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「羽白」
井月が肩に手を置いた。
羽白は、井月を見つめた。
「どうなっているんだ」
井月は〈霊喰い〉を指差した。澄んだ池だったそれは、濁り、泡立ち、しゅうしゅうと音をたてて、しだいに蒸発していくところだった。
「何をした? 神官」
「この山の生きものを、引き込めるだけ引き込みました」
井月は、こともなげに答えた。
「どんなものでも、食べすぎは腹を壊しますから。吸収しきれず、一気に吐き出したのです」
「なるほど……」
羽白はのろのろと額の汗を拭った。
〈霊喰い〉は、いまやきれいに蒸発していた。
はっと気づいてひわの姿を探す。
ひわはまだ倒れたままだったが、その口から小さな呻きがもれた。
「ひわ」
目を開いたひわは、一瞬身体を強ばらせ、長い悲痛な叫び声を上げた。
羽白は、ひわを抱えた。しかしひわは身をよじり、両手で顔を覆って悲鳴を上げ続ける。
井月がひわに近づき、軽く頭に手を乗せた。ひわは、がくりと首を垂れ、動かなくなった。
「何をした?」
「眠らせました。このままでは、喉がつぶれてしまう」
「ひどい経験だった。無理もない」
羽白は、身を震わせた。
「神官のおかげで助かった」
「いえ」
井月は目を伏せ、首を振った。
「ひわにとっては、そうでなかったかもしれません」
「どういうことだ」
「私たちは身体に戻りました。問題は麒麟です」
「この子と麒麟のことを知っているんだな」
「〈霊喰い〉の中にいた時に、だいたいのことはわかりました」
「麒麟も、自分の身体に戻ったはずだ」
「だといいのですが」
井月は、悲しげにつぶやいた。
「胸騒ぎがするのですよ」
羽白は、眉根をよせた。
その時、腕の中のひわの髪がふわりとなびいた。天井の裂け目から吹いてきたものではなかった。別の方向から。
羽白と井月は顔を見合わせた。井月は立ち上がった。
「向こうのようです」
羽白は、ひわを抱き上げて井月の後ろに続いた。入って来たのとはちがうもう一つの横穴があり、しばらく行くと小さな光が射してきた。
外への出口だ。
だがそれは、出口というにはあまりに狭いものだった。いくら身体を縮めても、肩くらいしか入りそうにない。
「岩盤ではありませんね」
穴のまわりを探った井月は言った。
「堀り広げることができそうです」
二人は旅嚢の中から道具になりそうなものを取り出した。幸い穴の土は柔らかく、小半時後、羽白たちは念願の外界に這い出した。
雑木にかこまれた、崖の下だった。秋枯れの山々が、見下ろすように迫っていた。
その上を、おびただしい数の鳥たちが、狂ったように旋回していた。大きな獣の咆哮が、あちらこちからきれぎれに聞こえてくる。
動物たちは、〈霊喰い〉に呑み込まれた時の衝撃からまだ醒めきっていないらしい。
井月は、前方の茂みに目を向けた。
羽白も井月の視線の先を見た。
枯れた灌木の下に、何かの死体が横たわっていた。
狼にでも貪り喰われたのだろう。横腹は、骨がむき出しになっていた。
血にまみれた身体から、金色のたてがみが見てとれた。鹿のような、小さな馬のような──。
その額に盛り上がっているのは、肉色の可憐なこぶ。
「麒麟──」
羽白は、呆然とつぶやいた。
「死んだのは、ついさっきのようです」
井月が麒麟の側にひざまずいて言った。
「〈霊喰い〉に囚われている間に襲われたのでしょう。霊は帰る身体を失い、そのまま地霊に吸い込まれてしまった」
「今までずっと待っていながら」
羽白は、腕の中でぐったりしているひわに顔を押しつけた。
「もう少しで生身のひわと会えたというのに」
「責任は私にあります。麒麟の霊をつなぎ止めておく方法を考えるべきでした」
「ひわに、それは見せられない」
「見せるどころか」
井月は、深々とため息をついた。
「羽白、ひわの霊は〈霊喰い〉のところで一度、麒麟とひとつになっているのです。それなのにまた離されて──いまのひわは、自分を失ったも同然です」
「では」
羽白は、はっと井月を見つめた。
「ひわは、どうなる」
「目覚めても、廃人になるしかないでしょう」
井月が肩に手を置いた。
羽白は、井月を見つめた。
「どうなっているんだ」
井月は〈霊喰い〉を指差した。澄んだ池だったそれは、濁り、泡立ち、しゅうしゅうと音をたてて、しだいに蒸発していくところだった。
「何をした? 神官」
「この山の生きものを、引き込めるだけ引き込みました」
井月は、こともなげに答えた。
「どんなものでも、食べすぎは腹を壊しますから。吸収しきれず、一気に吐き出したのです」
「なるほど……」
羽白はのろのろと額の汗を拭った。
〈霊喰い〉は、いまやきれいに蒸発していた。
はっと気づいてひわの姿を探す。
ひわはまだ倒れたままだったが、その口から小さな呻きがもれた。
「ひわ」
目を開いたひわは、一瞬身体を強ばらせ、長い悲痛な叫び声を上げた。
羽白は、ひわを抱えた。しかしひわは身をよじり、両手で顔を覆って悲鳴を上げ続ける。
井月がひわに近づき、軽く頭に手を乗せた。ひわは、がくりと首を垂れ、動かなくなった。
「何をした?」
「眠らせました。このままでは、喉がつぶれてしまう」
「ひどい経験だった。無理もない」
羽白は、身を震わせた。
「神官のおかげで助かった」
「いえ」
井月は目を伏せ、首を振った。
「ひわにとっては、そうでなかったかもしれません」
「どういうことだ」
「私たちは身体に戻りました。問題は麒麟です」
「この子と麒麟のことを知っているんだな」
「〈霊喰い〉の中にいた時に、だいたいのことはわかりました」
「麒麟も、自分の身体に戻ったはずだ」
「だといいのですが」
井月は、悲しげにつぶやいた。
「胸騒ぎがするのですよ」
羽白は、眉根をよせた。
その時、腕の中のひわの髪がふわりとなびいた。天井の裂け目から吹いてきたものではなかった。別の方向から。
羽白と井月は顔を見合わせた。井月は立ち上がった。
「向こうのようです」
羽白は、ひわを抱き上げて井月の後ろに続いた。入って来たのとはちがうもう一つの横穴があり、しばらく行くと小さな光が射してきた。
外への出口だ。
だがそれは、出口というにはあまりに狭いものだった。いくら身体を縮めても、肩くらいしか入りそうにない。
「岩盤ではありませんね」
穴のまわりを探った井月は言った。
「堀り広げることができそうです」
二人は旅嚢の中から道具になりそうなものを取り出した。幸い穴の土は柔らかく、小半時後、羽白たちは念願の外界に這い出した。
雑木にかこまれた、崖の下だった。秋枯れの山々が、見下ろすように迫っていた。
その上を、おびただしい数の鳥たちが、狂ったように旋回していた。大きな獣の咆哮が、あちらこちからきれぎれに聞こえてくる。
動物たちは、〈霊喰い〉に呑み込まれた時の衝撃からまだ醒めきっていないらしい。
井月は、前方の茂みに目を向けた。
羽白も井月の視線の先を見た。
枯れた灌木の下に、何かの死体が横たわっていた。
狼にでも貪り喰われたのだろう。横腹は、骨がむき出しになっていた。
血にまみれた身体から、金色のたてがみが見てとれた。鹿のような、小さな馬のような──。
その額に盛り上がっているのは、肉色の可憐なこぶ。
「麒麟──」
羽白は、呆然とつぶやいた。
「死んだのは、ついさっきのようです」
井月が麒麟の側にひざまずいて言った。
「〈霊喰い〉に囚われている間に襲われたのでしょう。霊は帰る身体を失い、そのまま地霊に吸い込まれてしまった」
「今までずっと待っていながら」
羽白は、腕の中でぐったりしているひわに顔を押しつけた。
「もう少しで生身のひわと会えたというのに」
「責任は私にあります。麒麟の霊をつなぎ止めておく方法を考えるべきでした」
「ひわに、それは見せられない」
「見せるどころか」
井月は、深々とため息をついた。
「羽白、ひわの霊は〈霊喰い〉のところで一度、麒麟とひとつになっているのです。それなのにまた離されて──いまのひわは、自分を失ったも同然です」
「では」
羽白は、はっと井月を見つめた。
「ひわは、どうなる」
「目覚めても、廃人になるしかないでしょう」
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