天の白鳥

ginsui

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 飛鳥の新邸に移り住んだ有馬皇子の日常は、平穏とは言いがたかった。
 飛鳥全体がそうだった。人々は新政府のめまぐるしい動きに、そろそろ息切れしてきたのである。
 今回も中大兄皇子は即位しなかった。
 皇極帝が飛鳥板蓋宮で重祚ちょうそし、斉明天皇となる。
 即位した年に、板蓋宮が燃えた。やむなく仮宮に遷り、小墾田おわりだに新宮を築くことになった。
 ところが、材料の木に朽ちただれたものが多く、小墾田宮の造営は中止。新たに選ばれたのが岡本の地だ。
 その岡本宮も、建物の形ができるのを待ちかねたように、火事にみまわれた。
 放火、という言葉が、あちらこちらでささやきかわされた。
 斉明帝の建設好きは、ただでさえ評判が悪かったのだ。
 宮の造営ばかりではない。多武峰には石垣がめぐらされ、天宮と称する高殿が築かれていた。石を運ぶために香久山の麓から石上山にかけて長大な溝が掘られ、水をひき、舟がうかべられた。
 
 たわぶれ心のみぞ
 功夫ひとちからを損し費すこと三万余。垣造る功夫費し損すこと七万余。宮の木ただ山椒やますえ埋れたり。

 そんな童謡を皇子に語り聞かせるのは、塩屋連しおやのむらじ坂合部連薬さかいべのむらじくすり守君大石もりのきみおおいしといった連中だった。
 飛鳥に来て以来、皇子のもとには反政府派がひっきりなしに出入りしている。
「あの馬鹿げた工事をごらんなされい、皇子」
 塩屋連などは灰色の髭に泡を飛ばしていきまいた。
「二言目には新国家云々と中大兄皇子は言うが、土を堀かえすことが国造りなら、そんなことは土竜にでも任せておけばよろしい。民人はもうとことん疲れきっておりますぞ」
 塩屋連は、孝徳帝存命中からなにくれとなく皇子の世話をやいてくれる。実直で憎めない激情家だったが、いかんせん、思慮が浅すぎた。
 反政府派の動きには、ただでさえ中大兄皇子が神経質になっているのだ。昼日中からこんなことを言い出されては、側にいるおれたちの方が気がもめる。
 皇子は脇息にもたれかかり、あの時以来、常のものとなった暗い目で老人を眺めていた。相手が興奮すればするほど、皇子の表情は醒めていくようだった。
「中大兄皇子と内臣のやりかた」
 塩屋連は、さらに言う。
「蘇我父子を滅ぼしたまではよい。問題はその後ですぞ。即位の意志なしとて出家した古人大兄皇子を襲い、改新の功ある倉山田石川麿どのに無実の罪をきせ死に追いやり、そして先帝へのあの仕打ち。ことにあの内臣は、邪魔なものはことごとく切ってすてるというやりかたじゃ。お気をつけなされ、皇子。次は皇子の番ですぞ」
 皇子はぴくりと眉を上げた。
「言葉がすぎましょうぞ、塩屋連どの」
 坂合部連が、おれの言いたかったことを口にしてくれた。
「いいや、それだから皇子にお考え願いたいと言うのじゃ。中大兄皇子に学ぶべき点はただひとつだけある。皇子、あのまま蘇我の時代が続いていれば、中大兄皇子は古人大兄皇子の対抗者として入鹿の手にかかっていたかもしれません」
 塩屋連は、はじめて声を落とした。
「中大兄皇子は先手を打った。皇子、学びなされ。待つだけではどうにもなりませんぞ」
「ああ」
 皇子は視線をあらぬ方に向け、低くつぶやいた。
「心しておこう」

 皇子はこのころ、何を思って日々をおくっていたのだろう。
 ただひとつの名が、皇子の頭を占めていたのは確かなようだ。
 岡本宮の火事見舞いに行った時だ。宮は全部が焼け落ちたわけではなく、帝は難を逃れた建物に住まっていた。
 帝への挨拶の帰り、ちょうど焼け跡の前で鎌足に会った。
 幾人もの人夫たちが、掛け声をかけあいながら焦げた木材を運び出し、きな臭い地面をならしていた。
 鎌足は、めずらしく一人だった。有馬皇子を見ると、慇懃に挨拶した。
 皇子は、一瞬顔を強ばらせた。しかし、すぐに不敵な表情をつくり、
「飛鳥の宮は、よく燃えるな、内臣」
 挑発するように皇子は言った。
「だいぶ火の気が多いらしい」
「そのようです」
 さらりと鎌足は応えた。
「用心することだ」
 皇子は、身じろぎもせず鎌足を見すえていた。
 鎌足の瞳の奥が、その時わずかな揺らぎを見せた。
 皇子がすべて知っていることを、鎌足は感じとったにちがいない。
 鎌足は皇子から目をそらし、静かに頭を下げた。
 皇子の暗い眼差しは、歩み去る鎌足の後背からいつまでも離れなかった。
 飛鳥にいる以上、鎌足を見かける機会はいくらでもあった。
 皇子は、いつでも鎌足を見ていた。
 鎌足は、と言えば、決して皇子と視線を合わせようとはしなかった。
 皇子を無視することが、鎌足にできる唯一の行為だったのだとおれは思う。
 有馬皇子が、真実誰の子であるかを中大兄皇子が知ってしまったら──中大兄皇子にとって、孝徳帝の遺児であり、鎌足の息子でもある有間皇子は二重に警戒すべき人間だ。
 有間皇子を帝にすえるという誘惑が、鎌足の心にきざさないといいきれるか。
 癇癖強い中大兄皇子がそんな疑惑を抱きはじめたとしたら、有馬皇子の命は、おそろしく危ういものになるだろう。
 鎌足は、沈黙を保たなければならない。
 皇子のために。
 だが、皇子の望みは、おそらくは、ただ一度でも鎌足が見返してくれることだったのだ。
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