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しおりを挟む「夢だったのか」
皇子は言った。
「それとも、ほんとうにあったことなのか。よく憶えていない。ずいぶん小さな時のことだから」
視線を空に彷徨わせ、ゆっくりと、少し笑みを浮かべて皇子は語ったものだ。
「野遊びにでも出ていたらしい。どこかの広い野にわたしは立っていた。目を上げると空に真っ白な鳥が飛んでいた。手を伸ばしたが、とどくわけもない。その時、誰かがわたしを抱き上げて、空に高々とかかげてくれた。大きな手だった。顔を見ると、あの男だ。わたしは嬉しかった。誰もそんなことはしてくれなかったからな。鳥はどこへ行く? とわたしは訊ねた。天へ、と答えがかえった。大空の彼方へ」
東国では、死者の魂は白い鳥になって空に飛び去っていくと言われている。
東国生まれの男がそう言っても、おかしくはなかった。
あったことなのかもしれない。本当に。
* * *
はじめてあの男に会ったのは、おれが十五の夏だった。
通っていた女が葛城にいて、その帰りだ。
山中は、したたる緑にむせかえるようだった。
高々と昇った陽は、大地をあますことなく熱しはじめた。
そこかしこで郭公が鳴き、小うるさい蝉の声とあいまった。
暑さでいいかげんまいったおれの耳に、救いのような水音が聞こえてきた。
近くに沢があったことを思い出した。一息ついて水浴びするのも悪くあるまい。
おれは道をそれ、山に分け入った。
沢の近くで立ち止まった。先客があったのだ。
まだ若い男だ。
早い水の流れも両岸の大きな岩も、さかんに陽の光をはじき、うっそうと繁った草々を白く曝していた。
裸の上半身を水で濡らしていた男は、だから光を浴びているようにも見えた。
おれの気配に気づいて、男はすばやく振り返った。
身のすくむような鋭いまなざしは一瞬のことで、それはすぐに笑みをふくんだものとなった。取るに足らぬ小僧が立っていたわけなのだから。
おれは曖昧に頭を下げ、逃げるようにその場を立ち去った。
胸のとどろきは、なかなか止まなかった。
いったい、何者なのだろう。
あの悠然たる態度は、一介の野人とも思えない。
ほどよく陽焼けしたたくましい肢体が、誇らかにかがやいていた。照りつける夏のさかりの陽をうけて、のびのびと自由をほしいままにして。
妙に心騒ぎを起こさせる男だった。
あたりにたちこめる青葉の匂いと同様、溢れたつその生の匂いに、おれはしたたか打ちのめされていたのかもしれない。
二度目に見たのは、その歳の秋だ。
法興寺の槻の木は、早くも葉を落としていた。
大きく枝を広げているその下で、蹴鞠に興じているのは皇族や貴族の子弟たちである。
先年亡くなった舒明帝の長子中大兄皇子や蘇我入鹿の姿もその中にあった。
おれは、有馬皇子の舎人になったばかりだった。
まだ小さな皇子について、見物人の中に立っていた。
鞠はよく晴れた空を背に、彼らの足先を器用に行き来した。おれはやがて、見物人の中の、ひとり抜きんでて背の高い男に気がついた。
その顔を認めて驚いた。夏に見たあの男にまぎれもなかったからである。
袍をきっちりと着込んだ彼は、夏とはうってかわってしんと落ちつきはらった姿だった。
見物人の中で、その目ばかりは鞠を追っていなかった。その目はただひとりに、当時十七才の中大兄皇子ばかりに向けられていた。
どう調子が狂ったか、鞠を蹴ろうとした中大兄皇子の右沓がすっぽりと脱げた。
落ちたのは、男の目の前だった。
男は、かがみこんでそれを拾った。
ゆっくりと進み出て、沓を中大兄皇子に差し出した。
中大兄皇子は、男と視線を合わせた。
その一瞬。
それが、あの雨もよいの空の下、蘇我入鹿に振り上げた中大兄皇子の最初の一閃になろうとは、誰が想像できただろう。
中臣鎌足。
名は後で聞き知った。
実際、その時まで鎌足を知っていた人間はごくわずかだったと言っていい。
大和の人間ではなかった。中臣は中臣でも東国の中臣。常陸鹿島社の宮司の息子である。十代のころ本家の中臣御食子を頼って大和に上って来たという。
実子のなかった御食子は、この東国生まれの男をことのほか愛し、数年前に家業を継がせようとした。が、鎌足は御食子の親族に遠慮してかそれを辞して、しばらくは飛鳥を離れて暮らしていたらしい。
上背があるひょろりとした身体つきと、いやにはっきりとした目鼻立ちをしており、それがためか改新政府の反対派に、後々まであれは蝦夷の血を引いているにちがいない、などと陰口をたたかれることになった。
鎌足が、はたして蝦夷の血を引いていたかどうかは知らない。いずれにせよ東国は辺境、その東国生まれの田舎人が、突如としてこの国の頂点に立ったのだ。並々でない才覚だろう。
蘇我氏が滅びた後、皇極女帝にかわって、その弟の軽皇子が即位した。
孝徳天皇──つまり、有間皇子の父親である。
中大兄皇子が、軽皇子を推したのも、鎌足の助言だったということだ。皇太子の身分の方が、自由に政治の腕をふるえるし、長老の軽皇子を立てておいた方が、人臣の心を掴みやすいというわけで。
傍目から見た鎌足は、雲中に隠れた月のような男だった。
必要以外のことはめったに語らず、声を荒げ、表情を乱したりすることは決してなかった。たいがい中大兄皇子の側に慎ましく控えており、それがことさら策謀家然とした印象を人に与えた。
だがおれは、もう一人の鎌足を知っていた。あの夏の日、まるでそれが特権であるかのようにほしいまま、まばゆい陽光に身をさらしていた姿を見たからには。
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