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しおりを挟む十月の半ば、帝の一行は牟婁へと向かった。
おれは、有馬皇子のもとを離れなかった。皇子のすることを、最後まで見届けるつもりだったのだ。
赤兄は、ぴたりと姿を現さない。
留守官としての仕事が忙しいとのことだが、密かに有馬皇子の様子を窺っているに違いなかった。
「またとない好機ですぞ、皇子」
塩谷連が、身を乗り出した。
「この時を逃せば、後々悔やむことになりましょう」
「いや、いま少し待たれた方が良いかもしれん」
守君大石や坂合部連は慎重だった。
「有馬皇子は、まだ十九です。成人なさるまで待った方が、人心も集まるというもの」
「中大兄皇子が入鹿を倒したのは、十八の時じゃ」
「その時は、孝徳帝が即位されております」
皇子は何も言わなかった。
塩谷連たちを、巻き込みたくなかったのだと思う。結局、そんなわけにはいかなかったのだが。
いつもの年よりも早い初雪が降った夕、赤兄はふらりとやってきた。
有馬皇子は戸を開けて、庭先にちらちら舞う雪を眺めていた。
「準備が整ったようだな」
庭に目をやったまま、出し抜けに皇子が言った。
赤兄は一瞬、気を呑まれたような顔をして立ち尽くした。しかし、すぐにまた、例の歪んだような笑いを浮かべ、皇子の前に座り直した。
「左様。今をおいて他に時はございません」
皇子は、はじめて赤兄に顔を向けた。ちらりと、唇に苦笑が浮かんだ。
「今の政事には、過ちが数多くございます。数え上げれば、限りがなく──」
「数えなくともいいさ」
皇子はからかうように言い、赤兄に顔を近づけた。
「兵を上げる。手伝ってくれるな」
雪は、一度止んだが、夜半になってまた降りだした。大きな、地面にとどけばすぐに溶けてしまう雪だった。
有馬皇子は、床に入りもせず、火にあたっていた。おれも、側にひかえていた。
やがて、人声や馬のいななき、にわかに外が騒がしくなった。
篝火が焚かれている。戸の隙間から、赤い光が滲み出してくる。
赤兄の手の者が、邸のまわりを取り囲んでいるのだ。
「この天気に、ご苦労なことだ」
皇子は冗談めかして言い、振り返っておれを見た。
「すまないな、米麻呂」
おれはうなだれ、首を振った。
皇子は、自分の運命を自分で定めたのだ。
おれにできるのは、ただついて行くことだけだった。
有馬皇子は捕えられ、帝たちのいる紀伊に送られることになった。
牟婁の仮宮には、中大兄皇子と鎌足が待っていた。
中大兄皇子は、青白い額に皺をよせ、庭に引き出された有馬皇子を一瞥した。つかつかと側に寄り、ささやいた。
「どうした。謀反はうまくいくとでも思ったか?」
「さあ」
ここまでの急ぎの旅でやつれてはいたが、落ちつきはらって有馬皇子は答えた。
「天と赤兄だけが知っていることでしょう」
そして、中大兄皇子の背後に目を向けた。
枝の垂れた松の木の側に、ひっそりと鎌足は立っていた。
疲れ果てたような初老の男だ。そこには、おれがむかし山中で見た、輝かしさのかけらも残っていなかった。
あのころの鎌足なら、自分の地位を投げ捨てでも有馬皇子を守ったかもしれないと思えるのは、おれの買い被りだろうか。
その昔、大それた夢を胸に大和へ上って来た青年は、首尾よくこの国を手に入れた。
国に囚われたのは自分の方とは気づかずに。
この国は、巨大でとらえどころのない魔のように、彼の意志など知らぬげに動きはじめている。さらに多くの血と、その上に築かれるにちがいない、より確かな秩序を得るために。
鎌足は、有馬皇子を見つめていた。
その目が潤んでいた。
有馬皇子は、うっすらと笑みを浮かべた。
満足だったにちがいない。皇子はこの涙を得るために、自分の生命をかけたのだ。
皇子の死後、どこかの歌人が皇子のために感傷的な歌を詠むことだろう。
だが、皇子は、嬉々として死を選んだのだ。
鎌足の胸に深々と、自己の存在を刻み付けて。
鎌足は、死ぬまで皇子の影から逃げられまい。
それが、皇子の復讐なのだから。
海の見える藤白坂で、皇子は縊られた。
坂合部連と守君は流罪ですんだが、塩谷連は同じ場所で斬首された。
おれの処刑は、その後だった。
ひざまずいたおれの目の端を、かすかに白いものが掠めて行った。
おれは、空を振り仰いだ。
蒼穹に染み入るように白い鳥だ。
高く高く、飛び去って行く。
あの鳥を、鎌足が見たかどうか、おれは知らない。
おれの首は、その時、地面へと転がり落ちていたからだ。
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