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第3章
第2話 見ない男
10時。
さっきまでの軽いざわつきが落ち着いて、
フロアはいつものリズムに戻っていた。
キーボードの音。
電話の声。
誰かの笑い声。
全部、同じ。
なのに。
(……見ない)
分かる。
はっきり。
湊さんが、こっちを見ていない。
さっきから一度も。
席も距離も変わってないのに、
“視線”だけが完全に切れてる。
意識しなければ気づかないはずなのに、
気づいてしまう。
前は、勝手に来てたから。
何かあるたびに、見られてたから。
だから分かる。
“ない”って。
(……なんで)
いや、分かってる。
たぶん、わざとだ。
朝の延長。
“自分でやらせる”。
それは理解できる。
でも。
こんなに極端に切る必要あるのか。
画面に視線を戻す。
さっきの資料。
修正途中。
言葉を変えて、構成を直して。
やってる。
はずなのに。
(これでいいのか)
その確認が、どこにも置けない。
前なら。
横を見ればよかった。
今は。
見ても、返ってこない。
「止まってる?」
横から声。
反射で顔を上げる。
榊。
「……いえ」
即答する。
でも、少し遅れたのを自分で分かってる。
「いや止まってるでしょ」
軽く笑う。
責めてる感じはない。
ただ事実を言ってるだけ。
「ここ?」
画面を指される。
自然に距離が近い。
でも、湊さんとは違う。
意味がない近さ。
ただ見やすい距離。
「……はい」
「理由、弱いね」
あっさり言う。
でも刺さらない。
否定じゃないから。
「なんでこれやるの?」
「……効果が見込めるから、です」
「誰に?」
すぐ来る。
「……」
止まる。
言葉が出てこない。
「クライアント?」
「……はい」
「じゃあ、その人が納得する言い方にして」
それだけ。
シンプルすぎる。
でも。
逃げ道はある。
自分で考えろっていう距離。
「……分かりました」
「分かってないでしょ」
すぐ言われる。
「……はい」
今度は否定しない。
榊は少しだけ笑った。
「まあいいよ」
あっさり引く。
「一回出してみな」
それだけ。
押さない。
でも、任せる。
その距離が。
少しだけ楽で、少しだけ怖い。
画面に戻る。
言葉を直す。
数字を削る。
説明を足す。
少しずつ形にする。
その途中で。
無意識に視線が動く。
湊さんの方。
やっぱり、見てない。
完全に。
こっちを見てない。
(……ほんとに見ない)
そこまでやるか、と思う。
前は。
勝手に見てきたくせに。
確認してきたくせに。
今は、何もない。
それが。
少しだけ、ざわつく。
「できた?」
また声。
榊。
「……一応」
「見せて」
画面を向ける。
少しだけ緊張する。
でも。
前みたいに“正解を当てる”感じじゃない。
ただ、見られる。
「……あー」
榊が小さく声を出す。
「いいじゃん」
あっさり。
「さっきより全然いい」
「……本当ですか」
「うん」
即答。
「ちゃんと人に向けてる」
その言葉に、少しだけ引っかかる。
「人に……」
「課長のやつってさ」
軽く言う。
「正しいけど、冷たいんだよね」
一瞬、空気が止まる。
でも榊は気にしない。
「小林のは、ちょっと甘いけど通りやすい」
評価。
ちゃんと見てる。
“課長の部下”じゃなくて、個人として。
「で?」
「……はい?」
「どっちにすんの」
選択。
でも。
今回は逃げない。
数秒考える。
「……こっちで行きます」
自分の案を指す。
榊はすぐ頷く。
「うん、いいと思う」
それだけ。
その軽さが、逆に残る。
そのとき。
ふと。
榊がこっちをじっと見る。
「……なんですか」
思わず言う。
「いや、小林ってさ」
少しだけ笑う。
「顔いいよね、普通に」
「……は?」
反応が遅れる。
意味が分からない。
「営業だったらもっと楽だったのに」
さらっと続ける。
「話聞いてもらえそうだし」
完全に雑談のテンション。
でも。
距離が近い。
言葉が、近い。
「……いや、そんな」
否定しようとして、止まる。
どう返せばいいか分からない。
「照れてる?」
「照れてないです」
即答する。
少しだけ声が硬い。
榊はまた笑う。
「まあいいや」
あっさり流す。
深掘りしない。
残さない。
でも。
言われたことだけが残る。
(……顔いい)
そんなふうに言われたこと、あまりない。
少なくとも。
こんな軽さで。
そのとき。
ふと、視線が刺さる。
反射で顔を上げる。
湊さん。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、目が合う。
すぐ逸れる。
でも。
さっきまでの“ゼロ”とは違う。
(……見た)
それだけで、少しだけ呼吸が変わる。
さっきの言葉が、まだ残ってるのに。
その上から、別の感覚が重なる。
安心。
でも。
それだけじゃない。
「じゃ、送って」
榊の声。
「……はい」
画面に戻る。
送信ボタン。
一瞬だけ迷う。
でも。
今回は。
横を見ない。
確認もしない。
そのまま押す。
カチッ、と小さな音。
それで終わり。
戻せない。
でも。
それでいい。
背中に、気配がある。
見なくても分かる。
さっきとは違う。
“見ない”の中に、少しだけ混ざった“見てる”。
それが。
前よりも、分かりにくくて。
少しだけ、厄介だった。
さっきまでの軽いざわつきが落ち着いて、
フロアはいつものリズムに戻っていた。
キーボードの音。
電話の声。
誰かの笑い声。
全部、同じ。
なのに。
(……見ない)
分かる。
はっきり。
湊さんが、こっちを見ていない。
さっきから一度も。
席も距離も変わってないのに、
“視線”だけが完全に切れてる。
意識しなければ気づかないはずなのに、
気づいてしまう。
前は、勝手に来てたから。
何かあるたびに、見られてたから。
だから分かる。
“ない”って。
(……なんで)
いや、分かってる。
たぶん、わざとだ。
朝の延長。
“自分でやらせる”。
それは理解できる。
でも。
こんなに極端に切る必要あるのか。
画面に視線を戻す。
さっきの資料。
修正途中。
言葉を変えて、構成を直して。
やってる。
はずなのに。
(これでいいのか)
その確認が、どこにも置けない。
前なら。
横を見ればよかった。
今は。
見ても、返ってこない。
「止まってる?」
横から声。
反射で顔を上げる。
榊。
「……いえ」
即答する。
でも、少し遅れたのを自分で分かってる。
「いや止まってるでしょ」
軽く笑う。
責めてる感じはない。
ただ事実を言ってるだけ。
「ここ?」
画面を指される。
自然に距離が近い。
でも、湊さんとは違う。
意味がない近さ。
ただ見やすい距離。
「……はい」
「理由、弱いね」
あっさり言う。
でも刺さらない。
否定じゃないから。
「なんでこれやるの?」
「……効果が見込めるから、です」
「誰に?」
すぐ来る。
「……」
止まる。
言葉が出てこない。
「クライアント?」
「……はい」
「じゃあ、その人が納得する言い方にして」
それだけ。
シンプルすぎる。
でも。
逃げ道はある。
自分で考えろっていう距離。
「……分かりました」
「分かってないでしょ」
すぐ言われる。
「……はい」
今度は否定しない。
榊は少しだけ笑った。
「まあいいよ」
あっさり引く。
「一回出してみな」
それだけ。
押さない。
でも、任せる。
その距離が。
少しだけ楽で、少しだけ怖い。
画面に戻る。
言葉を直す。
数字を削る。
説明を足す。
少しずつ形にする。
その途中で。
無意識に視線が動く。
湊さんの方。
やっぱり、見てない。
完全に。
こっちを見てない。
(……ほんとに見ない)
そこまでやるか、と思う。
前は。
勝手に見てきたくせに。
確認してきたくせに。
今は、何もない。
それが。
少しだけ、ざわつく。
「できた?」
また声。
榊。
「……一応」
「見せて」
画面を向ける。
少しだけ緊張する。
でも。
前みたいに“正解を当てる”感じじゃない。
ただ、見られる。
「……あー」
榊が小さく声を出す。
「いいじゃん」
あっさり。
「さっきより全然いい」
「……本当ですか」
「うん」
即答。
「ちゃんと人に向けてる」
その言葉に、少しだけ引っかかる。
「人に……」
「課長のやつってさ」
軽く言う。
「正しいけど、冷たいんだよね」
一瞬、空気が止まる。
でも榊は気にしない。
「小林のは、ちょっと甘いけど通りやすい」
評価。
ちゃんと見てる。
“課長の部下”じゃなくて、個人として。
「で?」
「……はい?」
「どっちにすんの」
選択。
でも。
今回は逃げない。
数秒考える。
「……こっちで行きます」
自分の案を指す。
榊はすぐ頷く。
「うん、いいと思う」
それだけ。
その軽さが、逆に残る。
そのとき。
ふと。
榊がこっちをじっと見る。
「……なんですか」
思わず言う。
「いや、小林ってさ」
少しだけ笑う。
「顔いいよね、普通に」
「……は?」
反応が遅れる。
意味が分からない。
「営業だったらもっと楽だったのに」
さらっと続ける。
「話聞いてもらえそうだし」
完全に雑談のテンション。
でも。
距離が近い。
言葉が、近い。
「……いや、そんな」
否定しようとして、止まる。
どう返せばいいか分からない。
「照れてる?」
「照れてないです」
即答する。
少しだけ声が硬い。
榊はまた笑う。
「まあいいや」
あっさり流す。
深掘りしない。
残さない。
でも。
言われたことだけが残る。
(……顔いい)
そんなふうに言われたこと、あまりない。
少なくとも。
こんな軽さで。
そのとき。
ふと、視線が刺さる。
反射で顔を上げる。
湊さん。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、目が合う。
すぐ逸れる。
でも。
さっきまでの“ゼロ”とは違う。
(……見た)
それだけで、少しだけ呼吸が変わる。
さっきの言葉が、まだ残ってるのに。
その上から、別の感覚が重なる。
安心。
でも。
それだけじゃない。
「じゃ、送って」
榊の声。
「……はい」
画面に戻る。
送信ボタン。
一瞬だけ迷う。
でも。
今回は。
横を見ない。
確認もしない。
そのまま押す。
カチッ、と小さな音。
それで終わり。
戻せない。
でも。
それでいい。
背中に、気配がある。
見なくても分かる。
さっきとは違う。
“見ない”の中に、少しだけ混ざった“見てる”。
それが。
前よりも、分かりにくくて。
少しだけ、厄介だった。
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