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第六章 本当の夫婦
灯りの下の告白と朝の奇跡
しおりを挟むsideユリカ
リビングには、柔らかいランプの灯りだけが満ちていた。
さっきまで泣きじゃくっていたリシェリアは、ミーナに抱かれて寝室へ運ばれていった。
扉が閉まる音がしてから、二人きりになる。
ソファの端に腰掛けたシェイは、妙に姿勢を正していた。
背もたれには寄りかからず、両膝に置いた手はきっちり揃えられている。
落ち着かないのか、時折喉を鳴らし、視線が宙をさまよう。
「……ユリカさん」
「はい」
名前を呼んだくせに、続きの言葉が出てこない。
小さく息を吸い、吐き、また吸って――ようやく口を開いた。
「……俺は、本当は子どもを持たないと決めていました」
ゆっくりと、言葉を選ぶように。
「俺の生まれには……普通の人とは違う部分があります。
……不老不死に近い存在なんです」
ユリカは黙って耳を傾けた。
シェイは視線を床に落とし、さらに続ける。
「そして、その力は……子を持てば移っていく。
親は力を失い、子がその“呪い”を背負う仕組みになっている。
――だから、俺は……自分の血を残すべきではないと、ずっと思っていました。
人と深く関わることも避けてきました
。
……関わった人を置いていく未来が、ずっと怖かった。
……でも、あなたとリシェリアと過ごすうちに、その恐さよりも――
この時間を手放す方が、ずっと……耐えられないと気づきました」
喉がひくりと動き、言葉が途切れる。
シェイは一度目を伏せ、またゆっくり顔を上げた。
「……俺は、君が欲しい。
俺の愛は綺麗じゃない。独占欲と嫉妬でいっぱいです。
でも、もう……嘘はつけません」
硬く結ばれた唇。
その告白に、ユリカはふっと微笑んだ。
「……知ってました」
「え?」
「ずっと我慢してくれてたことも、本当は優しい人だってことも。
でも……私も同じです。あなたのぬくもりが、欲しい」
そう言って、ユリカはそっと身を乗り出した。
目を見開くシェイの肩に手を添え、その唇に触れる。
触れるだけの短いキス――のはずが、シェイの手がゆっくりとユリカの頬に伸び、わずかに引き寄せた。
心臓の音が二人の間で重なり合う。
「……ユリカ」
掠れた声で名を呼ばれ、ユリカは笑みを含んだ瞳で見上げる。
「……行きますか?」
シェイは一瞬きょとんとした後、耳まで赤くなった。
それでも、頷いた。
◇
ランプの灯りが落ち、廊下の静けさがふたりの足音だけを抱き込む。
扉が閉まる小さな音のあと、寝室の空気がゆっくりと肌に触れた。月灯りが白いカーテンを透けて、床に揺れる。
ユリカはベッドの端に腰を下ろし、シーツの上で手を組む。
向かいに座ったシェイは、膝に揃えた両手を一度ほどき、また結ぶ。肩がわずかに強張っているのが分かった。
「……改まると、変な感じですね」
「それは、あなたが改まっているからです」
くす、と笑うと、彼は目を伏せた。
いつもの落ち着きはあるのに、言葉の隙間から小さな緊張がこぼれる。
「……俺、こういうのは慣れていません」
「知ってます」
「やっぱり……分かってましたか」
「全部じゃないですけど」
ユリカは、彼の膝の近くまで手を伸ばし、そこで止めた。
触れてはいない距離――触れられる距離。
空白が甘く、少しだけ残酷に、ふたりの間に座る。
「……あの」
シェイが息を整えるように、ゆっくりと言う。
「もし、俺が……変なことをしていたら、ちゃんと言ってください」
「変なこと?」
「……嫌じゃないか、とか。痛くないか、とか。そういうのを」
真面目な声音が、どうしようもなく不器用で、愛しい。
ユリカは小さく頷いた。
「分かりました。ちゃんと言います」
「ありがとうございます」
ほっと息がこぼれる。その安堵に、ユリカはいたずらをひとつ思いつく。
月灯りのほうへ半歩、身を寄せて、首を傾げる。
「……本当は、何歳なんですか?」
シェイの指が、一瞬止まった。
瞳が揺れて、言葉を探すように視線が泳ぐ。
「……数えていません」
「それ、逃げてません?」
くすっと笑うと、彼はからかわれたのを隠すみたいに視線を近づけて、耳元で低く囁いた。
「じゃあ、僕の年齢を知っても……離れませんか」
鼓動が一拍、強く跳ねる。
ユリカは、そっと息を吸って、吐いた。
「離れません」
そのひと言の重さに、空気の温度が変わる。
シェイの手が、ためらいがちにユリカの頬へ伸び、指先で髪を梳く。
やさしくて、慎重で、そして――急に迷いを飛び越えるみたいに、腰を抱き寄せた。
肩口に落ちる吐息。
近すぎる距離に、ユリカの背筋が小さく震える。
「……もう、離したくない」
低い声が喉の奥で震えた。
それでも、彼の唇はすぐには触れない。
額に、こめかみに、頬に――行き先を探すように、あちこちで迷う。
不器用で、誠実で、まっすぐだ。
ユリカは笑って、彼の手首をそっと取った。
「大丈夫です」
目を見て、言う。
「――さっきのキス、私も嬉しかった」
シェイの睫毛が、月灯りの下でわずかに震える。
そして彼は、ほんの少し声を落として告げた。
「……さっきのが、俺の……初めてのキスです」
時間が一瞬、止まった気がした。
「……え」
「だから、もし……下手だったら、ごめんなさい」
ユリカは堪えきれず、息を弾ませて笑った。
からかいじゃない。
胸の奥がほどけて、あたたかくて、幸せで、笑うしかなかった。
「下手じゃありません。……とても、よかったです」
そっと頬に手を添える。
「それに――嬉しかった」
強張っていた肩の力が抜ける気配が、掌越しに伝わる。
彼は目を閉じ、ゆっくりと額を寄せた。額と額が触れ合い、呼吸が重なる。
「……行きますね」
「はい」
触れた。
さっきよりも、少しだけ長く。
たどたどしく、でも逃げずに。
息継ぎの間合いを間違えて、鼻先がかすかに当たって、ふたりして笑って、また触れる。
何度も、何度でも。言葉の代わりに、今日までの時間を置き換えていくみたいに。
間に、ユリカが小さく囁く。
「……本当に、数えてないんですか」
「はい」
「じゃあ、私が数えてあげます」
目を細めて、彼が小さく笑った。
「――お願いします」
月が雲に隠れ、ランプの灯りだけが残る。
影が重なり、離れて、また重なる。
名前を呼ぶ声が、はじめての熱といっしょに喉を震わせる。
そのたびに「変じゃないですか」と真面目に確かめる彼の予防線が、愛しくてたまらない。
やがて、言葉は要らなくなった。
長い夜が、静かに、けれど確かに更けていく。
――朝。
カーテン越しの光が、まぶたの裏をやわらかく叩いた。
最初に目を開けたのはユリカだった。
視線のすぐそばに、穏やかな寝顔。
彼の胸元に耳を寄せると、一定の鼓動が小さく指先を震わせる。
前髪を耳にかけると、シェイがゆっくりと目を開けた。
「……おはようございます」
「おはよう、シェイ」
呼びかけに応じながら、彼の耳まで赤くなる。
昨夜の彼を思い出して、胸が熱くなり、そして微笑む。
「もう少し、このままでいいですか」
「……はい」
ふたりだけの朝――は、長くは続かない。
軽い足音が廊下を駆け、勢いよくドアが開いた。
「お母様!」
リシェリアが跳ねるように飛び込んできて、ユリカの首に抱きつく。
そして、すん、と鼻を鳴らして言った。
「なんかね……お母様からパパの匂いがする!」
ユリカ、硬直。
枕元でシーツがわずかに揺れ、背後の気配が石像みたいに固まる。
ゆっくり振り返れば、耳まで真っ赤なシェイが、言葉を失って立っていた。
「……おい、リシェ」
「なぁに?」
「……それは、その……」
言いよどむ彼に、ユリカは慌てて言葉を繋ぐ。
「ち、違うのよリシェ、これは――」
「ほんとだよ?ねぇ、パパも嗅いでみて!」
「いや、嗅がない!!」
即答。
朝の光が、ふたりの頬の赤みを容赦なく照らし出す。
廊下の向こうから「お嬢様、お待ちくださいませ!」と慌てるミーナの声。
ユリカは思わず、肩で笑いを噛み殺した。
(――これが、はじめての“普通の朝”。)
シェイが視線を外しながらも、どこか嬉しそうに微笑んでいる。
その表情を見て、ユリカもそっと、同じ笑みを返した。
◇
朝の光が差し込む食堂。
いつもより豪華な朝食がテーブルいっぱいに並んでいる。
焼き立てのパンに、香ばしいソーセージ、湯気を立てるスープ。
フルーツまで盛られていて、ユリカは思わず目を瞬かせた。
「……今日はずいぶんと豪勢ですね」
「ええ、おめでとうございます」
ミーナが穏やかに微笑む。
意味を察したユリカは、紅茶を持つ手をわずかに止めた。
その隣で、シェイはスプーンを持ったまま硬直している。
耳までほんのり赤い。
リシェリアがパンを頬張りながら、無邪気に言う。
「パパとお母様、昨日一緒に寝てたの?」
ユリカは一瞬固まり、向かいのシェイを見る。
シェイも目を逸らす。
「……ええ、そうよ」
淡々と返したその声に、リシェリアはにこにこしてパンをもう一口かじった。
そのとき、厨房からトマスが食器を運んできた。
テーブルに置く手元が微かにぎこちない。
「……お、おはようございます」
短く挨拶して、すぐに背を向ける。
(ああ、絶対わかってる……)
ユリカもシェイも、同時にため息をついた。
ミーナがくすっと笑い、「お二人とも、今日はゆっくりなさってくださいね」と言って席を外す。
残された二人と一人の娘。
シェイは紅茶を一口すすり、小さく呟いた。
「……朝から、心臓に悪いですね」
「でも、悪くないでしょう?」
ユリカの笑みに、シェイは視線を逸らしながらも、わずかに口元を緩めた。
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