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しおりを挟むアロウィンは甲板の手すりにもたれかかり、さわやかな海風が頬をなぶるにまかせていた。
目に映るものは湾曲した水平線と、青い空を透かして浮かんでいる、綿のような雲ばかり。
もはや、ウェストファーレンは彼方の地ではなかった。そう、あと一月もすれば、この足で踏みしめることができるのだ。
島影は、とうに彼方に去っていた。
島を出る日、母は船着場で黙ってアロウィンを送り出してくれた。
「あなたひとりでお行きなさい、アロウィン」
前の晩に母は言ったのだ。
「わたしはこの島の生活に慣れてしまったの。今さらレヴァイアにはもどれない」
「いやだ!」
アロウィンは、夢中で叫んだ。
「どうしてそんなことを言うの。母さんと別れることなんてできないよ」
「別れじゃないわ」
母は優しく首を振った。
「あなたは、きっと会いにきてくれるでしょう。大きくなったあなたを、楽しみに待っているわ」
母の決心は変えようがなかった。
アロウィンは幼い子供のように、いつまでも母の膝に顔を埋めていた。
船着場には、涙をいっぱいにためているイリュの姿もあった。
島人の多くは、出航する船を遠まきに眺めていた。
いつもは無愛想な彼らの顔も、その時ばかりは優しく、どこか淋しげに見えた。
そして、そんな人々の顔がすべて小さな点になり、アロウィンの世界のすべてだった島がすっぽりと手のひらに包み込めそうになった時、アロウィンは島に別れを告げたのだった。
島の貫頭衣を脱いで、レヴァイア風の服を身につけた。細いズボンをはくことも、長袖の上衣を着ることもようやく慣れた。ただ、自分の姿をぎこちなく鏡に映してみる時、どうしようもない不安に襲われることがある。
レヴァイアで、何が待っているのだろう。
この自分が王の息子だなんて、今だに信じられないというのに。
だが、あのまま島に残っていては、自分の臆病さを一生ののしって過ごすことになったにちがいない。
アロウィンは自分に言いきかせた。
後悔なんて、まっぴらだ。
これから何が起ころうと、自分が選んだことなのだ。
海を眺め続けていたアロウィンのかたわらに、シャデルがやって来て静かに立った。
アロウィンは気づかわしげに彼を見やった。
シャデルが日増しに衰弱していくのは、誰の目にもはっきりとわかった。
今では船室に横たわっている時間の方が多かったし、食事もあまり口にしていないらしい。
彼にとって、この航海は苛酷すぎたのだ。どきりとするほどやせてしまった彼を前にして、そう考えるのは辛いことだった。
アロウィンはシャデルが好きだった。夢の中でも、そして今でも。
「どうした? もう島が恋しくなったのか」
「いえ」
アロウィンは、大きくかぶりを振った。
「ただ、こうしていることが、不思議でしかたがないんです。レヴァイアは、ぼくの憧れで、そこに行くことがぼくの夢でした。決して現実になることのない夢だったはずなのに」
「現実だ、間違いなく」
シャデルは微笑み、くっきりとした水平線を指さした。
「この海の向こうは、何があるか知っているか? アロウィン」
「ウェストファーレンでしょう」
「ウェストファーレンの向こうは?」
「ウェストファーレンの向こう?」
アロウィンは首をかしげて聞き返した。そんなことは考えたこともなかったし、考える必要もないと思っていた。海のはずれ、世界の縁、あとは宇宙の虚無だ。
「世界は、平らな水盤ではないんだ、アロウィン」
「ちがうんですか」
「世界は球だ。いくら行っても縁などないのさ。また同じ場所にもどってくるだけだ」
「それじゃあ、海の水がみんな落っこちてしまいますよ」
「落ちない理由があるんだ。そしてウェストファーレンの裏側には、別の大陸があるという」
「信じられない…」
「だろうな」
シャデルは、あっけにとられているアロウィンの顔を面白そうに眺めた。
「だが、世界はウェストファーレンだけではない」
「ぼくには、知らないことが多すぎますね」
「これからさ」
シャデルは、アロウィンの髪の毛を優しくつかんで言った。
「誰だって、自分の生きている世界の半分の謎も知りはしない。おまえは、これから、たくさんのことを学び、確かめていくことができるよ」
「ええ」
「そうだな。レヴァイアに行ったら、ゴルにいる〈緑人《りょくにん》〉のエルグに会うといい。〈緑人〉は物知りだ。いろいろと、ためになることを教えてくれるだろうよ」
シャデルは口をつぐみ、海ではない、もっと遠くの方に目をはせた。
そして、それがアロウィンにとって、シャデルの最後の思い出となった。
翌朝、寝室でひっそりと息絶えている彼をイムラが見つけた。
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