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しおりを挟む「中大兄皇子は、飛鳥に都を戻すつもりだそうだ」
遣唐使たちが旅立って間もない夏の日、世間話のように有馬皇子が言った。
いつもの散策に出かける時だ。おれは、ぽかんとして馬上の皇子を振り仰いだ。
「飛鳥へ?」
長柄豊碕宮が完成したのは、つい去年のことではないか。民人も、ようやく難波になじみはじめた所だというのに、なぜまた飛鳥に戻ることがある?
「どなたが、そのようなことを」
「間人皇后さ。中大兄皇子のことに関しては、帝よりもお詳しい」
中大兄皇子が実の妹、間人皇后と通じているという噂は、飛鳥にいた頃からあったものだ。しかし、有馬皇子の口からあっさり言われてみると──。おれは、次の言葉を失ってしまった。
皇子は、おれの当惑をおもしろそうに見下ろして、馬を奔らせた。
おれは、あわてて後を追った。
間人皇后のことも含めて、帝と中大兄皇子の関係は、はじめからしっくりしないものだった。
帝に同情すべき点は大いにある。結局のところ、帝とは名ばかりの存在にすぎなかったのだから。
難波遷都以来、矢継ぎ早やに打ち出された政策は、老いてかたくなな帝の頭からはとうてい生まれるはずのないものだった。
国博士たちの力はあったにせよ、それはやはり若い中大兄皇子と鎌足のものだったろう。二人は新たに日本と名づけたこの国を掌にのせて、しきりに形づけようとしていた。
むろん、異物をとりのぞくことは忘れずに。
飛鳥遷都を、帝は最後まで反対した。
よくよく考えてみれば、難波に住む官人たちの本據はまだ飛鳥にあり、飛鳥への帰還は誰もの望みだったろう。海に臨む難波は、半島への防衛上、好ましくないのも確かなことだ。
帝の反対は、中大兄皇子らへのはかない抵抗だったにちがいない。
だが、中大兄皇子もまた帝を拒んだ。郡臣ひきつれ、この年のうちに飛鳥へ帰ったのである。
間人皇后も、兄たちと行動を共にした。
帝と、少数の反中大兄皇子派ばかりが、真新しい宮にこびりついた怨念さながら、難波に残り続けた。
帝は、ほどなく病の床についた。
有馬皇子は、たびたび帝の病床を見舞ったものだ。
「哀れな老人だからな」
皇子が、ふとつぶやいたことがある。
「わたししかいない」
さびしげに曇った顔は、妙に子ども子どもしたものになり、皇子はそれをふり払うかのように皮肉めいた笑みをうかべた。
「それにしては、好かれていないようだが」
まったくだった。
帝は、見舞いに行った有馬皇子に、声すらかけないこともあったようだ。
なぜこれほどまでに冷たい扱いをしなければならないのか。
凡庸な帝が、若い皇子の才気に嫉妬しているとでも?
帝への同情も消し飛んで、そのころのおれは、憤然と考えていた。
にしても、わが子ではないか。八つ当りするとは、ひどすぎる。
中大兄皇子らが難波を後にして、半年が過ぎていた。
帝の病は癒えそうになく、長柄豊碕宮は、ひっそりと息を殺しているようだった。
その夕刻、おれは舎人の詰め所にいた。部屋の外で、女官らしい者の叫び声がしたので、驚いて廊下に飛び出した。
有馬皇子の部屋の手前で、若い女官がひとり、倒れて啜り泣いている。
「どうなさった?」
おれは、彼女を助け起こした。
「皇子さまが、私を突き飛ばしてお部屋の中へ」
突然帝のもとから帰ってきた皇子は、すれ違いざま彼女を突き飛ばし、自分の部屋に駆け込んだと言う。
今まで暴力などふるったことのない人だ。尋常な事態ではない。
おれは、彼女を宥めて下がらせ、皇子の部屋の戸を開けた。
もう秋で、日暮れは早い。夕陽の、ぼっと赤っぽい光が、蔀から斜めに床に射し込んでいた。
皇子は、薄暗い部屋の隅にうなだれて座っている。
このところ、皇子の背丈は一気に伸びていた。ひょろ長い手足を折り、身体を丸めているさまは、ひどく痛ましかった。
「皇子」
おれは、そっと声をかけた。
「来るな」
皇子は、ぼそりと言った。
おれは、かまわず皇子に近づき、息を呑んだ。
病んだ老人は、せいいっぱいの力を出したと見える。
皇子の左頬には、くっきりと手形が残っていたのだ。
何事があったのか聞き出したいこころをおさえ、おれは腫れ上がったその頬を冷やすことに専念した。
皇子はおそろしく暗い目をして、されるがままになっていた。
青ざめた顔が、夕闇に浮かび上がる。おれは、燈をつけることも忘れていた。
「飛鳥へ行け、と帝に言われた」
ややあって、つぶやくように皇子は言った。
「鎌足のところにな」
おれは、思わず皇子を見た。
皇子はおれを見返し、歪んだ笑みを浮かべた。
喉の奥で圧し殺した声が、弾けるような高笑いとなり、皇子は身をよじってひとしきり笑い続けた。
このときおれは悟ったのだ。
皇子の真の父親が誰であるかを。
目くらましにすぎなかったのだ、真人が帝の子であるという噂は。
皇子と真人はたしかに兄弟にはちがいない。ただし母親の違う兄弟だ。帝が小足媛を鎌足に与えた時、媛が孕んだのは他ならぬ鎌足の子だったのだから。
帝の皇子への態度も、これならばつじつまがあった。
帝にしても、はじめは我が子と信じていたのかもしれない。しかし皇子の成長につれその面差が自分の血をなにひとつ伝えてはいないことに気づいたか。
そして皇子も、このときはじめて自分の出生を知ったのだ。
皇子は、ぴたりと笑いを止め、両手に顔を埋めた。
肩が、いつまでも震えていた。
十月、孝徳帝は崩御した。
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