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翠野は、隠れ家から姿を消した。
どこか、おれたちの気づかぬ場所にひそんで、桜子と姫を眺めているのだろう。
怒りの行き所もないままに、おれもまた桜子と姫から目を離せない。
数日がたった。
桜子は、常に姫の傍にいた。
姫の蝋のように白い顔に、ほんのりと赤みがさしてきたように見えるのは気のせいか。一斉に咲き誇りはじめた桜の花色のせいなのか。
反対に桜子の方はけだるげで、姫の髪を梳りながら、放心したようになる時もあると小女から聞いた。桜子の魂が、姫に浸透しようとしているのだろうか。
おれは、いてもたってもいられなくなった。桜子の腕をとって、部屋の外に連れ出した。
驚いたことに桜子は、やすやすとおれに従った。以前の桜子なら、罵声をあげて、おれを殴ろうとするだろうに。
「いいかげんにしろ」
おれは桜子の両肩をゆさぶった。
「もう姫にかまうな。このままでは──」
桜子は、おれを見上げた。
おれはぞっとした。
その目からは、以前のような凜とした赫きが消えていたのだ。ひらめく刃のような眼ざしこそが、おれたち偸盗をまとめ上げているものだというのに。
桜子が桜子でなくなっている。
みな翠野と姫のせいなのだ。
「痛いよ、熊鷲。離しておくれ」
桜子はおれの手を振り払った。声に強い響きが戻って、おれはいささかほっとした。
「姫と一緒にいて何が悪い」
「魂を吸い尽くされてもいいのか」
「魂?」
桜子は眉を上げ、小さく笑った。
「まさか」
「あなどるな。おまえたちは少しづつ変わってきている。翠野の思うつぼだぞ。あいつは、今どこにいる?」
「知らないね。いつのまにか居なくなった。気ままな男だ。来た時と同様さ」
「あいつは、どこかでおまえたちを見ている。おまえたちの変わりようを見て楽しんでいる」
「わたしが変わるものか」
「姫はどうだ」
「姫は」
桜子は眉をよせ、つぶやいた。
「ああ、そうだね。顔色がよくなったようだ。都よりも山暮らしの方があうのだろうさ」
「おまえの魂を手に入れているからだ」
「ちがう」
桜子はきっぱりと首を振った。自分の胸をたたき、
「わたしの魂はちゃんとここにある」
「これからもそうだと言いきれるか?」
「あたりまえだ」
桜子は昂然と肩をそびやかした。
「翠野が見ているというなら見せてやろう。わたしが、ずっとわたしであるということをね」
「桜子!」
おれを押しのけて行く桜子の後背に、おれは、叫んだ。
「気をつけろ」
おれが傍にいたいのは、昔のような桜子だ。
研ぎ澄まされた刃のように冴えた光を放ち、触れるものみなに傷を負わせずにはいられない冷酷さ。なにものにもとらわれず、まっすぐに前を見て己が道をいく桜子だったのに。
ところが今はどうだ。かたときも姫の傍を離れない。稼業はすべておれたちまかせ。おれが目を光らせてはいるが、手下どもとて緩んでくる。
いっそ姫を殺そうか、とおれは思った。桜子に恨まれてもかまいはしない。昔の桜子を取り戻せるなら。
このごろの桜子は、小女すら近づけず、姫と母屋にこもったままだ。おれは意を決して桜子の元に向かった。
うらうらと暖かい春の宵だった。
山の桜は散りかけで、庭にも簀の子にも、屋根のかかった庇の中にもどこからともなく花びらが舞い落ち、降り積もり、夜目を照らすようだった。
おれは庇に立って、声もかけずに桜子たちのいる部屋の戸を開けた。
桜子は、姫と並んで座っていた。高灯台の薄明かりの中、桜子の顔はおれが見たこともないほど穏やかで、姫の肩に頭をもたせかけていた。
姫は静かに微笑んでいた。桜子を抱き寄せるようにして、桜子の豊かな髪を指先で弄んでいた。
おれは息を呑んだ。
姫が動いている。人形ではなく、美しい人間の表情をまとわせて。
桜子は、魂の大半を姫に譲り渡してしまったのか。
おれは、腰の刀に手をかけた。
姫を殺しさえすれば。
その時、低い笑い声が聞こえた。
はっと首をめぐらすと、部屋の隅の薄暗がりの中に翠野の姿があった。
どこか、おれたちの気づかぬ場所にひそんで、桜子と姫を眺めているのだろう。
怒りの行き所もないままに、おれもまた桜子と姫から目を離せない。
数日がたった。
桜子は、常に姫の傍にいた。
姫の蝋のように白い顔に、ほんのりと赤みがさしてきたように見えるのは気のせいか。一斉に咲き誇りはじめた桜の花色のせいなのか。
反対に桜子の方はけだるげで、姫の髪を梳りながら、放心したようになる時もあると小女から聞いた。桜子の魂が、姫に浸透しようとしているのだろうか。
おれは、いてもたってもいられなくなった。桜子の腕をとって、部屋の外に連れ出した。
驚いたことに桜子は、やすやすとおれに従った。以前の桜子なら、罵声をあげて、おれを殴ろうとするだろうに。
「いいかげんにしろ」
おれは桜子の両肩をゆさぶった。
「もう姫にかまうな。このままでは──」
桜子は、おれを見上げた。
おれはぞっとした。
その目からは、以前のような凜とした赫きが消えていたのだ。ひらめく刃のような眼ざしこそが、おれたち偸盗をまとめ上げているものだというのに。
桜子が桜子でなくなっている。
みな翠野と姫のせいなのだ。
「痛いよ、熊鷲。離しておくれ」
桜子はおれの手を振り払った。声に強い響きが戻って、おれはいささかほっとした。
「姫と一緒にいて何が悪い」
「魂を吸い尽くされてもいいのか」
「魂?」
桜子は眉を上げ、小さく笑った。
「まさか」
「あなどるな。おまえたちは少しづつ変わってきている。翠野の思うつぼだぞ。あいつは、今どこにいる?」
「知らないね。いつのまにか居なくなった。気ままな男だ。来た時と同様さ」
「あいつは、どこかでおまえたちを見ている。おまえたちの変わりようを見て楽しんでいる」
「わたしが変わるものか」
「姫はどうだ」
「姫は」
桜子は眉をよせ、つぶやいた。
「ああ、そうだね。顔色がよくなったようだ。都よりも山暮らしの方があうのだろうさ」
「おまえの魂を手に入れているからだ」
「ちがう」
桜子はきっぱりと首を振った。自分の胸をたたき、
「わたしの魂はちゃんとここにある」
「これからもそうだと言いきれるか?」
「あたりまえだ」
桜子は昂然と肩をそびやかした。
「翠野が見ているというなら見せてやろう。わたしが、ずっとわたしであるということをね」
「桜子!」
おれを押しのけて行く桜子の後背に、おれは、叫んだ。
「気をつけろ」
おれが傍にいたいのは、昔のような桜子だ。
研ぎ澄まされた刃のように冴えた光を放ち、触れるものみなに傷を負わせずにはいられない冷酷さ。なにものにもとらわれず、まっすぐに前を見て己が道をいく桜子だったのに。
ところが今はどうだ。かたときも姫の傍を離れない。稼業はすべておれたちまかせ。おれが目を光らせてはいるが、手下どもとて緩んでくる。
いっそ姫を殺そうか、とおれは思った。桜子に恨まれてもかまいはしない。昔の桜子を取り戻せるなら。
このごろの桜子は、小女すら近づけず、姫と母屋にこもったままだ。おれは意を決して桜子の元に向かった。
うらうらと暖かい春の宵だった。
山の桜は散りかけで、庭にも簀の子にも、屋根のかかった庇の中にもどこからともなく花びらが舞い落ち、降り積もり、夜目を照らすようだった。
おれは庇に立って、声もかけずに桜子たちのいる部屋の戸を開けた。
桜子は、姫と並んで座っていた。高灯台の薄明かりの中、桜子の顔はおれが見たこともないほど穏やかで、姫の肩に頭をもたせかけていた。
姫は静かに微笑んでいた。桜子を抱き寄せるようにして、桜子の豊かな髪を指先で弄んでいた。
おれは息を呑んだ。
姫が動いている。人形ではなく、美しい人間の表情をまとわせて。
桜子は、魂の大半を姫に譲り渡してしまったのか。
おれは、腰の刀に手をかけた。
姫を殺しさえすれば。
その時、低い笑い声が聞こえた。
はっと首をめぐらすと、部屋の隅の薄暗がりの中に翠野の姿があった。
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