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第3章
第10話 同期の会話
夕方。
フロアの人が少しずつ減っていく時間。
残っているのは、締め切りが近いチームと、帰るタイミングを逃した人間だけだ。
小林も、その一人だった。
画面の前に座っている。
でも、作業は止まっている。
進まない。
分からない。
それでも、帰る理由もない。
ふと、席を立つ。
コーヒーでも淹れようと思った。
理由は、なんでもよかった。
給湯室に向かう途中。
会議室の前で、足が止まる。
扉が、少しだけ開いていた。
中から、声がする。
「——だからさ」
榊の声だった。
少しだけ低くて、いつもよりフラット。
「それ、教育じゃなくて管理だろ」
思わず、足が止まる。
聞くつもりはなかった。
でも。
体が動かない。
返ってきたのは、湊の声。
「……分かってる」
あっさり。
迷いもなく。
小林の指先が、少しだけ冷える。
「分かっててやってたの?」
「うん」
短い肯定。
その軽さが、逆に重い。
榊が小さく息を吐く。
「やばいよ、それ」
「知ってる」
間。
紙が擦れる音。
椅子が軋む。
「で、どうすんの」
榊の声。
責めてるわけじゃない。
ただ、確認してる。
それに対して、湊は少しだけ間を置いた。
「……やめてる」
「今?」
「今」
静かな声。
小林は、その意味を理解する。
(……だから)
見ない。
確認しない。
何も言わない。
全部、意図的だった。
「極端すぎ」
榊が呟く。
「ゼロか百かしかないのかよ」
「その方が分かりやすいだろ」
「誰に?」
一瞬、言葉が詰まる。
小林は、息を止める。
湊は少しだけ笑った気配がした。
「俺に」
その答えに、胸の奥がざわつく。
「自分基準かよ」
「他人基準でやると、また同じになる」
「同じって?」
少しだけ沈黙。
それから。
「壊す」
短い一言。
それ以上の説明はない。
でも。
それだけで、分かる。
小林の手が、無意識に握られる。
「……で」
榊が続ける。
「小林は?」
名前が出た瞬間、呼吸が止まる。
「崩れてる」
即答だった。
迷いがない。
「だろうね」
榊も、否定しない。
「見て分かる」
「うん」
あっさり共有される。
その距離感が、少しだけ怖い。
「助けないの?」
「助けない」
これも、即答。
「今助けると、また戻る」
淡々とした声。
冷たいわけじゃない。
でも、優しくもない。
「それ、本人つらいよ」
「分かってる」
「それでもやるの?」
「やる」
迷いがない。
その強さに、少しだけ息が詰まる。
榊が小さく笑う。
「ほんとブレないな」
「ブレると意味ないから」
「何の?」
「選ばせること」
その言葉で、空気が少しだけ変わる。
小林の背中に、冷たいものが落ちる。
「それさ」
榊の声が少しだけ低くなる。
「選ばせてるつもりで、“選ばせてる形”になってるだけじゃない?」
沈黙。
長くはない。
でも、はっきりと間がある。
湊は、すぐには答えなかった。
「……否定できない」
静かな声。
初めて、迷いが混ざる。
小林は、その一言で理解する。
(……やっぱり)
全部、分かってやってる。
偶然じゃない。
無意識でもない。
意図的に。
ここまで。
「じゃあさ」
榊が少しだけ柔らかく言う。
「それ、いつ終わるの?」
その問いに。
今度は、少し長く沈黙が落ちる。
何かを考えている気配。
それから。
「……小林が、自分で選べるようになったら」
静かに言う。
その言葉に、胸の奥が揺れる。
選べるようになったら。
じゃあ、今は。
(……選べてない)
分かってる。
もう、分かってる。
でも。
言葉にされると、重い。
「それまで壊すの?」
「壊すっていうか、外す」
短い言葉。
「支えになってる部分を」
それが、何を指してるのか。
考えなくても分かる。
視線。
確認。
距離。
全部。
小林は、ドアの前で立ち尽くす。
逃げるタイミングを、完全に失っていた。
そのとき。
椅子が動く音。
会話が終わる気配。
慌てて、足を動かす。
給湯室の方へ。
何も聞いてなかったみたいに。
でも。
耳に残った言葉は、消えない。
(……分かってた)
全部。
最初から。
(……それでも)
胸の奥が、少しだけざわつく。
廊下の先。
ガラスに、自分の顔が映る。
少しだけ、疲れている。
その顔を見ながら、ふと思う。
(……じゃあ俺は)
(何を選んでるんだろう)
その問いだけが、静かに残った。
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