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しおりを挟む澄みきった秋の風に、真新しい木材や朱の匂いが交じってくる。
難波に都が遷されて、六年がたつ。
長柄豊碕宮は、完成間近だった。これまで仮宮に住んでいた帝たちも、出来上がったばかりの内裏に、すでに引き遷っている。
まだ土の新しい植込みを横切って、おれは厩に向かった。
有馬皇子の散策の伴を言いつかっていたのだ。
十二になったばかりの皇子は、華奢で小柄な身体つき。だが、いかにも怜悧そうなその面差しは、だいぶ大人びて見えた。
常に相手を見据えているような黒い大きな瞳。細い鼻梁と眉の間の青白さがいくぶん神経質そうなところを見せ、唇はきかぬ気にひきしまっている。
幼い頃から、皇子はおれの誇りだった。まわりの者に、将来を期待させる煌めきのようなものを、たしかに皇子は持っていたのだ。
いずれは、この国になくてはならぬ人物になるだろう。
そのころのおれは、そう信じて疑わなかった。
ただ、内裏の一角にある有馬皇子の住居は、きらびやかな宮殿の活気とはうらはらに、どこかひっそりとしていた。母親の小足媛が、早くに亡くなっていたせいだろうか。
帝は、まるで皇子をかまわなかった。
帝の心は当時、中大兄皇子の妹の若い間人皇后にばかり向けられていたが、それ以前でも皇子への情は薄かったようだ。そのよそよそしさは、見ているおれでも奇妙に思えるほどだった。皇子は帝のたった一人の子供ではないか。
もっとも、帝の種、有馬皇子の弟と噂されている子供が一人、いるにはいた。
名は真人、他ならぬ鎌足の長子である。
蘇我氏打倒を企てていた鎌足は、中大兄皇子に出会う前、まず帝に近づいたのだという。蘇我氏全盛のころ、誰にも顧みられることのなかった帝はしげく訪ね来る鎌足に深く感じ入り、ついには妃の小足媛をゆるし与えた。小足媛はすでに帝の子を身ごもっており、それが真人だというのだ。
やがて鎌足は帝の器量を推し量り、ともに大事をなすには足らぬ人物とみなしてそのもとを離れた。真人ばかりが鎌足の子として残されたわけだった。
噂の出所はわからなかった。真偽のほどもだ。
だいたい、軽皇子時代の帝に誰が目をむけていただろう。蘇我氏が未だ健在ならば、帝にはとうてい即位などという機会はめぐってこなかったはずなのだから。
ただ、おれは何度か真人を見かけたことがある。見かけるたび、それが単なる噂だと笑ってすませないものを感じたことは確かだ。
線の細い、神経質そうな面差しの──皇子と真人は、実によく似ていたのである。
「大和川の方に行ってみよう、米麻呂」
有馬皇子は、軽やかに馬にまたがって言った。
「きっと、紅葉が美しいはずだ」
おれも、皇子の後に続いて馬を奔らせた。
大和川は、都の南にある。整然と区画された都の道路を抜けると、稲刈を終えた田がひろびろと続き、その向こうは鮮やかに色づいた山々を背にした薄野原だった。
皇子は、薄野の手前で、突然馬の手綱を引いた。
前方に、賑やかな女たちの一団がいたのだ。
「あら、有馬皇子さま」
女たちにかこまれていた少女が、顔を上げてにっこりと微笑んだ。
年の頃十三四、髪の毛のたっぷりとした愛らしい少女だ。両手に、白い萩の花を抱えている。
鎌足の娘の、氷上娘だった。最近、中大兄皇子の弟、大海人皇子の妃になることが決まったばかりだ。
「こんなところで、なにを?」
皇子は、馬から降りて氷上に歩み寄った。
氷上の侍女たちが、頭を下げた。
「ご覧の通り、花をつんできました。秋の花を家の庭に植えかえようと思うの」
「うまく、根づけばいいね」
「ええ」
「真人は?」
皇子は、ふと眉をひそめて尋ねた。
「家にいます」
「真人が唐に行くというのは、本当なのか?」
「皇子さまもご存じ?」
氷上は、軽くため息をついた。
「ええ、本当です。学問僧になって、来春、唐へ」
おれは、あやうく声をあげそうになった。
あまりにも、とっぴな話だった。
唐に行くことが、どんなに危険きわまりないことなのかは、おれだって知っている。
長い船旅。船が無事に風に乗り、海を渡りきるという保障はどこにもない。命がけと言っても、決して言い過ぎではないのだ。
まして、噂はどうあれ、真人は鎌足のただひとりの息子ではないか。このころ、不比等はまだ生まれていなかった。
高位にある者の長男が僧になるなど、聞いたことがない。
「誰が決めたのかな」
皇子は首をかしげた。
「お父さま」
氷上は、ちょっと微笑んだ。
「自分が行きたいころだけれど、そうもいかないからって。どうするかは真人にまかせるとおっしゃいましたけど、真人はもう行く気のようです」
「そうか」
皇子はうなずき、まぶしそうに目を細めた。
「唐とはな」
氷上娘と別れた後、ゆるく流れる大和川のほとりに立って、皇子が、ぽつりと言った。
「思い切ったことをする」
「はい」
「口うるさい者たちが、また言いはやすだろうな。実の親なら、とうていできないことだとか、なんとか」
おれは、皇子の顔を見た。皇子は、低い笑い声を上げた。
「ご存じだったのですね」
「そりゃあそうさ」
皇子は、川辺の葦を折って水面をぴちゃぴちゃとたたいた。
川を流れる色鮮やかな紅葉が、葦のまわりでくるくる舞った。
「米麻呂は、どう思う?」
皇子は、ふいにおれを見つめた。
「わたしに、内臣のお考えなど」
おれは、とまどった。
「ただ、真人どのが、どなたの子であれ、氷上娘に言われたことが、内臣の本心ではないか、というような気はします。唐に行きたいのは、内臣の方ではないか、と」
照りつける夏の盛りの陽をうけて、のびのびと自由をほしいままにしていた男。
果敢な夢を抱いて大和に上ってきた東国生まれの青年は、まだ鎌足の中に息づいているのだろうとおれは思う。さらに広い世界を求めてやまずに。
おれは、鎌足をはじめて見た時のことを、ぽつりぽつりと皇子に語った。これまで、誰にも話さなかったことなのだが。
「そうかもしれない」
皇子は、うつむき、くすりと笑った。
「不思議な男だ、鎌足は」
翌年、遣唐船は海に出た。
入江を見下ろす高台で、おれは有馬皇子といっしょに船を見送った。
港は女たちの振るとりどりの領巾に彩られていた。
送別のざわめきといりまじり、使節たちの家族のものにちがいないひそやかな泣き声が風にのって聞こえてきた。
鎌足は妻の与志古娘と氷上ら二人の娘たちを連れていた。与志古娘は、けなげに涙をこらえている様子で、鎌足はしっかりと彼女をささえている。
いまは法名貞慧と名乗る真人の幼い僧形が痛々しく胸にうかんだ。
かたわらの皇子をうかがうと、皇子は瞳の色を深くして海に見入っていた。
弟とも言われていた少年を、どんな思いで見送っているのか。
「小さいな」
ややあって皇子がぽつりと言った。
おれは、もう一度船に目をやった。
明るい五月の波間を進む四艘の船は、いかにも小さく見えた。
大海への可憐なあこがれのように帆にちろちろと光をうつし、点となって視界を去った。
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