかける。
 瀬戸は、女友達との会話を一時中断し、こちらを振り返る。

「おはよー、滝川」
「二人で何の会話してたん?」
「ちょっとオススメの本の話」

 本当にいつも通りの、本当に他愛のない話。
 ただ、この話はあまり俺の好みではなさそうなので、目の前にある三人分の存在感を無視して先に教室に向かう。

「へー。どんなん?」
「あはは。滝川にはよくわからないと思うよ」
「えー」

 それらの存在感は、さも当然のように俺の後ろについてくる。
 友達と同じ空間を共有する心地よさと、ほんの少しの圧迫感。

「それじゃな。また喧嘩すんなよ?」
「はいはい」
「じゃねー」

 窓側にある自分の席に向かう滝川に、俺と瀬戸が挨拶を返す。
 居合わせたもう一人は、何がツボに入ったのかわからないが、笑っていた。

「さて、と」

 俺は、廊下側にある自分の席に座る。

「あー、朝一で英語はだるいなー」

 瀬戸が、俺の隣の席に座る。
 ついこのあいだ席替えがあったばかりなのに、結局俺たちの席はほとんど変わらなかった。

「本当にいつも言ってるよな、それ」

 俺の後ろで、椅子の動いた音がする。

「はぁ……」

 いつも通りになって欲しくないため息が出てしまう。

「最近いつもため息ついてるよね」

 そりゃあそうだろう。
 こんなところにいたら、一日中圧迫感に襲われて、溺れて息が詰まりそうなんだから。

「いや、何でもない」

 何でもない、と思いたい。

「ほんとにー?」

 コミュニケーション能力が高すぎる瀬戸は、きっと何もかもわかっている。
 何もかもわかっているのに、何も助けてくれず、俺のことをからかった目で見ているだけだ。

「…………」

 チク。
 酷い奴。いじめの現場を見ていることの何が楽しいんだか。

「…………」

 チクチク。
 自分はあくまで傍観者だから悪くないってか?

「…………」

 チクチクチクチク。
 でも、いじめっ子と仲良くするのは、もう実質いじめだぞ、いじめ。

「…………」

 チクチクチクチクチクチクチクチク。
 お前は俺とも少しは友達で、情があったりはしないのかよ。
 チクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチク。

「…………あぁぁぁぁぁ」

 チク、一人の世界に、チク、こもりたいのに、チク、さっきから、チク、邪魔が、チク、入り続けて、チク、いい加減、チク、イラっと、チク、してきた。
 チク。

「なんだよ」
「…………」

 振り返っても元凶は何も言わず、上目遣い気味に微笑んで、曖昧に俺と目を合わせてくる。
 その目は何かを訴えてきてるようにも見えるけれど、俺にはよくわからない。
 せいぜい「おはよう」とか「私に挨拶はないの」とか、そんなところだろうとは推測するけど、あくまでそれは文脈に対する論理的な思考の産物だ。
 目と目で話すとか、目と目で通じるとか、そんなことあり得ない。
 だって今まさに目と目を合わせて俺が問いただしても、ちっとも俺の苦痛は伝わってくれていないし、向こうの行動原理も全く伝わってこない。

「紗花もほどほどにしてあげなよー」

 見かねた瀬戸が、あまりにも遅すぎるフォローを入れてくる。
 それをするなら、できればおよそ二十四秒前に入れて欲しかった。
 でも、別に口には出さない。
 馴染みのない名前が出てきてしまったせいで、やる気が削がれた。

「ふふ、はーい。愛美ちゃんがそう言うなら」

 目の前にいる女子――七瀬が、瀬戸に視線を向けて返事をする。
 それをするなら、ついさっきちゃんと質問に答えて欲しかった。
 でも、別に口には出さない。
 そんな間柄じゃないし。

「はぁ……」

 思わずため息が出る俺を、七瀬はいじめるようにニコニコして眺めている。
 全部お前のせいだ。
 俺が停学になり損ねたのも。学園に戻ったら変な噂が広まっているのも。
 村上がA組ではなく、今は生徒指導室に通ってるのも。
 俺と村上が、あれから一度も面と向かって話せていないのも。
 俺と瀬戸が、出身中学が同じせいでこうして傍に配置されているのも。
 お前が人目を惹いてしまうから、大人達が過剰に配慮させられる。
 お前がA組に来てしまったから、俺は毎日こんなに苦しめられる。
 全部が全部、お前のせいだ。

「おはよう、桜井くん」

 いじめっ子でトラブルメーカーな奴の挨拶なんて、返したくない。
 だから、俺は無視をすることで応える。

「ひどいなー」

 それっきり七瀬はもう何も言わないし、何もしてこない。
 ストーカーだとか大それたことを言っていたけど、結局嘘だったし。
 こうして大人の都合で近くにいるだけで、別に毎朝待ち伏せなんかもされていないから。
 嘘つきで、最低な奴。そんなお前なんて大嫌いだ。

「…………」

 相変わらず俺たちは、見かけだけは近くなった距離のまま、中途半端な空間を共有している。
 それは、はじめて俺と七瀬が出会った頃と、少しだけ似ていた。
 結局のところ、俺たちはどちらも他人と上手く付き合えない人間で、そこだけは、よく似ていたんだと思う。
 七瀬は何もかも変わってしまって、俺はいつまで経っても変われないけれど、そこだけは共通している。
 そのせいで俺たちは、自然とこんな形に収まってしまうのかもしれない。
 何もかも巻き戻せないのに、何の変哲もない一倍速再生で、何故だか振り出しに戻ってしまっている。

「…………ふふ」

 でも、まあ。そうだな。
 今の七瀬と俺に友情なんてあり得ないし、俺と七瀬に恋愛なんてもっとあり得ない。
 あれだけ言葉を交わしても喧嘩しても、わかり合えないんだから。
 お互いに自分が最低な奴だって相手にわからせるための、小学生みたいで不毛な勝負を続けているんだから。
 それでも、まあ、かろうじて、ほんの少し、そう、小指の先ほどには。

「ははは」
「どしたの? 桜井」

 これからも七瀬の人生に関われることを、俺は嬉しいなと感じてしまっていた。

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