マヨマヨ~迷々の旅人~

雪野湯

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第二十八章 笠鷺燎として

無の世界

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――無の世界


 ここは何もない世界。
 だがしかし、有がそこにあれば、無は有の思いを反映する。
 そして、その思いもやがては色褪せ、無に還る。


 無に捨てられた笠鷺燎かささぎりょうは、右手に着いた炎を消そうとばた狂っていた。
「熱い、熱い、ひぃぃ!!」

 ウードにより与えられてた火傷という痛みは、笠鷺に炎を想起させ、無はそれに応えた。
 右手の表面は焼け爛れ、血は流れ落ちる前に炎に呑まれ、肉を焼き、骨を焼いていく。

「ぎぎゃぁぁぁ!」

 叫び声は新たな想像を生む。
 炎は右手から全身に広がり、身体を焼き尽くしていく。

 髪の焦げる匂い、肉の焦げる匂い。
 目玉は蒸発し、喉は焼け、叫び声さえも炭となる。

「あがぁうがぁがえうぁぎあぁえいぁぐがががぁ」


 激痛が全身を包み、身体の内部もまた、肉焦がす痛みが広がる。
(たすけて……たすけて……)

 耐え難き苦痛から逃れようと、笠鷺は願う。
 助けてと……。
 しかし、それ以上に、炎の痛みがある想像を呼び起こす。
 それは…………死。


 手足も、体も、顔も、目玉さえも焼け爛れ、身体の内部も炎が呑み尽くす。
 笠鷺は死を想像する。
 同時にそれは、この苦痛から逃れたいという願いでもあった。
 
 その思いに無は応える。

 思考が消えていく。
 ゆっくりと苦痛が消えていく。
 そして、笠鷺燎という存在も消えていく。


 彼が最期に残そうとした思考。それは……。
(ああ、ようやく楽になれる。もう、何も苦しまなくて済む)

 すでに目は焼け落ち、彼が見ていたのは真っ黒な世界。
 するとそこに、ちらりと何かがまたたいた。

 彼はそれに意識を奪われ、視線を向ける。
 視線は目玉を生み、真っ黒となった顔に真っ新まっさらな瞳を生む。

 瞳はギョロリと動き、またたきに目を奪われた。
 そこには……。

(紫の輝き? あれは……俺の人差し指?)

 炭化した左の指先が輝いている。

(そうだ、あれは俺の指先だ! 爪が、紫に輝いている)

 彼がはっきりと光を意識すると、左の人差し指の爪の輝きが増す。
 紫の光に交じり、黄金の光が現れる。
 その光は優しく笠鷺燎を包み込んだ。

(これは……?)

 黄金の輝きが彼を包むと、炭化していた全身はすっかり人の姿に戻っていた。
 彼は紫に輝く爪先へ視線を向ける。

「これって、トーラスイディオムの力……うわっ!?」
 時と空間を司る偉大なる神龍、トーラスイディオムの名を口にした瞬間、紫光が一気に彼を飲み込んだ。



――――

(う、あつい……)

 じりじりと肌を焼く感覚が伝わってくる。
 だが、その熱は、熱さではなく暑さ……。
 彼はゆっくりと瞼を開ける。

「うわ、まぶしっ」

 強烈な光が彼の瞳を一瞬、白に染めた。
 だが、すぐに視界は開け、聞き覚えのある雑音が鼓膜を響かせる。

 彼の目には逃げ水浮かぶ地面が映る。
 頭からはセミの鳴き声のシャワーが降り注ぐ。

 周囲には多くの人々が行き交う光景。
 その人々の中には、ラフな格好をした人もいれば、汗まみれなりながらもスーツを着こなしている人たちもいる。
 それらは笠鷺燎が知る、地球の光景。
 そして、とても記憶深い光景。
 

「ここって、駅前……近藤と待ち合わせてた場所じゃ?」
 再び、周りを見回す。
 そこは自分が住んでいた町。
 よく利用していた駅前。

「やっぱり、あの駅前だ……じゃあ、今までのは夢だった、とか?」
 彼は両手を見つめる。
 そこには僅かではあるが、魔力を感じ取れる。

「いや、夢じゃない。ヤツハの時と比べると全然ちっぽけだけど、俺には魔力が宿っているし。あれ、でも?」
 
 両手を包む魔力。
 しかし、ここは地球。マフープは存在しない。
 そうであるのに、何か不思議な力が彼に取り込まれていく。
 それはマフープや魔力とは比べ物にならない、とても微量な力。

「なにこれ? すっごい弱いけど、地球にもマフープみたいなものが、はっ!?」


 不意に、左横からおぞましい闇を感じ取った。
 彼はそれをひらりと躱して、闇が手にしてた刃物を持つ手首を右手で握りしめる。
 そして、流れるように左手を相手の肘に沿え、左かかとで相手の右足を踏みつけ固定すると、てこの原理で闇の腕をへし折り、地面に転ばせた。

 闇は断末魔とも言える悲鳴を響き渡らせる。

 
 笠鷺は闇を見下ろす。
(こいつって、あの時の殺人鬼。やっぱり、ここは地球だ。しかも、アクタに訪れる前の……)

 彼はジワリと視線を殺人鬼に向けた。
 殺人鬼は折られた腕を支え、悶え苦しんでいる。
 その腕の先には刀身の長いナイフが落ちていた。

 そのナイフを目にした途端、左腹部に痛みが走り、刺された時の怒りが心を満たしていく。
(こいつのせいでっ! 俺はっ!! よくわからんけど、仕返ししとこっ)

「このっ、ボケがっ! よくも俺を殺しやがったな! 死ね、今すぐ死ねっ! ほりゃ、折れたところ踏んづけてやんよっ」


 笠鷺の殺人鬼に対する容赦のない攻撃に、周りの人々が驚き止めに入った。
「邪魔すんなっ! このボケのせいで、さっきまで!!」

 彼は周囲の制止を振り払い、殺人鬼の折れた手をブランブランと振って、痛みにのた打ち回らせる。
 痛みに泣き叫ぶ殺人鬼を見たことで多少の鬱憤が晴れたようで、笠鷺は思考を殺人鬼からアクタの出来事へと移した。
 もちろん、殺人鬼を痛めつけながら。

(どういうことだ? トーラスイディオムの力で地球へ戻ってきた? じゃあ、彼の力を使えば、もう一度戻れるとか?)

 
 笠鷺は視線を、紫色に染まる爪先に向けようとした。
 そこに数人の警察がやってきた。

 犯人を取り押さえに来たのだなと思い、笠鷺はホッとするが、それも束の間。
 彼らは殺人鬼ではなく笠鷺を取り押さえた。


「ぷぎゃっ。おい、刃物持って襲いかかったのあいつだぞ。なんで俺がこんな目にっ!」
「わかったから静かにしなさい。君は傷一つ負っていないんだから、やりすぎると過剰防衛になるよ」

「過剰なもんか! 刃物持って襲いかかったんだから殺されたって文句言えねぇはずだろ!」
「はいはい」
「うっわ。その受け流しよう、ムカつく~」
(ん、これは?)
 
 彼の視線の先に警察の腰が見える。
 そこには拳銃が……。

(もし、戻れるなら、武器が必要だ。今の俺のちっぽけな魔力じゃ、ウードには勝てない。もっとも、銃が効くとは思えないけど……ないよりマシか)
 
 彼は右手で警察官の腰の辺りを弄る。
(げっ、なんかコードが付いてる。なら、風の魔法でちょいっと)
 微小の風の刃で銃と繋がっているコードを切断し、右手の中に銃を隠し持つ。
 そこに、忘れ難い男の声が響いた……。


「笠鷺……」
「あ、近藤」
「え? 笠鷺……だよな?」

 近藤はまるで別人を見るかのように笠鷺を見つめる。
 笠鷺はそんな彼の態度に少し首を捻る。
(今の近藤はアクタで出会う前の近藤だよな。なんで俺を奇妙な目で見るんだろう? まぁ、それはいいや。とりあえず、こいつに過去のことは気にしないように言っておかないと)

 彼は近藤に左手の人差し指を向ける。

「近藤、あんま過去の、ぐわっ! またかよっ!?」

 突如、左の爪先が強い光を放ち、紫光と黄金の輝きが笠鷺を包み込んだ。
 視界はぼやけ、それが戻ると、笠鷺の瞳には広々とした草原が宿っていた。
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