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しおりを挟むその夜は、蒸し暑かった。
前日から降り続いている雨はいっこうに止みそうになく、重く湿った空気が息苦しくなるほどのうっとうしさでのしかかってくる。
寝返りばかり打っていたが、どうしても眠れず、おれはついに床から這い出した。
外気は、いくらか風が動いている。このまま邸を見まわろうと思い、手燭をとった。
と、皇子の寝所の方で物音がした。
おれは、すぐさまそちらに足を向けた。
寝所にいるのは皇子ひとりのはずだ。皇子には妃が二人いたが、どちらにも一二度通ったきりだったろう。そのためか彼女等は実家にいる方が多かった。
庇の角を曲がって、はっと立ち止まった。寝所の戸が開いている。駆け込むと、皇子の寝床は空だった。
おれは、雨音こもる外の闇に目を走らせた。人影が、もっと濃い闇となって庭を横切って行った。
皇子に違いない。
おれは、わけのわからない不安にかられ、後を追いかけた。
どしゃぶりの雨だ。
皇子の足は早く、姿などは見えはしない。ただ、地面の泥を跳ね散らす足音だけが頼りだった。
「皇子!」
おれは呼びかけたが、皇子の耳にとどいていたかどうか。
ぬかるみに足をとられて、幾度か転びかけながらも、おれはついに、皇子の目指していた場所を知った。
いや、はじめから予想はしていたような気がする。
そこは、内臣邸だった。
門の前には、赤々と寝ずの篝火が焚かれていた。
皇子は、明かりのとどいていない土塀を、ためらいもせずに乗り越えた。
おれは、思い切って後に続いた。
植込みの向こうに、淡い明かりが灯っていた。
この家の主は、まだ起きていたらしい。おれは、そちらに足を向け、立ちすくんだ。
皇子が、鎌足と向き合っている。
庭先に立った鎌足は、裸足のままだった。
鎌足は、なにか言い、顔をそむけた。
皇子の手には、刀子が握られていた。細い刃は、斜めにひらめいて鎌足の右の二の腕あたりを切り裂いた。
次の瞬間、皇子は刀子をとり落とし、体当たりするように鎌足にすがりついた。
「皇子!」
おれと鎌足は、同時に叫んだ。
まるで、皇子が傷を負ったようだった。皇子は、鎌足の腕の中に崩れ落ちていた。
鎌足は、おれに目を向けた。
だらりと垂れた右腕から、絶え間なく血がしたたっている。左手だけで、気を失った皇子をささえていたが、その顔は蒼白だった。
「お連れしてくれ」
鎌足は、ささやいた。
「早く」
おれは呆けたようにうなずくと、ぐったりした皇子の身体を受け取った。
二日の間、皇子は意識がもどらなかった。
激しい震えと熱に交互にみまわれ、おれですら、その命をあきらめかけた。
あの夜、皇子が鎌足に刀子を振り上げる前に何があったというのだろう。
はじめから皇子は、鎌足を殺すつもりだったのだろうか。
にしても、刀子一本とはあまりにささやかな凶器ではないか。
命をすりへらしたのは皇子の方だった。
三日目の朝、皇子は目覚めた。
枕辺で、おれは愕然と立ちつくした。
皇子のうつろな双の目は、すでに常人のものではなかったのである。
有間皇子が狂ったという噂は、早くも飛鳥中に広がった。
中大兄皇子などは、早速見舞いの使いをよこしたほどだ。
中大兄皇子は有間皇子の病を疑っていたが、これはどうしようもない事実だった。皇子の瞳は静かな廃人のように外界を拒み、内へと沈んでいた。
皇子に湯治を勧めたのは、塩屋連だ。紀伊にある牟婁の湯は、塩屋連の生国とも近いという。何かと便宜をはかってくれる塩屋連が、このときばかりはありがたかった。
湧き出る湯と、さえぎるものなく外洋に臨む牟婁の広々とした景観は、皇子の病をゆっくりと癒してくれたようだった。
徐々にではあったが、皇子は表情を取り戻した。
何も聴かず、何も語ろうとはしなかった皇子が、おれたちに再び目をむけるようになった。
おれは、ひとまず安堵した。このままずっと牟婁で暮らせたら、皇子のためにはどんなにかいいだろうと思ったりもした。鎌足のことも飛鳥のことも忘れて。
だが、皇子にとっては忘れられるはずもなかったのだ。
初秋の空は、高く澄んでいた。
来た当初は、ひどく新鮮に感じられた潮の香が満ちている。
塩焼きの煙たなびく海辺をそぞろ歩きながら、皇子はひとつ大きく伸びをした。
おれは、目を細めた。心も身体も、病んでいたとは思えない健康さだ。
「あの夜──」
皇子は、突然語り出した。おれは、ぎょっとして皇子を見やった。
「あの夜のことは、よく憶えていない。気がつくと、目の前に鎌足が立っていた」
さえざえと明るい声音だった。
「わたしは、鎌足に訊ねようとしていたのだと思う。わたしと中大兄皇子と、どちらを取るかとな。はじめから、答えはわかっていたはずなのに、愚かなことをしたものだ。わたしが口を開く前に、鎌足は言った」
「なんと?」
「お許し下さい、皇子。──ただ、それだけさ」
皇子は海の向こうを見やり、かすかな笑みを浮かべた。
皇子は鎌足と対し、鎌足は皇子を拒んだ。皇子の思いが、それでふっ切れたのならよいが。
皇子の妙に澄んだ微笑みに、おれはなぜか胸騒ぎを覚えていた。
「大和に帰ろう、米麻呂」
皇子は、言った。
「わたしはもう、だいじょうぶだ」
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