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「やめた方がいい、熊鷲」
楽しげに翠野は言った。
「姫を殺せば桜子も死ぬぞ」
「なんだと」
「二つの身体に一つの魂。魂の緒は両方に繋がっているが、魂の濃い者の方が主体となる。主が死ねば、もう一方の魂の緒も断ち切れる。反対に、いま桜子の方が死ねば魂は晴れて姫だけのものになる。なかなか面白いだろう」
姫をはじめて見た時に、即座に殺すべきだったのだ。
おれは歯がみした。
このことさえ知っていたら。
「おまえは」
おれは、怒りをこめて言った。
「はじめから姫に桜子の魂を与えるつもりだったんだな」
翠野は、にっと笑った。
「であればいいと思ったまでだ。見てみたいとは思わないか。姫の気品に桜子が加わったら、どれほど美しいものが出来上がるのか」
翠野は、ゆっくりと桜子たちに近づいた。
「この国までも動かす存在になるかもしれん。楽しみだ」
おれは刀を握り直した。
翠野が許せなかった。
この男は、自分の楽しみのためにだけ桜子たちの魂を弄んでいるのだ。
「わたしに手をかけている暇はない」
動じることなく翠野は言った。
「都に戻って、姫がここにいることを告げてきた。すでに北面の武士たちが周りを取り囲んでいる。姫を取り戻すためにな」
気がつけば、確かにあたりが騒がしくなっていた。
あちこちで怒号が起き、猛る馬のいななきが聞こえた。外が異様に明るくなっているのは、武士どもがおれたちの家に火を放っているからだ。
小女たちが悲鳴をあげている。炎が、こちらまでも押し寄せて来ているのだ。
「さあ」
翠野は、姫に手を差し伸べた。
「行こう、姫」
姫は桜子から身体を離し、すっと立ち上がった。そのほっそりした両手で翠野の腕を静かに掴んだ。
そして、
「熊鷲」
低いが、玲瓏たる声で言った。
「殺しなさい」
桜子と同じ声だった。
同じなのに違っていた。
桜子のような荒々しさや命令口調はない。
なのに、その冷たく冴えた一声は、すべてのものを従わす力を持っていた。
おれはためらわず、刀を翠野の胸に突き刺した。
翠野は、おそらく何が起きたか理解できなかったに違いない。身体を痙攣させながら驚いたように目を見開き、おれではなく姫を見つめた。
おれが刀を引き抜くと、血が迸った。姫は背筋をまっすぐに伸ばし、血しぶきにも動じることなく翠野を見返した。
姫が手を離すと、翠野はおれの足もとにどさりと倒れて動かなくなった。
「わたしは都に帰ります」
澄んだ声の響きのまま、姫は言った。
「姫…」
姫はおれを見つめた。
奥に光をたたえた美しいまなざしは、おれをとらえて離さなかった。桜子のものであった魂を持ちながら、そこにいるのは確固とした姫の自我だ。
おれは、息詰まりそうになりながら、姫の視線を受け止めた。姫が死ねと言えば、おれは即座に自分の命を絶っていただろう。それほどまでに、姫はおれの心を支配した。
翠野は、驕りすぎたのだ。
おれは思った。
その掌の上でこの姫の生き様を眺めることなど、誰もできはしない。姫の生は、姫自身のものなのだから。
「熊鷲」
姫がおれの名を呼んだ。
「桜子を連れて逃げなさい」
おれは、我にかえった。
「桜子は、おまえに任せます」
姫は裳裾をひるがえし、おれたちに背を向けた。
振り返りもせず、
「大切にするのですよ」
すでに、館にも火が燃え移っていた。甲冑をきた武士たちが、姫を捜して館の中をどたどたと走りまわっている。
彼らの一人が姫の姿を見つけて声をあげた。
おれは、夢中で桜子を担ぎ上げた。庭に飛び出し、追われぬように、わざと炎の中をかいくぐる。
あたりの桜の木々は炎に煽られ、これが最期とばかりに花を散らしていた。それは火花よりもきらきらしく赤く染まり、夜空をおおい、おれと桜子の上に降りそそいだ。
おれは、思わず立ち止まりそうになる。このまま花とともに炎に呑み込まれても構わないとすら思える美しさだ。
しかし、痛いほどの熱風がおれを正気に引き戻す。
おれは渦巻く花と炎の中、なんとか桜子を抱えたまま山中に逃げ延びた。
来た方を振り返ると、眼下に、盛大に燃え続けるおれたちの隠れ家が見えた。武士どもは、姫を連れて意気揚々と都に引き上げて行くところだ。
残された桜の森は炎に明るく照らし出され、静かに、ただ静かに細かな花びらを舞い散らしていた。
それから何年たっただろう。
おれは同じ山中で、桜子とともに暮らしている。
桜子は、はじめて会った姫のようにもの言わず、動かない。
桜子にあった魂は、いまは姫のものだ。
もう一度、姫に桜子を近づければ、魂はまた桜子のもとにもどってくるのだろうか。
だが、今となってはできない話だ。姫は、それを怖れておれに桜子を委ねたのだから。桜子を殺さなかったのは、姫なりの愛情か。
おれは姫に従った。姫の凜とした声音、ものごしは、おれをやすやすと言いなりにした。
姫の名は、藤原得子だと後に知った。鳥羽上皇の寵を受け、やがて帝となる皇子を産んだ。
権謀術数渦巻く朝廷で、しっかりと己の地位を築いている。翠野が言っていたように、この国のありようを変えていくのかもしれない。生きていれば翠野も、さぞ姫の生きざまを見て楽しんだことだろうが。
姫はこれからも、姫の思うがままに生きていくだろう。
颯爽たる偸盗の首領桜子と、魂を得た姫。おれは、二人の女に心を奪われた。
いや、一人と言うべきか。どちらも同じ魂なのだから。
もはやおれの手には届かない魂だ。
おれに残されたのは、桜子の抜け殻だけ。
大切にするのですよ。
姫の声が、まだ耳にこびりついている。
むろん、そうしている。
おれは桜子を慈しむ。
人形のような桜子を、おれがいなければ生きてはいけない桜子を。
それが姫への、そして桜子であったものへの思いの証しなのだ。
楽しげに翠野は言った。
「姫を殺せば桜子も死ぬぞ」
「なんだと」
「二つの身体に一つの魂。魂の緒は両方に繋がっているが、魂の濃い者の方が主体となる。主が死ねば、もう一方の魂の緒も断ち切れる。反対に、いま桜子の方が死ねば魂は晴れて姫だけのものになる。なかなか面白いだろう」
姫をはじめて見た時に、即座に殺すべきだったのだ。
おれは歯がみした。
このことさえ知っていたら。
「おまえは」
おれは、怒りをこめて言った。
「はじめから姫に桜子の魂を与えるつもりだったんだな」
翠野は、にっと笑った。
「であればいいと思ったまでだ。見てみたいとは思わないか。姫の気品に桜子が加わったら、どれほど美しいものが出来上がるのか」
翠野は、ゆっくりと桜子たちに近づいた。
「この国までも動かす存在になるかもしれん。楽しみだ」
おれは刀を握り直した。
翠野が許せなかった。
この男は、自分の楽しみのためにだけ桜子たちの魂を弄んでいるのだ。
「わたしに手をかけている暇はない」
動じることなく翠野は言った。
「都に戻って、姫がここにいることを告げてきた。すでに北面の武士たちが周りを取り囲んでいる。姫を取り戻すためにな」
気がつけば、確かにあたりが騒がしくなっていた。
あちこちで怒号が起き、猛る馬のいななきが聞こえた。外が異様に明るくなっているのは、武士どもがおれたちの家に火を放っているからだ。
小女たちが悲鳴をあげている。炎が、こちらまでも押し寄せて来ているのだ。
「さあ」
翠野は、姫に手を差し伸べた。
「行こう、姫」
姫は桜子から身体を離し、すっと立ち上がった。そのほっそりした両手で翠野の腕を静かに掴んだ。
そして、
「熊鷲」
低いが、玲瓏たる声で言った。
「殺しなさい」
桜子と同じ声だった。
同じなのに違っていた。
桜子のような荒々しさや命令口調はない。
なのに、その冷たく冴えた一声は、すべてのものを従わす力を持っていた。
おれはためらわず、刀を翠野の胸に突き刺した。
翠野は、おそらく何が起きたか理解できなかったに違いない。身体を痙攣させながら驚いたように目を見開き、おれではなく姫を見つめた。
おれが刀を引き抜くと、血が迸った。姫は背筋をまっすぐに伸ばし、血しぶきにも動じることなく翠野を見返した。
姫が手を離すと、翠野はおれの足もとにどさりと倒れて動かなくなった。
「わたしは都に帰ります」
澄んだ声の響きのまま、姫は言った。
「姫…」
姫はおれを見つめた。
奥に光をたたえた美しいまなざしは、おれをとらえて離さなかった。桜子のものであった魂を持ちながら、そこにいるのは確固とした姫の自我だ。
おれは、息詰まりそうになりながら、姫の視線を受け止めた。姫が死ねと言えば、おれは即座に自分の命を絶っていただろう。それほどまでに、姫はおれの心を支配した。
翠野は、驕りすぎたのだ。
おれは思った。
その掌の上でこの姫の生き様を眺めることなど、誰もできはしない。姫の生は、姫自身のものなのだから。
「熊鷲」
姫がおれの名を呼んだ。
「桜子を連れて逃げなさい」
おれは、我にかえった。
「桜子は、おまえに任せます」
姫は裳裾をひるがえし、おれたちに背を向けた。
振り返りもせず、
「大切にするのですよ」
すでに、館にも火が燃え移っていた。甲冑をきた武士たちが、姫を捜して館の中をどたどたと走りまわっている。
彼らの一人が姫の姿を見つけて声をあげた。
おれは、夢中で桜子を担ぎ上げた。庭に飛び出し、追われぬように、わざと炎の中をかいくぐる。
あたりの桜の木々は炎に煽られ、これが最期とばかりに花を散らしていた。それは火花よりもきらきらしく赤く染まり、夜空をおおい、おれと桜子の上に降りそそいだ。
おれは、思わず立ち止まりそうになる。このまま花とともに炎に呑み込まれても構わないとすら思える美しさだ。
しかし、痛いほどの熱風がおれを正気に引き戻す。
おれは渦巻く花と炎の中、なんとか桜子を抱えたまま山中に逃げ延びた。
来た方を振り返ると、眼下に、盛大に燃え続けるおれたちの隠れ家が見えた。武士どもは、姫を連れて意気揚々と都に引き上げて行くところだ。
残された桜の森は炎に明るく照らし出され、静かに、ただ静かに細かな花びらを舞い散らしていた。
それから何年たっただろう。
おれは同じ山中で、桜子とともに暮らしている。
桜子は、はじめて会った姫のようにもの言わず、動かない。
桜子にあった魂は、いまは姫のものだ。
もう一度、姫に桜子を近づければ、魂はまた桜子のもとにもどってくるのだろうか。
だが、今となってはできない話だ。姫は、それを怖れておれに桜子を委ねたのだから。桜子を殺さなかったのは、姫なりの愛情か。
おれは姫に従った。姫の凜とした声音、ものごしは、おれをやすやすと言いなりにした。
姫の名は、藤原得子だと後に知った。鳥羽上皇の寵を受け、やがて帝となる皇子を産んだ。
権謀術数渦巻く朝廷で、しっかりと己の地位を築いている。翠野が言っていたように、この国のありようを変えていくのかもしれない。生きていれば翠野も、さぞ姫の生きざまを見て楽しんだことだろうが。
姫はこれからも、姫の思うがままに生きていくだろう。
颯爽たる偸盗の首領桜子と、魂を得た姫。おれは、二人の女に心を奪われた。
いや、一人と言うべきか。どちらも同じ魂なのだから。
もはやおれの手には届かない魂だ。
おれに残されたのは、桜子の抜け殻だけ。
大切にするのですよ。
姫の声が、まだ耳にこびりついている。
むろん、そうしている。
おれは桜子を慈しむ。
人形のような桜子を、おれがいなければ生きてはいけない桜子を。
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