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第二章 命を告げるとき
鍵と決意
しおりを挟むsideユリカ
朝の光に目を細める。
肩に残る体温が、まだ消えていなかった。
――幸せだった。
あんなにも大切に抱きしめられたのは、生まれて初めてで。
けれど現実は残酷だった。
祖父の家は雨に削られ、壁が崩れていた。
もし彼が駆けつけてくれなければ、あの下に埋もれていたのかもしれない。
命を救ってくれた人に、もう会わないと決めるなんて矛盾している。
それでも、彼の未来を壊すわけにはいかなかった。
(好き。愛してる。……だから、行けない)
祖父の写真立てと、わずかな衣服だけを抱え、彼女は街の方へと向かった。
鐘の音が遠くで響く。けれど振り返らない。
あの場所に戻れば、また甘えてしまう。
だから――二度と。
荷をまとめて門を出た時点で、行く先は決めていなかった。
市場通りの外れで、洗い桶を抱えた女が足を止めた。
「部屋、探してる顔だね。裏手の借家、一室空いてる。六畳の一間。紹介料は二か月分」
女が肩をすくめて大家を呼ぶ。
しばしの沈黙ののち、古い鍵が卓上で鳴った。
「家賃は前払い二か月分が条件。窓は中庭向きで日当たりはいい。壁に釘穴があるが我慢しな」
「揉めごとは一切ご法度だよ。音、近所トラブル、宗教沙汰――何かあれば即日退去。前払いは返さない」
胸の奥で小さく息が詰まる。
紹介料二か月、家賃二か月――合計四か月分。
けれど、背に腹は代えられない。
「……払います」
鍵は手に余るほど重い。
財布は羽のように軽い。
狭い階段を上がると、木の床に薄いラグ、小さな窓、壁際に低い棚。
ベッドと小机を置けば、ほとんどいっぱいだ。
小窓の向こうに、遠くの鐘楼が針の先ほどに見える。
荷を置き、息を吐いた。
(ここからでいい。ここから、やり直す)
sideユリカ
薄曇りの朝。古びた木造アパートの六畳ほどの一間。
壁は傷んで隙間風も入るけれど、今の私には十分すぎるほどだった。
窓辺の机には、祖父アルセイドと幼い自分が並んだ写真立て。
「おじいちゃん、見ててね。私、ちゃんと生きてるよ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
部屋の片隅には最低限の荷物。
ここは「誰の庇護にも頼らない場所」だ。
(大丈夫。ここから、また始めればいい)
そう思った矢先、郵便受けの音に心臓が跳ねた。
差出人は国家治安局――「ガーディアン」。
『神官ルアルク・ノア・アストレイドの体調急変に関する調査のため、事情をお伺いしたく――』
丁寧な文面。
だが明らかに“圧力”だった。
(……毒を盛った、なんて)
ありもしない通報を理由に、記録だけでも残すつもりなのだ。
(あの人の未来を思ったはずなのに……)
そっと息を吐く。
誰の保護も受けないということは――誰にも守ってはもらえない、ということだった。
◇
昼を少し過ぎた頃。ユリカは軽く食事を済ませ、片づけをしていた。
小さな流し台の蛇口は古びていて、水を止めてもわずかに音を立て続ける。
そのとき、コンコンと控えめなノックが響いた。
誰か来る予定はなかった。
郵便の時間でもない。
玄関の覗き窓から外を覗くと、見慣れない制服姿が視界に映る。
(……まさか)
胸の奥がざわめいた。
「どちら様でしょうか」
扉越しに声をかけると、落ち着いた声が返ってきた。
「国家治安局本部の者です。少し、お時間をいただけますか?」
息が詰まるような感覚に、思わず手が震えた。
背筋を伸ばし、扉の鍵をゆっくりと外す。
ドアを開けた先には、黒ずくめの制服に身を包んだ男が一人。
丁寧な物腰ではあったが、その視線には明確な目的と圧があった。
「……何か、問題でも?」
ユリカの声は少しだけかすれた。
警戒と不安が、身体をこわばらせる。
「いえ。あくまで、任意でのご協力をお願いしたく参りました。
教会に関する一連の出来事について──少し、お話を伺いたいのです」
教会。
その言葉に、ユリカの心臓が跳ねた。
ルアルクのこと。あの夜のこと。
あるいは、噂となって広がった“あの朝の出来事”のことかもしれない。
「少し……支度をします」
「もちろん。外でお待ちしていますので、落ち着かれてからで結構です」
男は一礼し、廊下の端へと下がった。
扉を閉めた瞬間、ユリカは背中を預け、壁に身体を滑らせるようにしゃがみ込んだ。
さっきまでの胃のむかつきが、再び波のように押し寄せてくる。
(……大丈夫。ちゃんと、話せる)
誰かを守るために、自分が選んだ道だ。
どんな疑いをかけられようと、あの日の決断に悔いはない──そう、言い聞かせた。
数分後、ユリカは薄手の羽織を羽織り、静かに扉を開けた。
男の視線が向けられた瞬間、一瞬だけ視界が揺れたが、それを悟られぬよう笑みを浮かべる。
「お待たせしました」
「ありがとうございます。では、こちらへ」
歩き出した男の後に続きながら、ユリカは目を閉じる。
体は少し重かった。
けれど、足取りは確かだった。
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