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足音など感じなかった。
来たのは突然の衝撃だった。
なにか重いものが、どさりと胸の上に落ちたのだ。永吾は一瞬息もできなくなった。激しくもがいて目を開けた。
夜更けにいつでも家を抜け出せるよう、永吾は庭に面した部屋に蒲団を敷かせている。なので、障子からはうっすらと月の光が射し込み、あたりのものがかろうじて見分けられた。
永吾の上に、何者かが馬のりになっていた。永吾は悲鳴をようやくこらえた。
覆いかぶさっているのは、憎悪むきだしの顔だった。眉はなく、血走った目はつり上がり、口は大きく横に避けていた。そして、振り乱した髪の中から覗く二本の角。
鬼だ。
役立たずの家宝を罵る間も与えず、鬼は永吾の首に両手をかけてきた。無言でぐいぐいと締めつける。
永吾は、必死で鬼の手を振り払おうとした。鬼の力は強く、びくともしない。ひと思いに締めてしまえばたやすく殺せるだろうに、鬼はまるで永吾の苦悶をじりじりと引き伸ばし、楽しんでいるかのようなのだ。
首から上が充血し、気が遠くなりかけた。
永吾は、鬼を押しのけていた両手をばたりと床に垂らした。抵抗をやめたと見せかけて、ありったけの気力をふりしぼって、枕元の刀に手を伸ばした。
柄を握り、刃で鬼の手を薙ぎ払った。
確かな手応えがあった。鬼は無言で飛び退った。
永吾は、肩を喘がせて立ち上がった。刀を両手に持ち直し、部屋の隅にうずくまる鬼に向かって振り下ろした。
忽然と鬼は消えた。
永吾は立ちつくし、ついで障子を開け放った。
雪が、夜目にも白く降り続いていた。庭に積もった雪には足跡ひとつない。庭木も外塀の雪も乱された跡はなく、ただ静かに月の光を弾いていた。
これは、金縛りのつづきの夢だったのか。
いや。
振り向いて、ぶるっと頭を振った。
乱れた蒲団の上に、鬼の片腕が落ちていたのだ。
左の肘から下の部分だった。赤銅色で筋張り、黒く鋭い爪が生えていた。
出血の跡はなかった。すっぱりとした斬り口を見せた左腕は、流木か何かのようにねじくれ、転がっていた。触った感触は硬い革だ。
永吾はしげしげとそれを見つめ、やがて紅花染めの風呂敷を見つけてきて、きっちりと包んだ。赤は魔除けになるだろう。
手元に置いておかなければ。
渡辺綱の昔から、鬼は斬られた腕を取り戻しに来ると決まっている。
朝から永吾は部屋に籠もった。再び現れるかもしれない鬼とどう戦うべきか考える。
そもそも、なぜ自分が鬼に襲われたのだろう。あれは、化けものとは異質のものだ。鬼に恨みをかうようなことをした憶えはない。
矢兵衛に相談したかった。しかし、矢兵衛はいま、お夕のことで頭がいっぱいだ。自分ひとりで戦うしかあるまい。
鬼の出方を待とうと思った。幸い、家宝は役に立ちそうだ。永吾は鬼の腕と国貞の刀を引き寄せて一日を過ごした。
夜になって蒲団にもぐりこんだが、目はしっかりと開けていた。
雪は、降ったり止んだりを繰り返していた。風が少し出てきたようだ。あおられた庭木が枝の雪をばさりと落とし、そのたびに永吾は身構えた。
と、外に風のせいではない気配を感じた。
ほの白い障子に影がさした。
「隅倉さま」
矢兵衛の声だ。
永吾はむくりと身を起こし、刀を取った。
鬼は、近しい者に化けて現れるのではなかったか。
「矢兵衛か」
「はい」
永吾は刀を抜き、そろそろと障子を開けた。
雪の白さにも増して白い、犬の矢兵衛が縁側をへだてて立っていた。永吾が逢いたくてたまらなかった姿で。
だが、気は許せない。永吾は身構えを解かなかった。
「本物なのか」
矢兵衛は静かに首をさしのべた。
永吾はためらいながらも手を伸ばし、矢兵衛の耳の後ろに触れた。指をうずめ、首筋から背中へと、やわらかな毛並みの感触を確かめる。
「腕をお返し下さい。隅倉さま」
永吾は、はっと手をひっこめた。
「お夕が、死にました」
矢兵衛は、悲しげにささやいた。
「もとに戻してやらなければ」
永吾は、ぎょっとして矢兵衛を見つめた。
「どういうことだ」
「それは、お夕のものです」
「ばかな」
永吾は部屋に戻り、震える手で風呂敷をほどいた。紅の布の中から、冷たく青ざめたものがあらわになった。
鬼のものではなかった。
痛々しいまでに華奢な女の腕。
そして同時に、金縛りの白い光の中に現れたのが誰の顔だったかはっきりと悟った。
恨みに満ちたお夕の顔だ。
来たのは突然の衝撃だった。
なにか重いものが、どさりと胸の上に落ちたのだ。永吾は一瞬息もできなくなった。激しくもがいて目を開けた。
夜更けにいつでも家を抜け出せるよう、永吾は庭に面した部屋に蒲団を敷かせている。なので、障子からはうっすらと月の光が射し込み、あたりのものがかろうじて見分けられた。
永吾の上に、何者かが馬のりになっていた。永吾は悲鳴をようやくこらえた。
覆いかぶさっているのは、憎悪むきだしの顔だった。眉はなく、血走った目はつり上がり、口は大きく横に避けていた。そして、振り乱した髪の中から覗く二本の角。
鬼だ。
役立たずの家宝を罵る間も与えず、鬼は永吾の首に両手をかけてきた。無言でぐいぐいと締めつける。
永吾は、必死で鬼の手を振り払おうとした。鬼の力は強く、びくともしない。ひと思いに締めてしまえばたやすく殺せるだろうに、鬼はまるで永吾の苦悶をじりじりと引き伸ばし、楽しんでいるかのようなのだ。
首から上が充血し、気が遠くなりかけた。
永吾は、鬼を押しのけていた両手をばたりと床に垂らした。抵抗をやめたと見せかけて、ありったけの気力をふりしぼって、枕元の刀に手を伸ばした。
柄を握り、刃で鬼の手を薙ぎ払った。
確かな手応えがあった。鬼は無言で飛び退った。
永吾は、肩を喘がせて立ち上がった。刀を両手に持ち直し、部屋の隅にうずくまる鬼に向かって振り下ろした。
忽然と鬼は消えた。
永吾は立ちつくし、ついで障子を開け放った。
雪が、夜目にも白く降り続いていた。庭に積もった雪には足跡ひとつない。庭木も外塀の雪も乱された跡はなく、ただ静かに月の光を弾いていた。
これは、金縛りのつづきの夢だったのか。
いや。
振り向いて、ぶるっと頭を振った。
乱れた蒲団の上に、鬼の片腕が落ちていたのだ。
左の肘から下の部分だった。赤銅色で筋張り、黒く鋭い爪が生えていた。
出血の跡はなかった。すっぱりとした斬り口を見せた左腕は、流木か何かのようにねじくれ、転がっていた。触った感触は硬い革だ。
永吾はしげしげとそれを見つめ、やがて紅花染めの風呂敷を見つけてきて、きっちりと包んだ。赤は魔除けになるだろう。
手元に置いておかなければ。
渡辺綱の昔から、鬼は斬られた腕を取り戻しに来ると決まっている。
朝から永吾は部屋に籠もった。再び現れるかもしれない鬼とどう戦うべきか考える。
そもそも、なぜ自分が鬼に襲われたのだろう。あれは、化けものとは異質のものだ。鬼に恨みをかうようなことをした憶えはない。
矢兵衛に相談したかった。しかし、矢兵衛はいま、お夕のことで頭がいっぱいだ。自分ひとりで戦うしかあるまい。
鬼の出方を待とうと思った。幸い、家宝は役に立ちそうだ。永吾は鬼の腕と国貞の刀を引き寄せて一日を過ごした。
夜になって蒲団にもぐりこんだが、目はしっかりと開けていた。
雪は、降ったり止んだりを繰り返していた。風が少し出てきたようだ。あおられた庭木が枝の雪をばさりと落とし、そのたびに永吾は身構えた。
と、外に風のせいではない気配を感じた。
ほの白い障子に影がさした。
「隅倉さま」
矢兵衛の声だ。
永吾はむくりと身を起こし、刀を取った。
鬼は、近しい者に化けて現れるのではなかったか。
「矢兵衛か」
「はい」
永吾は刀を抜き、そろそろと障子を開けた。
雪の白さにも増して白い、犬の矢兵衛が縁側をへだてて立っていた。永吾が逢いたくてたまらなかった姿で。
だが、気は許せない。永吾は身構えを解かなかった。
「本物なのか」
矢兵衛は静かに首をさしのべた。
永吾はためらいながらも手を伸ばし、矢兵衛の耳の後ろに触れた。指をうずめ、首筋から背中へと、やわらかな毛並みの感触を確かめる。
「腕をお返し下さい。隅倉さま」
永吾は、はっと手をひっこめた。
「お夕が、死にました」
矢兵衛は、悲しげにささやいた。
「もとに戻してやらなければ」
永吾は、ぎょっとして矢兵衛を見つめた。
「どういうことだ」
「それは、お夕のものです」
「ばかな」
永吾は部屋に戻り、震える手で風呂敷をほどいた。紅の布の中から、冷たく青ざめたものがあらわになった。
鬼のものではなかった。
痛々しいまでに華奢な女の腕。
そして同時に、金縛りの白い光の中に現れたのが誰の顔だったかはっきりと悟った。
恨みに満ちたお夕の顔だ。
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