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しおりを挟む珀麻を連れた行者は、まずはじめに大聖の元に向かった。
谷の斜面に張りつく管めいた階段通路をどこまでも下っていく。
珀麻は、自分が地の底へと際限もなく下り続けているような気がした。
谷は深く、〈谷〉の者たちは、その底の底で暮らしているのだ。
だが、ついに行者は立ち止まった。
珀麻は行者に促されて、大聖の庵に入った。
大聖の茂利は銀色にみがまう白髪の、穏やかな顔立ちをした老人だった。顔を合わせると、無言で 珀麻を見つめた。奥の奥まで見通すような、ゆるぎなく、のがれようのない眼差しだった。
茂利が目を反らすと、 珀麻は思わず大きく息をついた。
「俗世のことは忘れるがいい」
大聖は静かに言った。
「修行に専念することだな」
忘れたいのは自分の血だ、と 珀麻は思った。父は先王の三番目の王子だったが、顔も知らなかった。母は正室ではなかったし、 珀麻が生まれて間もなく死んだ。
すでに正室と跡継ぎがいた父にとって、 母を亡くした珀麻には何の価値もなく、 珀麻は都から離れた母の実家で育てられた。とはいえ、自分の境遇に不満を感じたことなど一度もない。伯父夫婦は我が子のように可愛がってくれた。従兄弟たちも好きだった。この満ち足りた生活が、いつまでも続くものだと思っていた。都から突然の使いが来るまでは。
先王の死後、王位争いが起こったのだ。勝ったのは二番目の王子。彼は自分以外の王の血筋を絶つことにした。 珀麻の父も異母兄たちも粛清された。
珀麻は俗世から引き離された。繋がりなど、なにひとつ感じられない父親のために。
しだいに怒りがこみ上げてきた。なぜ自分はここに来なくてはならなかったのか。命を取られないだけまだしも、と伯母は泣いたが、これからの一生、自由を奪われこの暗い谷間で暮らすのとどっちがましなのだろう。
「行きなさい」
大聖は言い、行者と 珀麻は頭を下げて庵を出た。短い対面だった。
下がってきた分だけこんどは上らなければならないのだと、 珀麻はうんざりした。行者は慣れたもので足早に進む。角を曲がったところで、向こうからやって来る人影が見えた。板壁の隙間から光が漏れているので、通路は灯なしでも歩ける明るさだ。しかし、彼の周りだけ妙に暗い。彼が手にしている燭台の黄色っぽい灯りが、若々しい人なつっこそうな顔を浮かび上がらせていた。
行者は彼に気づいたようだったが、かまわずまっすぐに歩き続けた。
奇妙すぎる。
彼のいる場所だけ夜なのだ。
珀麻は目を見開いて彼を見つめた。彼は 珀麻を見返し、そして消えた。
珀麻は思わず悲鳴を上げた。
(驚かなくてもいい)
行者の声がきこえた。
(〈谷〉ではときどき起きることだ。違う時空が見えてしまう)
「では、あれは……。あの人は……」
珀麻は声を震わせた。
(無言の行だ。忘れるな)
行者は、たしなめながらもつけたした。
(あの行者は別の時空で生きている。いつの時代かはわからんが)
〈谷〉の半日を見よう見まねで過ごした 珀麻は、はじめて見習い部屋に入った。無言の行から解放された見習たちはいくつかの塊になって、低く言葉を交わしていた。
珀麻は、部屋の隅に崩れるように座り込んだ。すっかり疲れていた。
若い見習いが近づいてきた。皮肉っぽい目つきで 珀麻を眺めまわす。
「さすがに王族は違いますな」
彼は言った。
「来てすぐに大聖にご対面とは。下々は行者になるときぐらいしかお言葉をいただけないというのに」
「やめておけ。栃」
同じ年頃の見習いが面白そうに声をかけた。
「王族は、前にも悲惨な目にあっている。大聖もご心配なんだ」
珀麻は眉をあげた。
「もう六十年も昔のことだ」
きかれもしないのに栃は教えてくれた。
「あんたのような王族が来たそうだ。間もなく死んだ。〈谷〉を逃げ出し、鬼に襲われて」
鬼の話は聞いていた。〈谷〉の周りには修行の邪魔をする鬼たちが巣くっている。鬼に取り殺された者も鬼になるということだ。
六十年前の同類も鬼と化したのだろうか。確かに悲惨だ。望みもしない〈谷〉に入れられ、人間でないものになってしまうとは。
鬼になるのはごめんだな。 珀麻はぼんやりと考えた。だがここで一生を終えるのもごめんだった。なんとかして、うまく逃げ出す方法はないものか。
珀麻は壁にもたれかかった。身体がひどくだるく、そのままずるずると横になった。
「おい」
栃が驚いて声をかけた。
「顔が赤い。熱があるぞ」
珀麻は療養所に連れて行かれた。係の行者が熱冷ましの薬湯を飲ませてくれた。熱が下がるまでは、ここで寝ているようにと言われる。俗世から来たばかりで、流行病が心配されたのだ。
「念のためだ。疲れと、神経性のものだろうが」
珀麻の世話をしてくれた若い行者は尽と名乗った。落ち着いた口調と物腰をしていたが、まだ二十代の始めくらいだろう。
珀麻の床が敷かれた部屋は炉が切ってあり、かけられた鍋で湯がさかんに蒸気を上げていた。
隣の薬草部屋では、小引き出しを開け閉めする音や、すり鉢を擦る音がする。もう一人の係が薬草の調合をしているらしい。
熱のせいか、うとうとしては嫌な夢を見た。何度か目覚めたはずだが、夢は一続きになっていた。自分が鬼になっているのだ。
身体はなかった。
夜空高く上昇し、暗い地上を見下ろしていた。
狂ったような怒りだけがあった。怒りの対象は生きているものすべてだった。鬼は思考を持たず、ただ憎悪と破壊欲だけに支配されていた。
山間に点在する村を見つけ、突風となって急降下した。家々を面白いようになぎ倒していく。村人たちの悲鳴を後に、さらに先を目指した。いくつかの山を越えると、うっすらと明るい盆地が見えた。多くの人間の気配があった。
都だ。
建ち並ぶ貴族の屋敷では、門前に篝火が焚かれ、宿直の番人が巡っていた。
ひときわ明るいのは王宮だ。広大な敷地に回廊を巡らし、左右対称美しく配置された建物群がいくつもの篝火に照らされ、浮かび上がっている。
鬼の怒りはわけもなく高まった。王宮の上を旋回した。風を起こし、篝火の薪を吹き飛ばした。屋根の庇に燃え移った火を警護の武人たちがあわてて消し始めた。
それでもあきたらず、鬼は雲を集めた。雲は雷を生み出し、凄まじい音をたてた。炎と稲光が王宮を赤々と赫かせた。
激しく戸を叩く音で、 珀麻ははっと目が覚めた。
珀麻の寝ている部屋の脇は土間になっており、外への戸がつけられている。その戸が、揺さぶられるほど強く叩かれている。
鬼?
珀麻は今の夢を思い出し、はっと身を起こした。
「心配ない」
動じた様子もなく尽が言った。
「鬼など、もうしばらく現れていない。人間だ」
灯りを持って土間に降り、戸口ごしに問いかける。
「どなたです」
「教えてくれ」
切羽詰まった声が返った。
「ここはどこなんだ」
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