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第3章
【番外編】甘いみかん
瀬名が房を持ち上げる。
薄い皮の向こうで果肉が透けて、指先に少しだけ果汁がにじんで光っていた。
「このみかん好きです」
嬉しそうな声だった。
「甘平な」
俺が言うと、瀬名は少し真面目な顔になって復唱する。
「かんぺい」
ゆっくり、丁寧に。
「覚えました」
その言い方が妙に大げさで、思わず笑ってしまう。
「そんな大事そうに言うほどの名前か?」
「大事ですよ」
瀬名は房を口に運びながら答えた。
「だって美味しいです」
ひと口かじる。
瞬間、目が細くなる。
頬がふわっと緩むその顔が、やけに無防備だった。
「そんなに?」
「はい」
瀬名は素直に頷く。
「甘いのに、さっぱりしてて」
そして、ちらっとこっちを見る。
「橋本さんみたいです」
「どこがだよ」
「外はちょっと固そうなのに」
もう一房をつまむ。
「中、すごく甘いです」
さらっと言う。
からかってるのか、本気なのか。
瀬名の顔は、どちらとも取れる。
困る。
「……それ、俺をみかん扱いしてないか?」
「特別なみかんです」
即答だった。
瀬名は一房ちぎると、そのまま俺の口元へ差し出す。
「どうぞ」
「自分で食べられる」
「いいから」
軽く押し切られる。
仕方なく口を開けると、瀬名の指先がほんの少しだけ唇に触れた。
ほんの一瞬。
わざとかどうか、分からない距離。
口の中に甘平の濃い甘さが広がる。
確かに、うまい。
「ね?」
瀬名が得意げな顔をする。
みかんを褒めてるはずなのに、なぜか自分が褒められたみたいな顔だ。
「そんな好きなら、また買ってくるか」
何気なく言うと、瀬名の目が少しだけ大きくなった。
「ほんとですか?」
「季節ものだしな。今のうちだ」
「じゃあ」
瀬名がにやりと笑う。
「またすぐに部屋に呼んでくれるってことですね」
「みかんを食うだけだ」
「いいんですか?」
瀬名の声が少し低くなる。
「それだけで」
言いながら、手が伸びてくる。
さっきまでみかんを持っていた指が、今度は俺の腕に触れた。
やけにゆっくりした動き。
「……瀬名」
「はい」
軽い返事。
指先が、手首のあたりをなぞる。
「その触り方、怪しい」
「そうですか?」
瀬名は笑う。
「みかん食べてるだけですよ」
「今は俺を触ってるだろ」
「橋本さんも甘そうなので」
「ふざけんな」
瀬名は肩を揺らして笑いながら、まだ俺の手首を指先でなぞっている。
「怒りました?」
「怒ってない。ただ……」
その手を軽く掴む。
「遊ばれてる気がする」
「遊んでませんよ」
瀬名はあっさり言い切る。
「むしろ真面目です」
「どこが」
掴んだままの手を離さないでいると、瀬名は少しだけ首を傾けた。
「だって」
そう言って、空いている手でみかんの房をひとつ取る。
「橋本さん、さっき“また買ってくる”って言いましたよね」
「言ったな」
「俺、それ結構嬉しかったんです」
瀬名は房を口に運びながら続ける。
「だから」
噛んで、飲み込んでから。
「つい、触りたくなりました」
「理由になってない」
「なってます」
瀬名は平然としている。
「嬉しいと、人って触りたくなるじゃないですか」
「知らないな」
「橋本さんは?」
視線がまっすぐ向けられる。
「嬉しいとき、どうします?」
「……普通に喜ぶ」
「それだけ?」
「それだけ」
瀬名はしばらく考えるように黙った。
それから、ふっと笑う。
「じゃあ俺、分かりやすい方ですね」
「どういう意味だ」
「嬉しいと、触りたくなる」
そう言って、さっき掴まれていた手を今度は自分から絡めてくる。
指が、軽く重なる。
「ほら」
当たり前みたいな顔。
「分かりやすい」
思わず息が漏れる。
「……瀬名」
「はい」
「みかん食ってただけの流れじゃないだろ、これ」
「そうですか?」
瀬名は楽しそうに目を細める。
「でも、始まりはみかんですよ」
もう一房をつまむと、今度は自分で食べる。
甘い匂いが少しだけ漂う。
「橋本さん」
「なんだ」
「次買ってくるとき」
瀬名は指先についた果汁を、軽く舐め取った。
「もっといっぱい買ってきてください」
「そんなに食うのか」
「食べますよ」
それから、少しだけ声を落とす。
「長くここにいられる理由になるので」
言い終わったあと、瀬名は何でもない顔でまたみかんをむき始めた。
けれど、くっついた距離はそのままで、離れなかった。
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