天の白鳥

ginsui

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 皇子はひとたび飛鳥に戻り、帝などに病気回復の挨拶をすませると、生駒市経の別業に移り住んだ。
 皇子の病は陽狂であると、信じて疑わない者は多かった。
 中大兄皇子の疑惑も、いっそう増したにちがいない。牟婁への湯治は準備期間で、飛鳥を出たのは政府への公然たる反目だと。
 皇子は十八。入鹿を倒した中大兄皇子と同じ年になっていた。
 市経の邸に出入りするのは、反政府派のごく限られた者たちばかりとなった。
 どうするつもりなのか、おれは皇子に問いただしたかった。人々は、もはや有馬皇子から目を離すまい。かたずをのんで皇子の行動を見守っている。
 皇子はといえば、ひとり、飄々と日々を過ごしているように見えた。
「ずいぶんと、大人になられたのう」
 塩屋連などは、感きわまっておれにもらしたほどだ。
「まぎれもなく、王者のお顔をなさっておる」
 そのころ、ひんぱんに有馬皇子のもとを訪ねてくる人間に、蘇我赤兄がいた。
 蘇我馬子の孫、入鹿には従兄弟にあたる。三十五六の色浅黒い小男で、薄い唇は、いつも冷笑しているように歪んでいた。
 はじめから気に食わない男だった。
 おれは、蘇我の暗い血を思う。
 中大兄皇子が入鹿を首尾よく討ち果たしたのは、蘇我の同族倉山田石川麻呂の協力があってこそだった。
 石川麻呂は右大臣の地位に昇り、しかし、弟の日向に中大兄皇子暗殺を企てていると讒言され、自殺した。
 以前に塩屋連も言っていたが、これはどうも中大兄皇子と鎌足が仕組んだことらしい。
 二人にとって、旧体制を引きずった右大臣は邪魔だったのだ。石川麻呂を陥れた日向は、太宰府に左遷されただけだった。
 蘇我は、互いを潰し合いながら小さくなった。赤兄は、その最後の生き残りだ。
 おれは、ぎくりとした。
 改新以来、蘇我の影にはいつも鎌足と中大兄皇子がいる。
「皇子」
 赤兄が帰った後、おれは有馬皇子に言った。
「蘇我赤兄どのを、どう思われます?」
「おもしろい男だ」
 皇子は、あっさりと言った。
「飛鳥の回し者としては、どうかと思うが」
「……」
 皇子も、承知していたのだ。
 しかし、赤兄を間諜に使うとは、あまりにも露骨すぎるやり方だ。
「赤兄の話だと、帝は近く牟婁に行幸なさるつもりらしい」
 有馬皇子は、言った。
「よい所だと、わたしも勧めたからな。中大兄皇子や内臣も同行するので、赤兄は留守官を言い使ったそうだ」
 庭先で、かすかに虫が鳴いている。秋の終わり、しんと冷え切った夜だった。
 有馬皇子は、側の火桶に手をかざした。指先が、燠火に赤く染まるようだった。
 おれは、しばらく言葉を失った。
 信じられない不用心さだ。
 これではまるで、事を起こせと言っているようなものではないか。
 飛鳥は空、僅かな警護の牟婁を襲えば、この国はたちまち有馬皇子の手に落ちる。
 留守官が赤兄でなければ、おれも騙されたかもしれない。
 だが、赤兄だ。
 帝にかこつけて、大がかりな罠を仕掛けようとしているのは中大兄皇子だろう。有馬皇子が反乱の兆しを見せさえすれば、すぐさま捕えて反政府派を一掃するつもりなのだ。
 鎌足に、中大兄皇子を止めることなどできはしない。自分たちが、これまでにしてきたことなのだから。
 赤兄を使ったのは、鎌足のせめてもの警告か。 
「米麻呂」
 皇子が、おれの顔を覗き込んでいた。
「暇をやる。故郷に帰れ」
「何をおっしゃいます!」
「ここにいると、やっかいなことになりそうだ」
「わたしよりもまず、赤兄を遠ざけなさいませ」
 おれは、必死で言った。
「見え透いた罠にかかることはありません。何のために内臣が赤兄を──」
「内臣?」
 皇子はゆっくり繰り返し、軽い笑い声をあげた。
「わたしを生み出したことが、あの男の最大の過ちだ」
 おれは、はっとして皇子を見つめた。
 皇子の瞳は澄んで明るく、いくらか皮肉げな光をやどしていた。
「そのことを、よくわからせてやらなければな」
 おれは、ようやくささやいた。
「どうなさるおつもりです?」
 楽しげとも思える声で皇子は言った。
「赤兄にまかせるさ」

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