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しおりを挟む夜も明けないうちに草は大聖の呼び出しをうけた。
聖たちは〈谷〉深くに住んでいる。
大講堂の脇の通路に入ると下り階段が現れ、それは次第に狭くなって折り曲がりながら延々と続いていた。階段は途中、何度も枝分かれし、それぞれの庵に繋がっている。
いま使われているのは五つのみ。無人の庵、閉ざされた通路もいくつかあって、複雑さを増している。
手にした燭台の灯りが、壁に映る草の影をゆらゆらと揺らした。毎日の祈祷のためにここと大講堂を往復するのは、もう若くはない聖たちにとって、ある種の苦行なのではあるまいかと思いかけた時、前方の角がうっすらと明るくなった。
行者と、後ろに従う見習いらしき少年の二人連れがやって来る。二人とも、見たことのない顔だった。影がなく、後ろの壁が透けて見えそうな希薄さ。
違う時空の者たちだ。
それでも思わず脇によけた草は少年と目が合った。
少年は、ありありと驚きの表情を浮かべた。叫んだかもしれないが、その声は聞こえなかった。二人の姿はすぐに闇の中に消えてしまったから。
おそらくあの少年にとっては初めて出くわす現象だったのだろう。線の細い、育ちの良さそうな顔はどことなく卓我に似ていた。
過去の者だったのか、未来の者なのか。
ぼんやりと考えながら再び歩き始めてまもなく、大聖の庵にたどりついた。
ほとんどの庵は谷の洞窟を利用して作っている。入り口も帳を下ろしただけのものだ。岩壁がむき出した狭い空間で、墨染めの衣をまとった五人の聖が草を待ち構えていた。
真ん中に座っている大聖の可名は、大柄で筋肉質の老人だ。だいぶ薄れかけた髪。厳つい顔つきは聖と言うより屈強な武人を思わせる。
可名は草に座るように身振りした。聖全員と顔を合わせるのは行者の認可を受けたとき以来なので草はいささか緊張した。
「おぬしの力は我々も感じた。一瞬で鬼を追い払ったな。まれに見る強い力だ」
草を見つめたまま大聖は言った。
「〈念〉はもともと目に見えぬもの。光を生み出すとは〈念〉を超える力がおぬしにはあるらしい」
「夢中だったのです。大聖」
「むろんそうじゃろう。みなを守るためにしたことだろうて」
可名のとなりにいる聖が口をひらいた。薄い白髪。小さく丸まった身体。この中の最年長である陸だ。
「今はどうかの、また同じ力が出せそうか?」
「わかりません」
草は正直にこたえた。
「ただ、何となくこつはつかめたような気がします」
「なるほど」
聖たちは黙り込んだ。心語で話し合っているのだろう。礼儀上、それをのぞき込むことはできなかった。草はただじっとしていた。
「あれがやむをえなかったことは、我々も理解しておる」
ややあって、陸が言った。
「だが、忘れるな。光は容易に影を生み出す。強ければ強いほど濃い闇をな」
「闇」
「おのれの力に支配されてはならぬということだ。力あるものが鬼になるのは、ままあること」
「わたしも鬼になると?」
草はぎょっとした。
「そうはいっておらん」
可名が言った。
「心せよと言うことだ。おぬしの力は〈谷〉に必要となるだろう。どういうわけか、鬼の力が変化している」
「変化?」
「鬼はたいてい個々で動く。〈谷〉への襲撃もばらばらで防ぎやすかった。しかし、さきほどは違う。ひとかたまりになっていた」
草はうなずいた。確かにあれは巨大な黒い塊だった。一つの生き物のようにうごめき、触手を伸ばしてきた。
「なぜ──」
「わからん。これまでにない力を手に入れたのか、加わったのか。最近〈谷〉で死んだ聖はいないというのに」
聖たちの顔が一瞬強ばったように見えた。
聖たちも鬼になる恐怖と戦っているのだろうか。幾年も修行を重ね、自己の魂を澄まし、いつでも昇天できる準備を整えているはずの聖でさえも。
「鬼は、まっすぐに見習い部屋に向かったように思えました」
右端に座っていた聖が慎ましく口を開いた。草が〈谷〉に入った年に聖になった咲で、最も若い。
「一番弱いところを狙ったのでしょうか」
「かもしれん」
あの時のことを、草はもう一度思い返してみた。
見習部屋の壁を突き破って現れた漆黒の塊。
じわじわと這い進み、蛇の鎌首のような触手をもたげ、それらはみな、同じ方向に向けられていたのではなかったか。
その先には──。
「卓我」
草は言った。
「鬼は、卓我に向かって行きました」
「卓我?」
「今日入った王の甥だ」
聖たちはささやき交わした。
「今、どうしている?」
「気を失って、杜が面倒をみています」
「鬼と王族、何の関係が」
陸は可名を見上げた。可名は首を振った。
「卓我に会ってみよう」
庵の外がようやく明るんできた。
可名は草を伴って、卓我のいる療養所に向かった。
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