4 / 7
4
しおりを挟む飛鳥の新邸に移り住んだ有馬皇子の日常は、平穏とは言いがたかった。
飛鳥全体がそうだった。人々は新政府のめまぐるしい動きに、そろそろ息切れしてきたのである。
今回も中大兄皇子は即位しなかった。
皇極帝が飛鳥板蓋宮で重祚し、斉明天皇となる。
即位した年に、板蓋宮が燃えた。やむなく仮宮に遷り、小墾田に新宮を築くことになった。
ところが、材料の木に朽ちただれたものが多く、小墾田宮の造営は中止。新たに選ばれたのが岡本の地だ。
その岡本宮も、建物の形ができるのを待ちかねたように、火事にみまわれた。
放火、という言葉が、あちらこちらでささやきかわされた。
斉明帝の建設好きは、ただでさえ評判が悪かったのだ。
宮の造営ばかりではない。多武峰には石垣がめぐらされ、天宮と称する高殿が築かれていた。石を運ぶために香久山の麓から石上山にかけて長大な溝が掘られ、水をひき、舟がうかべられた。
狂心の渠。
功夫を損し費すこと三万余。垣造る功夫費し損すこと七万余。宮の木爛れ山椒埋れたり。
そんな童謡を皇子に語り聞かせるのは、塩屋連や坂合部連薬、守君大石といった連中だった。
飛鳥に来て以来、皇子のもとには反政府派がひっきりなしに出入りしている。
「あの馬鹿げた工事をごらんなされい、皇子」
塩屋連などは灰色の髭に泡を飛ばしていきまいた。
「二言目には新国家云々と中大兄皇子は言うが、土を堀かえすことが国造りなら、そんなことは土竜にでも任せておけばよろしい。民人はもうとことん疲れきっておりますぞ」
塩屋連は、孝徳帝存命中からなにくれとなく皇子の世話をやいてくれる。実直で憎めない激情家だったが、いかんせん、思慮が浅すぎた。
反政府派の動きには、ただでさえ中大兄皇子が神経質になっているのだ。昼日中からこんなことを言い出されては、側にいるおれたちの方が気がもめる。
皇子は脇息にもたれかかり、あの時以来、常のものとなった暗い目で老人を眺めていた。相手が興奮すればするほど、皇子の表情は醒めていくようだった。
「中大兄皇子と内臣のやりかた」
塩屋連は、さらに言う。
「蘇我父子を滅ぼしたまではよい。問題はその後ですぞ。即位の意志なしとて出家した古人大兄皇子を襲い、改新の功ある倉山田石川麿どのに無実の罪をきせ死に追いやり、そして先帝へのあの仕打ち。ことにあの内臣は、邪魔なものはことごとく切ってすてるというやりかたじゃ。お気をつけなされ、皇子。次は皇子の番ですぞ」
皇子はぴくりと眉を上げた。
「言葉がすぎましょうぞ、塩屋連どの」
坂合部連が、おれの言いたかったことを口にしてくれた。
「いいや、それだから皇子にお考え願いたいと言うのじゃ。中大兄皇子に学ぶべき点はただひとつだけある。皇子、あのまま蘇我の時代が続いていれば、中大兄皇子は古人大兄皇子の対抗者として入鹿の手にかかっていたかもしれません」
塩屋連は、はじめて声を落とした。
「中大兄皇子は先手を打った。皇子、学びなされ。待つだけではどうにもなりませんぞ」
「ああ」
皇子は視線をあらぬ方に向け、低くつぶやいた。
「心しておこう」
皇子はこのころ、何を思って日々をおくっていたのだろう。
ただひとつの名が、皇子の頭を占めていたのは確かなようだ。
岡本宮の火事見舞いに行った時だ。宮は全部が焼け落ちたわけではなく、帝は難を逃れた建物に住まっていた。
帝への挨拶の帰り、ちょうど焼け跡の前で鎌足に会った。
幾人もの人夫たちが、掛け声をかけあいながら焦げた木材を運び出し、きな臭い地面をならしていた。
鎌足は、めずらしく一人だった。有馬皇子を見ると、慇懃に挨拶した。
皇子は、一瞬顔を強ばらせた。しかし、すぐに不敵な表情をつくり、
「飛鳥の宮は、よく燃えるな、内臣」
挑発するように皇子は言った。
「だいぶ火の気が多いらしい」
「そのようです」
さらりと鎌足は応えた。
「用心することだ」
皇子は、身じろぎもせず鎌足を見すえていた。
鎌足の瞳の奥が、その時わずかな揺らぎを見せた。
皇子がすべて知っていることを、鎌足は感じとったにちがいない。
鎌足は皇子から目をそらし、静かに頭を下げた。
皇子の暗い眼差しは、歩み去る鎌足の後背からいつまでも離れなかった。
飛鳥にいる以上、鎌足を見かける機会はいくらでもあった。
皇子は、いつでも鎌足を見ていた。
鎌足は、と言えば、決して皇子と視線を合わせようとはしなかった。
皇子を無視することが、鎌足にできる唯一の行為だったのだとおれは思う。
有馬皇子が、真実誰の子であるかを中大兄皇子が知ってしまったら──中大兄皇子にとって、孝徳帝の遺児であり、鎌足の息子でもある有間皇子は二重に警戒すべき人間だ。
有間皇子を帝にすえるという誘惑が、鎌足の心にきざさないといいきれるか。
癇癖強い中大兄皇子がそんな疑惑を抱きはじめたとしたら、有馬皇子の命は、おそろしく危ういものになるだろう。
鎌足は、沈黙を保たなければならない。
皇子のために。
だが、皇子の望みは、おそらくは、ただ一度でも鎌足が見返してくれることだったのだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』
月影 朔
歴史・時代
江戸。盲目の女按摩師・市には、音、匂い、感触、全てが真実を語りかける。
失われた視覚と引き換えに得た、驚異の五感。
その力が、江戸の闇に起きた難事件の扉をこじ開ける。
裏社会に潜む謎の敵、視覚を欺く巧妙な罠。
市は「聴く」「嗅ぐ」「触れる」独自の捜査で、事件の核心に迫る。
癒やしの薬膳、そして人情の機微も鮮やかに、『この五感が、江戸を変える』
――新感覚時代ミステリー開幕!
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる