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桐壺【四】
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宮中に帰った命婦は、帝がまだ起きていたのをお労しく思いました。
中庭の秋草の花が今を盛りと色美しく咲き誇っているのをご覧になるふりをして、気配りのきく優しい女房四、五人だけをおそばに召し、しんみりとお話などしているのです。
この頃は、宇多上皇が描かせた長恨歌の絵を明け暮れ見ているようでした。
長恨歌は、玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を題材にした詩です。
その絵に添えてある伊勢や紀貫之の和歌なども、恋人との死別の悲しみを歌ったものだけを口ずさみ、そういうお話ばかりを常に話題にしています。
帝は命婦に大層細やかに、更衣のお里のご様子を尋ねました。
命婦は全てが哀れの限りであったことをしみじみ伝えました。
帝は更衣の母君からのお返事を見ました。
「勿体ないお手紙は恐れ多くて置く場所もございません。このようなありがたい仰せごとにつけても、亡き人が生きていればと心も真っ暗になり、思い乱れるばかりでして」
荒き風 防ぎしかげの 枯れしより
小萩がうへぞ 静心なき
などというように、帝を無視したかのように取り乱しているのです。
悲しみのあまり心が動転している時だから無理もないと帝は思っているようです。
帝自身も、
「こんなふうに取り乱した様は人には見せたくない」
と心を静めるのですが、とても辛抱ができません。
初めて更衣に出会った頃の思い出まで掻き集め、あれこれと限りなく懐古し続けています。
生前は束の間も離れずにいられなかったのに、よくぞまあこうして死別した月日を過ごせたものだと、自分のことながら呆れ果ててしまうほどなのでした。
「故大納言の遺言に背かず宮仕えの本意を立て通してくれた礼としては、いつかは更衣を女御や中宮にして報いてやりたいと思い続けてきたのに、それも今は甲斐のないことになってしまった」
と帝は言い、母君の身を一層哀れに思いやります。
「しかしまあ、そのうち姫宮が成長した暁には、当然、姫宮の身にもそれ相応の喜び事が起こるでしょう。なるべく長生きするよう心がけることです」
などとも言います。
命婦が母君からの贈り物を差し出します。
玄宗皇帝が楊貴妃から贈られた形見の釵を幻術士に託し、楊貴妃のあの世での住処を見つけさせたという話を帝は思い出し、自分もこの形見の品でそのようにできたらと思うのも詮ないことでした。
尋ねゆく 幻もがな つてにても
魂のありかを そこと知るべく
絵に描かれた楊貴妃の容姿はとても美しいのですが、いくら腕の優れた絵師といっても筆の力には限りがありますので、なんとしても生身の色香は写しきれません。
太液の池の芙蓉や未央宮の柳に本当によく似ていたと長恨歌に歌われた楊貴妃の容姿は、さぞかし端麗だったでしょうけれども、更衣の優しく可憐だった生前の面影を思い出しますと、それは花の色にも鳥の声にも例えようもないのでした。
朝夕のお二人の愛の誓いには、
「天にあっては、比翼の鳥、地にあっては連理の枝となろう」
と長恨歌の詩句を固く約束したのに、それも果たせなかった更衣の薄命さが恨めしく思えてなりません。
風の声、虫の音につけても、帝にはこの世のすべてが物悲しく思われます。
その一方で弘徽殿の女御は帝に召されることのないままで、久しく清涼殿のお局にも上がっていません。
今夜は美しい月を鑑賞し、夜遅くまで管弦のお遊びに興じています。
帝は、伝わってくるその賑やかな楽の音を耳にして、
「なんという気性の烈しい人だろう、不愉快な」
と苦々しく思うのでした。
この頃の帝のご様子を見ている殿上人や女房たちも、はらはらして聞いていました。
もともとこの女御はひどく我の強い、刺々しい気性なので、帝の傷心など無視しきってそんな振る舞いをするのでしょう。
やがて、月も隠れてしまいました。
雲のうへも 涙にくるる 秋の月
いかで住むらむ 浅茅生の宿
と、更衣の母君の家を思いやりながら、長恨歌の玄宗皇帝が
「秋の燈挑げ尽くして未だ眠ること能わず」
と歌っているように、燈心をすっかりかき上げてしまい、それが燃え尽きる夜更けまで起きています。
右近衛府の士官が宿直の名乗りをする声が聞こえてくるのは、もう真夜中の一時頃になったのでしょう。
人目を憚って寝所に入ってからも、うとうとすることも出来ません。
朝目覚めても、更衣の生前は二人で夜の明けたのも知らず共寝して、朝政を怠っていたことを恋しく思い出します。
それにつけても更衣と愛し合った昔の日々が懐かしくてならず、やはり今もついつい朝政は怠りがちになるようでした。
食事も摂らず、略式の朝食にほんの形ばかり箸をつけるだけです。
清涼殿で出される正式のお膳部などは全く見向きもせず手も触れない様子なので、陪膳に伺候するすべての者たちは、帝の深い傷心の有り様をお労しいと嘆き合うのでした。
帝のお側に仕える人々は皆、
「本当に困ったことですね」
と言い合っています。
「こうなる前世の約束がきっとおありだったのでしょうね。帝は更衣のことで多くの人々から恨まれたり、謗られたりなさっても一向にお気にかけず、このことに関してだけはものの道理も失われていらっしゃった。
更衣の亡くなられた今はまた、こんなふうに世の中のことを何もかも思い捨てられたようになっていかれるのは、全く困ったことです」
などと、よその国の朝廷の例まで引き合いに出して、ひそひそと嘆き合うのでした。
中庭の秋草の花が今を盛りと色美しく咲き誇っているのをご覧になるふりをして、気配りのきく優しい女房四、五人だけをおそばに召し、しんみりとお話などしているのです。
この頃は、宇多上皇が描かせた長恨歌の絵を明け暮れ見ているようでした。
長恨歌は、玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を題材にした詩です。
その絵に添えてある伊勢や紀貫之の和歌なども、恋人との死別の悲しみを歌ったものだけを口ずさみ、そういうお話ばかりを常に話題にしています。
帝は命婦に大層細やかに、更衣のお里のご様子を尋ねました。
命婦は全てが哀れの限りであったことをしみじみ伝えました。
帝は更衣の母君からのお返事を見ました。
「勿体ないお手紙は恐れ多くて置く場所もございません。このようなありがたい仰せごとにつけても、亡き人が生きていればと心も真っ暗になり、思い乱れるばかりでして」
荒き風 防ぎしかげの 枯れしより
小萩がうへぞ 静心なき
などというように、帝を無視したかのように取り乱しているのです。
悲しみのあまり心が動転している時だから無理もないと帝は思っているようです。
帝自身も、
「こんなふうに取り乱した様は人には見せたくない」
と心を静めるのですが、とても辛抱ができません。
初めて更衣に出会った頃の思い出まで掻き集め、あれこれと限りなく懐古し続けています。
生前は束の間も離れずにいられなかったのに、よくぞまあこうして死別した月日を過ごせたものだと、自分のことながら呆れ果ててしまうほどなのでした。
「故大納言の遺言に背かず宮仕えの本意を立て通してくれた礼としては、いつかは更衣を女御や中宮にして報いてやりたいと思い続けてきたのに、それも今は甲斐のないことになってしまった」
と帝は言い、母君の身を一層哀れに思いやります。
「しかしまあ、そのうち姫宮が成長した暁には、当然、姫宮の身にもそれ相応の喜び事が起こるでしょう。なるべく長生きするよう心がけることです」
などとも言います。
命婦が母君からの贈り物を差し出します。
玄宗皇帝が楊貴妃から贈られた形見の釵を幻術士に託し、楊貴妃のあの世での住処を見つけさせたという話を帝は思い出し、自分もこの形見の品でそのようにできたらと思うのも詮ないことでした。
尋ねゆく 幻もがな つてにても
魂のありかを そこと知るべく
絵に描かれた楊貴妃の容姿はとても美しいのですが、いくら腕の優れた絵師といっても筆の力には限りがありますので、なんとしても生身の色香は写しきれません。
太液の池の芙蓉や未央宮の柳に本当によく似ていたと長恨歌に歌われた楊貴妃の容姿は、さぞかし端麗だったでしょうけれども、更衣の優しく可憐だった生前の面影を思い出しますと、それは花の色にも鳥の声にも例えようもないのでした。
朝夕のお二人の愛の誓いには、
「天にあっては、比翼の鳥、地にあっては連理の枝となろう」
と長恨歌の詩句を固く約束したのに、それも果たせなかった更衣の薄命さが恨めしく思えてなりません。
風の声、虫の音につけても、帝にはこの世のすべてが物悲しく思われます。
その一方で弘徽殿の女御は帝に召されることのないままで、久しく清涼殿のお局にも上がっていません。
今夜は美しい月を鑑賞し、夜遅くまで管弦のお遊びに興じています。
帝は、伝わってくるその賑やかな楽の音を耳にして、
「なんという気性の烈しい人だろう、不愉快な」
と苦々しく思うのでした。
この頃の帝のご様子を見ている殿上人や女房たちも、はらはらして聞いていました。
もともとこの女御はひどく我の強い、刺々しい気性なので、帝の傷心など無視しきってそんな振る舞いをするのでしょう。
やがて、月も隠れてしまいました。
雲のうへも 涙にくるる 秋の月
いかで住むらむ 浅茅生の宿
と、更衣の母君の家を思いやりながら、長恨歌の玄宗皇帝が
「秋の燈挑げ尽くして未だ眠ること能わず」
と歌っているように、燈心をすっかりかき上げてしまい、それが燃え尽きる夜更けまで起きています。
右近衛府の士官が宿直の名乗りをする声が聞こえてくるのは、もう真夜中の一時頃になったのでしょう。
人目を憚って寝所に入ってからも、うとうとすることも出来ません。
朝目覚めても、更衣の生前は二人で夜の明けたのも知らず共寝して、朝政を怠っていたことを恋しく思い出します。
それにつけても更衣と愛し合った昔の日々が懐かしくてならず、やはり今もついつい朝政は怠りがちになるようでした。
食事も摂らず、略式の朝食にほんの形ばかり箸をつけるだけです。
清涼殿で出される正式のお膳部などは全く見向きもせず手も触れない様子なので、陪膳に伺候するすべての者たちは、帝の深い傷心の有り様をお労しいと嘆き合うのでした。
帝のお側に仕える人々は皆、
「本当に困ったことですね」
と言い合っています。
「こうなる前世の約束がきっとおありだったのでしょうね。帝は更衣のことで多くの人々から恨まれたり、謗られたりなさっても一向にお気にかけず、このことに関してだけはものの道理も失われていらっしゃった。
更衣の亡くなられた今はまた、こんなふうに世の中のことを何もかも思い捨てられたようになっていかれるのは、全く困ったことです」
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