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終 見えざる手
嵐
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『女』はどこからともなく姿をあらわし、土を触り、水を汲み、種をまいた。
言葉を知るのは二匹の獣だけだったので、彼らは『女』のもとへ行き、問いかけた。
『あなたはこのお方の体に、何をしているのですか』
『女』は振り返り、獣を見下ろすと、その姿を獣と同じものへ変えて言った。
『ここに食べ物の成る木を植えるのです。そうすれば飢えることはありません。教えてあげますから、一緒にやりましょう』
獣が『わたしたちは木の実を食べられないから』と断ると、『女』は獣の姿を消し、他の者と同じ姿になって、同じことを繰り返した。言葉の知らぬ者にはまず言葉を教えるので、言葉は獣たちのものだけではなくなった。
気づいたときには『女』の植えた木は森になり、そこにはたくさんの人間たちが住んでいた。
女は、すべてのものに名前があると言い、木々や木の葉、人々、たくさんの獣たち、さらには水の流れにまで、名前をつけた。
しかしその者には形が無かったので、人々はその者をどう呼べばいいのかと、『女』に問うた。
女は言った。
『名前があるから力を持つ。反対の名前を付けたもの同士は、相反する形を成すのです。一つのものに名前を付けたのなら、他のものにも名前を付けなければ、名前をつけた意味がありません。例えば、そう……あれは、神というものです』
そうしてその者は、形を持ったのだ。
◎◎◎◎◎
結局、母親と朝方まで話し、僕が目覚めたのは昼を過ぎたころだった。
……そういえばエムはどこに行ったのだろう。
今日は夜中から雨が降り出している。ベッドで激しい雨音を聞きながらボウッとしていると、唐突に隣の部屋でばたんばたんと扉が慌ただしく開閉する音が響いた。
しばらくすると、重い足音がいくつも廊下を駆け回っていく。
隣は空き部屋だ。
正確には、空き部屋だったんだけれど、現在『サキ』が使っている。……何事だろうか。嫌な予感がして、僕はゆっくりと扉を開いた。
その瞬間。ボウリングのボールみたいに、足元を灰色の長い何かが横切った。階段を駆け下りていく、見知ったベージュ色の後ろ髪が見えた気がする。突き当りにぶつかって止まった灰色の人は、僕と目が合ってますます気まずそうにしていた。
「……あの、どちらさまですか」
「あ、あはは……お休みのところを、お騒がせしてすいません」
ひっくり返った男の人は、困った顔で笑った。グレーの髪をしているので、おじさんかと思ったらその姿はずいぶんと若く、聖兄さんと同じくらいに見える。僕の手を取って頭を上に戻すと、その人は慣れた流麗な仕草で、床の上で礼を取った。
「ウサギと申します。現在、最高位の神官としてお仕えしているものです」
「組織のトップ……ってことですか? 」
「権力があるというよりは、代表のひとり、という感じでしょうか……ああそうだ、いつもあの人もお世話になっていました。まずはそれも挨拶しないと」
「あの人? 」
首を傾げた僕に、おっとりとその人は笑った。
「あっ、申し遅れました。実は僕、うめの婚約者で……」
どんがらがっしゃん。階段を何かが転げ落ちる。階下で悲鳴が上がり、コジロウさんの銅鑼声が、近所中に響いた。
「聖ぃ! 聖ぁ! うるさいぞ! 」
「うっせぇオッサン! てめえ、知っていやがったな! 」
「ワシはうめちゃんの味方なの! 」
「あの性悪女に口止めされたな! 俺達ぁ、あんたの上だってこと忘れんなよ! だいたい昨日のあんたの茶番にだって俺は言いたいことが山ほどあってなぁ! 」
「おう何だい! 言ってみろよアキ坊! 」
「……ははは。すいません。うち、騒がしくて」
「いいえ。元気なのは良いことです。これがずっと続けばいい」
そうだ。これが、『我が家』だった。
ウサギさんは、ふと鋭い視線で僕を射貫いた。
「……純さん。今朝がた、サキ様がお隠れになりました。同時期に我が神殿の錠が何者かに破られ、チェシャー猫の逃亡を許しました。……つまりタイムリミットが迫っています」
「アリスがまた現れる」
今日も、外では雨が降っている。ぼとぼと降る、塊のような雨だ。朝が来たのに雲は真っ黒で、地平線の裾が燃える様に赤い。
エムはこんな雨の中、どうしているのだろう。
◎◎◎◎◎
「……つまり、最初からアリスは『神様』を狙っていたということですか? 」
僕たちは、居間に円座を組んで迎えを待っていた。
「そう。純はすごく都合が良かった。聖と聖……神様の侍従の二人のところに、いずれサキは現れる。そうすれば、アリスの計画はほぼ完成」
「サキ様は、神の分霊だ。そこから神殿で眠る御方に辿り着けば……アリスは『神』と、同期することになる」
「するとどうなる」
「……神と同期するということは、この世界そのものの根源と同期するということだ。……アリスはこの惑星上のあらゆる生物へのアクセス権を得て、副次的により正確な予知能力を手に入れる」
「……ほんとうに世界征服しちゃうかもね。彼女」
みんな黙ってしまう。
その時、玄関の引き戸が開く音がした。
「……来たか」
「来ましたね……」
居間の空気が、ぴりりと引き絞られる。
コジロウさんがのっそり立ち上がり、戸口の前に立った。
後ろから、聖兄さんが僕の肩を押した。
「坊ちゃん、行きましょう」
門前には、大きなワゴン車が停まっていた。渦巻く風雨に晒されながら、神官に囲まれて僕は車にたどり着く。
車で待っていたのは、子供を抱いた女のひとや、会社員風のスーツの男のひと、小学生くらいの子供に、背筋の伸びた紳士など。どの神官も、表情が乏しいことを除けば普通の人に見えた。
彼らは厳密には『ヒト』ではない。魔女の手を取らず、言葉だけを与えられた獣たちの末裔だ。
「ワシらは名前を持ちません」
コジロウさんは、自分を指してそう言った。「だから、どんな形を選ぶこともできる。そう、自分で選ぶんですよ。ワシや『うめ』のように、名乗る名前を持っているやつは稀なんです。本来なら、今生でヒトとして生まれた聖さんと聖さん以外は、そこの『ウサギ』のように、属しているものの名を借りて使う」
「僕は、コジロウさんも『キメラ』なのかと思ったっていったら……怒る? 」
「怒りやしませんよ。我らも最初、似ていると思いましたからね。いや……もしかしたら、そのもの同じなのかもしれません。キメラが養殖なら、ワシらは天然ものというだけで」
『病院』は、静かなものだった。
まるでそこだけが、雨雲の傘から逃れたようだった。木々は枝葉から雨を滴らせるのみで、小枝の一本も折れていない。とっくに陽が昇っている時刻だというのに薄暗い中、建物は明かりが落ち、安穏とした眠りに包まれていた。
「どうして誰もいないんですか? 」
僕の隣に座っていた、赤ん坊を抱いた女性が教えてくれた。
「神殿の結界の効果ですわ。神殿に入るにはいくつも入口がありますが、ここの入口には魔女の結界が張られています。この地に魔女が脚を踏み入れた時、契約の証として作らせた結界です。この結界により神域は塞がれ、地上と隔絶し、被害を免れることができる」
「純。被害ってのは、つまりだな。『神さま』の引き起こすことからの被害だ。この地下の神殿じゃあ、この地を飲み込もうと、もっと凄まじく『神さま』の力が吹き荒れている。それは唯人には毒だ。生き物は眠っているとき、肉体が無防備になるかわり精神が守りの体勢に入る。眠りというのは、頭の中で砦を築いてるようなもんなんだよ」
「『神さま』が、どうして地上を攻撃するの。自分で作った世界じゃないか」
「かの御方は、一度ヒトに絶望して眠りについた。狂気と怒りを眠りで一時忘れているだけです。微睡みから覚めるたび、それを思い出して天災を降らせるのです。この雨を見てください……あの御方が完全に目覚めれば、再びすべては水に沈むでしょう。あの御方はそれほど傷ついている」
ワゴン車は雑木林に沿って進み、旧病棟の裏に停車した。入院病棟とは離れたこの施設は、今は無人であるという。僕はそこで車を降りた。
「……坊ちゃん。やっぱり、一人で行くのは……」
僕よりよっぽど不安そうな顔をして、聖兄さんが僕の腕をつかんだ。
「……みんな戦いに行くのに、僕の用事に付き合わせられないよ。ここは魔女の結界があるんだろう? 大丈夫。見つけたら門で待っているから」
「……やれるよな。純」
助手席の聖兄ちゃんが、身を乗り出して言う。僕は深く頷いた。
「僕がエムを見つけないといけないんだ」
言葉を知るのは二匹の獣だけだったので、彼らは『女』のもとへ行き、問いかけた。
『あなたはこのお方の体に、何をしているのですか』
『女』は振り返り、獣を見下ろすと、その姿を獣と同じものへ変えて言った。
『ここに食べ物の成る木を植えるのです。そうすれば飢えることはありません。教えてあげますから、一緒にやりましょう』
獣が『わたしたちは木の実を食べられないから』と断ると、『女』は獣の姿を消し、他の者と同じ姿になって、同じことを繰り返した。言葉の知らぬ者にはまず言葉を教えるので、言葉は獣たちのものだけではなくなった。
気づいたときには『女』の植えた木は森になり、そこにはたくさんの人間たちが住んでいた。
女は、すべてのものに名前があると言い、木々や木の葉、人々、たくさんの獣たち、さらには水の流れにまで、名前をつけた。
しかしその者には形が無かったので、人々はその者をどう呼べばいいのかと、『女』に問うた。
女は言った。
『名前があるから力を持つ。反対の名前を付けたもの同士は、相反する形を成すのです。一つのものに名前を付けたのなら、他のものにも名前を付けなければ、名前をつけた意味がありません。例えば、そう……あれは、神というものです』
そうしてその者は、形を持ったのだ。
◎◎◎◎◎
結局、母親と朝方まで話し、僕が目覚めたのは昼を過ぎたころだった。
……そういえばエムはどこに行ったのだろう。
今日は夜中から雨が降り出している。ベッドで激しい雨音を聞きながらボウッとしていると、唐突に隣の部屋でばたんばたんと扉が慌ただしく開閉する音が響いた。
しばらくすると、重い足音がいくつも廊下を駆け回っていく。
隣は空き部屋だ。
正確には、空き部屋だったんだけれど、現在『サキ』が使っている。……何事だろうか。嫌な予感がして、僕はゆっくりと扉を開いた。
その瞬間。ボウリングのボールみたいに、足元を灰色の長い何かが横切った。階段を駆け下りていく、見知ったベージュ色の後ろ髪が見えた気がする。突き当りにぶつかって止まった灰色の人は、僕と目が合ってますます気まずそうにしていた。
「……あの、どちらさまですか」
「あ、あはは……お休みのところを、お騒がせしてすいません」
ひっくり返った男の人は、困った顔で笑った。グレーの髪をしているので、おじさんかと思ったらその姿はずいぶんと若く、聖兄さんと同じくらいに見える。僕の手を取って頭を上に戻すと、その人は慣れた流麗な仕草で、床の上で礼を取った。
「ウサギと申します。現在、最高位の神官としてお仕えしているものです」
「組織のトップ……ってことですか? 」
「権力があるというよりは、代表のひとり、という感じでしょうか……ああそうだ、いつもあの人もお世話になっていました。まずはそれも挨拶しないと」
「あの人? 」
首を傾げた僕に、おっとりとその人は笑った。
「あっ、申し遅れました。実は僕、うめの婚約者で……」
どんがらがっしゃん。階段を何かが転げ落ちる。階下で悲鳴が上がり、コジロウさんの銅鑼声が、近所中に響いた。
「聖ぃ! 聖ぁ! うるさいぞ! 」
「うっせぇオッサン! てめえ、知っていやがったな! 」
「ワシはうめちゃんの味方なの! 」
「あの性悪女に口止めされたな! 俺達ぁ、あんたの上だってこと忘れんなよ! だいたい昨日のあんたの茶番にだって俺は言いたいことが山ほどあってなぁ! 」
「おう何だい! 言ってみろよアキ坊! 」
「……ははは。すいません。うち、騒がしくて」
「いいえ。元気なのは良いことです。これがずっと続けばいい」
そうだ。これが、『我が家』だった。
ウサギさんは、ふと鋭い視線で僕を射貫いた。
「……純さん。今朝がた、サキ様がお隠れになりました。同時期に我が神殿の錠が何者かに破られ、チェシャー猫の逃亡を許しました。……つまりタイムリミットが迫っています」
「アリスがまた現れる」
今日も、外では雨が降っている。ぼとぼと降る、塊のような雨だ。朝が来たのに雲は真っ黒で、地平線の裾が燃える様に赤い。
エムはこんな雨の中、どうしているのだろう。
◎◎◎◎◎
「……つまり、最初からアリスは『神様』を狙っていたということですか? 」
僕たちは、居間に円座を組んで迎えを待っていた。
「そう。純はすごく都合が良かった。聖と聖……神様の侍従の二人のところに、いずれサキは現れる。そうすれば、アリスの計画はほぼ完成」
「サキ様は、神の分霊だ。そこから神殿で眠る御方に辿り着けば……アリスは『神』と、同期することになる」
「するとどうなる」
「……神と同期するということは、この世界そのものの根源と同期するということだ。……アリスはこの惑星上のあらゆる生物へのアクセス権を得て、副次的により正確な予知能力を手に入れる」
「……ほんとうに世界征服しちゃうかもね。彼女」
みんな黙ってしまう。
その時、玄関の引き戸が開く音がした。
「……来たか」
「来ましたね……」
居間の空気が、ぴりりと引き絞られる。
コジロウさんがのっそり立ち上がり、戸口の前に立った。
後ろから、聖兄さんが僕の肩を押した。
「坊ちゃん、行きましょう」
門前には、大きなワゴン車が停まっていた。渦巻く風雨に晒されながら、神官に囲まれて僕は車にたどり着く。
車で待っていたのは、子供を抱いた女のひとや、会社員風のスーツの男のひと、小学生くらいの子供に、背筋の伸びた紳士など。どの神官も、表情が乏しいことを除けば普通の人に見えた。
彼らは厳密には『ヒト』ではない。魔女の手を取らず、言葉だけを与えられた獣たちの末裔だ。
「ワシらは名前を持ちません」
コジロウさんは、自分を指してそう言った。「だから、どんな形を選ぶこともできる。そう、自分で選ぶんですよ。ワシや『うめ』のように、名乗る名前を持っているやつは稀なんです。本来なら、今生でヒトとして生まれた聖さんと聖さん以外は、そこの『ウサギ』のように、属しているものの名を借りて使う」
「僕は、コジロウさんも『キメラ』なのかと思ったっていったら……怒る? 」
「怒りやしませんよ。我らも最初、似ていると思いましたからね。いや……もしかしたら、そのもの同じなのかもしれません。キメラが養殖なら、ワシらは天然ものというだけで」
『病院』は、静かなものだった。
まるでそこだけが、雨雲の傘から逃れたようだった。木々は枝葉から雨を滴らせるのみで、小枝の一本も折れていない。とっくに陽が昇っている時刻だというのに薄暗い中、建物は明かりが落ち、安穏とした眠りに包まれていた。
「どうして誰もいないんですか? 」
僕の隣に座っていた、赤ん坊を抱いた女性が教えてくれた。
「神殿の結界の効果ですわ。神殿に入るにはいくつも入口がありますが、ここの入口には魔女の結界が張られています。この地に魔女が脚を踏み入れた時、契約の証として作らせた結界です。この結界により神域は塞がれ、地上と隔絶し、被害を免れることができる」
「純。被害ってのは、つまりだな。『神さま』の引き起こすことからの被害だ。この地下の神殿じゃあ、この地を飲み込もうと、もっと凄まじく『神さま』の力が吹き荒れている。それは唯人には毒だ。生き物は眠っているとき、肉体が無防備になるかわり精神が守りの体勢に入る。眠りというのは、頭の中で砦を築いてるようなもんなんだよ」
「『神さま』が、どうして地上を攻撃するの。自分で作った世界じゃないか」
「かの御方は、一度ヒトに絶望して眠りについた。狂気と怒りを眠りで一時忘れているだけです。微睡みから覚めるたび、それを思い出して天災を降らせるのです。この雨を見てください……あの御方が完全に目覚めれば、再びすべては水に沈むでしょう。あの御方はそれほど傷ついている」
ワゴン車は雑木林に沿って進み、旧病棟の裏に停車した。入院病棟とは離れたこの施設は、今は無人であるという。僕はそこで車を降りた。
「……坊ちゃん。やっぱり、一人で行くのは……」
僕よりよっぽど不安そうな顔をして、聖兄さんが僕の腕をつかんだ。
「……みんな戦いに行くのに、僕の用事に付き合わせられないよ。ここは魔女の結界があるんだろう? 大丈夫。見つけたら門で待っているから」
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