鬼の谷

ginsui

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 流行病はやりやまいにそなえて、療養所は〈谷〉の一番西外れにある。
 薬草の臭いが染みついた部屋の片隅に卓我は横たわっていた。
「大聖」
 可名が入ると、杜は頭を下げた。
「どんな様子だ」
「ずっと眠っています」
 なるほど。卓我は目を閉じたままぴくりともしない。胸のわずかな上下がなければ、呼吸しているのかもあやしくなりそうだ。
 可名は卓我の枕元に座り、その顔をのぞき込むようにした。
 〈念〉をこらしているのが感じられた。
 草は杜とともに、息を潜めて可名を見守った。
 可名の身体が、がくりと前のめりに倒れた。
「大聖!」
 草と杜は、あわてて可名をささえた。可名は肩で大きく息をし、自力で身を起こした。
「すまん。大丈夫だ」
「どうなさいました?」
「夢なりとも覗けたらと思ったのだが。なにもつかめなかった。精神の奥があまりに深すぎる。そのまま引きずり込まれてしまいそうだった」
 可名は、両手で顔をこすった。
「考えられん。これは普通の人間ではない」
 可名は、自分の動揺を抑えるように押し殺した声で言った。
「いったい、何者だ」
 大聖でさえ解らないことを、自分たちが答えられるわけもない。
 草と杜は、卓我を見つめた。青白く、全く動かない人形のような顔を。
「卓我は」
 杜が言った。
「〈念〉を持っていました。はじめから」
 可名は眉をひそめた。
「この子供が、鬼にとって特別な何かであることは確からしい」
「鬼はまたやって来るのでしょうか」
「おそらくな」

  破壊された見習部屋の壁は応急の修理がほどこされた。
 〈谷〉の日課はいつも通り繰り返され、再び夜を迎えた。
 行者全員で結界を強めた。五人の聖は卓我のいる療養所に集まった。
 卓我に目覚める気配はなかった。
 聖たち全員で〈念〉を合わせ、卓我の内を覗こうと試みたが、結果は可名の時と同じだった。 
 誰もたどり着けない、底なしの謎。
 草も療養所にいるよう命ぜられた。
 聖たちは、卓我のまわりに座った。卓我に背を向け、結界を張った。
 居心地悪いながらも、草はその中に加わった。
 大聖だけが枕辺で卓我を見守っている。
 〈谷〉全体が息をひそめて鬼の到来に備えていた。少しの風音だけでも張り詰める〈念〉が感じられた。
 どのくらい時間がたったのか。
 月は、もう高く昇っているはずだ。
 草はそっと首をめぐらして卓我を見やった。ほんの少し卓我が動いたような気がした。
 草は思わず卓我に向き直った。
 卓我は身じろぎし、ゆっくりと目をあけた。
 と同時に、
 部屋中が凄まじく振動した。
 巨大な斧が突然振り下ろされたかのようだった。一瞬のうちに屋根が裂け、壁が崩れた。
 黒い塊がなだれこんできた。
 全く気配もないままに、鬼は近づいていたのだ。
 〈谷〉の結界は難なく破られていた。
 だが、聖たちの結界はまだ保たれていた。彼らが囲む狭い空間は、強力な場の力が働いていた。押し寄せる鬼はそれ以上近づけず、見えない壁を隙間なく覆うのみだった。
 ようやく消えずにすんだ灯火ひとつが、皆の顔を照らし出していた。周りの闇はますます密度を増し、空気すら通さないのではないかと思われた。聖たちが力つきたその時は、鬼にのみこまれてしまうだけだろう。
「草」
 大聖が言った。
「あの光を。我々も力を貸す」
 草はうなずき、〈念〉を引き出した。
 聖たちの〈念〉が加わるのが感じられた。それを、自分の中に極限までため込んでいく。
 聖たちの〈念〉が移ったので、結界が弱まった。闇は、鼻先まで迫っていた。
 草は、一気に力を放った。
 光がほとばしった。
  一瞬意識が飛んだが、すぐに自分の身体を支えた。あたりを見まわす。
 鬼は消えていた。
 大破した部屋の中で聖たちがうずくまり、目を覆っていた。唯一素早い動きをしたのは卓我だ。
 目覚めた卓我は立ち上がった。
 草が声をかける暇もなかった。鬼が破った壁の間から、裸足のまま外に駆けだしたのだ。
「卓我!」
 草は聖たちを残して卓我を追いかけた。                                          
 卓我が行った方に道らしい道はない。月明かりに照らされた薄ぼんやりとした夜の中、卓我の白い影は背の高い木々の間に見え隠れした。熊笹の茂みに何度も足を取られそうになりながら、草は卓我の姿を見失うまいと必死だった。
 卓我がふいに立ち止まった。
 前方に水音。深い沢が行く手をはばんでいたのだ。
 草はほっとして卓我に駆け寄り、彼の肩をつかもうとした。
 その時、空気が震えた。
 木の上で眠っていた鳥たちが、けたたましい鳴き声とともに舞い上がった。
 息を呑む間もなく、凄まじい波動が起こった。草は地面に叩きつけられた。
 生暖かいものが顔にかかった。一緒に、いくつかの弾力のある塊が身体にぶつかる。
 血の臭いが立ちこめた。 
 草は、やっとのことで身を起こし、卓我のいた方を見た。
 卓我の姿はなかった。
 草のすぐ側に落ちていたのは、血まみれの手首。
 何かの力が卓我を襲ったのだ。
 鬼?
 草は声にならない声を上げ、両腕に顔を埋めた。
 冷たい風が吹いてきた。
 ひどく寒い。
 草はすすりあげながら、なんとか立ち上がった。
 いつの間にか月は隠れ、あたりは真の闇となっていた。
 卓我の身体がどこにあるのかも解らない。血の臭いも消えていた。                                   
 踏みしめる地面の感じが、さっきとは違うことに気がついた。足下の乾いた音。地面を枯れ葉が覆っていた。
 闇と一緒に、冷気も草を押し包んだ。
 鼻先に冷たいものが触れ、草は震える手でそれをぬぐった。
 雪が降ってきたのだ。
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