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第4章
第1話 変わらない朝から始まる
朝のオフィスは、いつも通りだった。
キーボードの音と、コピー機の低い駆動音。
誰かの小さな咳。
コーヒーの匂い。
変わらない。
はずなのに。
(……なんか、静かだ)
席に座りながら、ぼんやりと思う。
視線を上げる。
少し離れた席。
湊は、普通に仕事をしている。
こっちを見ない。
昨日までは、それでよかった。
いや、むしろ楽だったはずなのに。
(……こんなだったっけ)
思考が少しだけ引っかかる。
「小林」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
榊だった。
「その資料、今日中に出せる?」
「……あ、はい。いけます」
「ほんとに?」
軽く言われる。
いつもの調子。
でも、視線が少しだけ鋭い。
「いけます」
言い切ると、榊は小さく頷いた。
「じゃあ一回見せて」
「分かりました」
データを開く。
説明しながら、必要な箇所を見せていく。
榊は口を挟まず、黙って見ている。
少しだけ緊張する。
(……何かあるか?)
一通り説明が終わる。
「こんな感じです」
言うと、榊は数秒だけ画面を見て。
「うん」
短く返す。
「通ると思うよ」
あっさり。
それで終わるかと思った。
でも。
「……でさ」
一拍置いて、視線が上がる。
そのまま、小林を見る。
「昨日、どこ行ってた?」
一瞬、思考が止まる。
「……え?」
「帰り」
淡々としてる。
でも、逃げ場がない聞き方。
「……えっと」
言葉が詰まる。
その間に、榊が続ける。
「湊課長と一緒だったよね」
心臓が一瞬跳ねる。
「……見てたんですか」
「見てたっていうか」
少しだけ肩をすくめる。
「分かるでしょ、あれ」
あっさり言う。
小林は何も返せない。
(……あれって、何だよ)
思い返す。
距離。
歩き方。
何気ない会話。
特別なことはしてない、はずなのに。
「別に責めてないよ」
榊は続ける。
「ただの確認」
その言葉に、少しだけ引っかかる。
“確認”。
でも、湊のそれとは違う。
もっと単純で、外側の視点。
「……何をですか」
自然と聞いていた。
榊は一瞬だけ目を細めて。
耳元で囁く。
「付き合ってるでしょ」
断定だった。
疑いじゃない。
確認でもない。
結論。
言い切り。
言葉が、出ない。
否定しようと思えばできる。
誤魔化すこともできる。
でも。
(……それ、違う)
胸の奥で、はっきりする。
ここで逃げたら。
また前と同じになる。
一瞬だけ息を吸う。
「……はい」
小さく。
でも、ちゃんと出す。
榊はそれを聞いて、特に驚きもせず。
「やっぱりね」
それだけ言った。
「分かりやすいよ」
「……どこがですか」
思わず聞く。
榊は少しだけ考えてから。
「距離」
短く言う。
「あと、見方」
そのまま、視線を横に流す。
湊の方。
「見てないふりして、ずっと見てる」
一瞬だけ、空気が変わる。
思わず、つられてそっちを見る。
湊は、相変わらず仕事をしている。
こっちを見ない。
でも。
(……見てる)
分かる。
視線じゃなくて、感覚で。
「で、小林も」
榊の声に戻される。
「同じことしてる」
「……」
否定できない。
むしろ、はっきり自覚する。
(……ああ)
外から見たら、そうなるのか。
少しだけ、息が抜ける。
「まあいいんじゃない」
榊はあっさり言う。
「仕事に影響出さなきゃ」
「……はい」
「あと」
少しだけ声が低くなる。
「流されてるんじゃないんでしょ?」
その一言が、妙に残る。
小林は少しだけ目を瞬かせる。
「はい。自分で選んでます」
反射みたいに出る。
榊はそれを聞いて、軽く頷いた。
「なら問題ない」
それで終わり。
話を切る。
いつもの仕事の流れに戻る。
でも。
(……バレた)
実感が、遅れてくる。
しかも。
(……普通に受け入れられた)
拍子抜けするくらい、あっさり。
そのとき。
ふと、視線を感じる。
顔を上げる。
湊と、目が合う。
一瞬だけ。
すぐに逸らされる。
何も言わない。
何も変わらない。
でも。
(……分かってる)
たぶん、今のやり取りも。
全部。
見てた。
なのに。
何も言わない。
(……それでいいのかよ)
胸の奥に、小さなざわつきが残る。
さっき、榊に言った言葉。
「選んでます」
あれは、嘘じゃない。
ちゃんと、自分で言った。
でも。
(……これ、ちゃんと伝えたことあったっけ)
(いや、伝えてる)
(伝えてるけど、伝わってるかは分からないな)
一瞬だけ、思考が止まる。
そのまま、仕事に戻る。
画面を見る。
指を動かす。
でも。
(……分かってるのか)
湊に対して。
自分が、どう選んでるか。
ちゃんと。
伝わってるのか。
分からないまま。
キーボードを打つ音だけが、続いた。
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