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第十章 未来への約束
二つで一つ
しおりを挟むsideルアルク
朝の鐘が三つ鳴った。
聖堂の前庭に白い旗布が張られ、中央の卓には水の紋を刺した台布がかけられている。風が旗をふくらませるたび、光が白に滲んだ。
壇の脇にシェイが立ち、黒のマントの結び目を指先で一度確かめた。
目の下に薄い影。
それでも視線がこちらをかすめると、ほんの一瞬だけ笑う。
ルアルクは前へ出て、集まった助祭や修道女、助産院の人々に穏やかに会釈した。
今朝は細い黒縁の眼鏡。少し大きめで鼻梁に影が落ちる。
威厳を足すための“公の顔”――その真面目さに、ごくわずかな背伸びの可愛げが滲んだ。
緊張をごまかす癖だと自覚しながら、ずり落ちないように一度だけ眼鏡を押し上げ、声を通す。
「本日は、新生教会における母体保護魔法の導入について、共同発表をいたします。
基礎理論はシェイフィル・ラファリス・ナーバ、最終調整は私、ルアルク・ノア・アストレイド。
――共同研究です」
卓上の布がめくられ、透明な水晶盤が現れる。
シェイが盤の縁に指を添えた。
薄い膜がゆっくり立ち上がり、前庭の光を受けて白いベールのように揺れる。
「母体と胎の境界には、ごく薄い膜のような魔力の層があります。
通常は透明で互いに干渉しませんが、胎児の魔力が急激に脈動すると、その層が振動して母体に負荷を与えるのです。
今回の術式では、その層を“結び”で縫い留め、衝撃を分散させます。
押し返すのではなく、糸光の網をかけて揺れを柔らかく受け止める仕組みです」
会場の助祭や修道女たちが、難しい顔で顔を見合わせた。
ルアルクが一歩進み、指先を盤にかざす。
「――つまり、赤ちゃんの魔力が強くても、お母さんに響かないように。
ふわっと布で包んで、抱きとめるような術です。
あたたかく、静かに。
抱きとめる役には“白”の魔力が適しています。
そこで、これは教会発信の形で導入いただくことになりました」
前列にいた助産院の女性が「ああ」と小さく息を漏らし、胸の前で手を組んだ。
「……あたたかい魔法なのですね」
ユリカは胸の奥で小さく「優しい」と呟いた。
シェイが横目でその表情を見て、わずかに口もとを緩める。
質疑の時間。若い助祭が手を上げた。
「治療と宗教の境は、どこに置かれますか」
一拍だけ置いて、ルアルクは答える。
「境をなくすのではありません。
互いの領分を尊重し、母と子を最優先に据える。
祈りは心を支え、術は身体を支える。
二つで一つです」
別の修道女が続ける。
「現場での運用は――」
「段階導入にします」
シェイが受けた。
「大規模施設から始め、地域の助産院へ順次。
記録は匿名化して改善に生かします。
無理はしません」
大きな歓声ではない。
けれど、前へ進むときの音がした。
人だかりがほどけると、ルアルクは眼鏡を外して胸ポケットに収める。
ユリカが近づいて、にこりと微笑んだ。
「よく似合っていました」
「助かりました」とルアルクは短く息を抜き、シェイが横で淡く笑う。
「威厳は十分でした」
白い旗がもう一度ふくらむ。
結びは、ほどけてもまた結べる――その当たり前が、制度になった。
sideルアルク
古文書庫に併設された小さな研究室は、窓辺だけが明るい。
黒板の式は午前の名残を留め、チョークの粉が光っていた。卓上には封じ石の瓶と、白と黒の魔力についてまとめた写本。砂時計が細い音で落ちている。
ルアルクは白の魔力を、ずっと「神聖で絶対」だと教わってきた。
けれどシェイの黒い魔力は、恐ろしいどころか、理知的で――とても静かだ。
(自分の知らない“整然とした秩序”がある。)
「この符の反応、やっぱり白と黒って正反対に見えて実は似ていますね」
シェイが写本の余白にさらりと線を引く。
「干渉魔術の理論に、妙に馴染む」
「“似ている”というより、同じ源に由来する可能性もあります」
ルアルクは黒板に補助線を足した。
「少なくとも、教会ではそう教えられていませんが」
「教会は白以外をすぐ排除するからね」
シェイが手を止める。指先が魔法陣の交点を軽く叩いた。
「……ここ、見て。白の魔力でも“時空の圧”に干渉できるはずなんです」
ルアルクは思わず前のめりになった。
「本当に……?ですが、それは制御が――」
「難しい」
あっさりと頷いて、シェイは砂時計をひっくり返す。
「けど、もし成功すれば時間への干渉、記憶への防壁、自己保護まで応用が広がる」
白と黒――どちらも純度が高い。
だからこそ、他の色より意志の介入が効きやすい。
黒は「全てを吸収する深い沈黙」、白は「極限に凝縮された光の粒」。
構造が似ているなら――接合は可能だ。
「この干渉式、やはり一部が過剰反応しています」
ルアルクは術式の縁を撫で、白の糸を一本やわらげる。
「うんうん。つまり“神の加護”とやらが反発してるわけだ」
「言い方が失礼です!」
「でも図星でしょ?まったく、白い魔力ってやつは扱いづらいですね」
「それはそちらこそ、黒が混じっているからでは?」
「……じゃあ、間をとって灰色にしてみる?」
「魔力はグラデーションではありません!」
思わず声が重なって、ふたりで笑った。
笑いの残滓が消えるより早く、ルアルクの視界に糸光が走る。
白を結び目で落ち着かせると、黒の静けさがすっと寄ってきた。
反発が、抱き留めに変わる。
「……揺れの戻り方がやさしい」
シェイが目の下を押さえて微笑む。
「寝不足の頭にも優しい」
「休憩を挟みますか」
「もう一項だけ。――濃さで勝ちたいので」
同時に苦笑し、また黒板へ向かった。
白も黒も、色ではなく意志で操るものだ。
彼と語り合ううちに、ルアルクは初めてそう思う。
ふいに、シェイが視線を窓外へ泳がせた。
「白で干渉が動くなら……僕に何かあっても、ルーくんなら」
言いかけて、彼は肩を竦める。
「保険の話は、縁起でもないですね」
「僕がいます」
それだけ答えると、シェイは少しだけ目を伏せて笑った。
ルアルクは眼鏡を外し、黒板の前に新しい術式を貼る。
「次は、この式で白の干渉を試します。
成功すれば、僕の魔力でも時間縫合が可能なはずです」
「いい。夢がある」
シェイの瞳がきらりと光る。
――素直で真面目で、少し頑固。
難解な理論を理解した瞬間に瞳が輝く。
(……いや、あくまで研究者としての“好き”だ。)
「ルーくん、やっぱり君といると楽しいです!」
不意打ちの笑顔に、ルアルクの胸がちくりと痛んだ。
「……僕もです」
砂の音が変わる。
午後の研究は、まだ終わらない。
黒板の前で呼吸がそろった、そのとき――。
ふとシェイが視線を上げて固まった。
「……ルーくん、それ」
「はい?」
ルアルクが身をひねると、背中に白い紙片がぺたりと貼りついている。シェイがそっと剥がして手渡してきた。
《至急。お財布。場所は花通り二番地ブティック。養育費だと思って》
「……リリですね」
こめかみを押さえる。
「研究よりも財布を優先させるつもりでしょうか」
と、今度はルアルクの視線がシェイの背に留まった。
「シェイさん、あなたの方にも……」
「え?」
黒のマントの肩に、やはり紙片。剥がしてみると、ユリカの筆跡だった。
《ルアルクの背中も見てください。いつ気が付くのか楽しみです》
ルアルクは絶句した。
言葉にならず、ただ紙片を見つめる。
シェイが肩を竦め、口の端を上げた。
「……ルーくん、やばいです。
これは完全に、怒らせてしまったみたいですね」
「僕だけの問題じゃないでしょう!」
「でも“ルアルクの背中”って名指しですから」
「……っ」
沈黙ののち、二人は同時に深く溜息をついた。
「……本当に、僕たちは研究しか見えていなかった」
「ですね。研究バカの烙印、押されました」
互いの背中を見合って、苦笑いがこぼれる。
砂時計の砂が細く落ちる音が、やけに長く響いた。
sideルアルク
目的地へと急ぎながら、先ほどのメモの内容を反芻していた。
《至急。お財布。場所は花通り二番地ブティック。養育費だと思って》
……養育費の定義は、いつの間に衣服代に拡張されたのだろう。
花通りは午後の光で白く、ショーウィンドウにレースとリボンが詰まっている。
扉のベルを押すと、鈴の音が二度。
店内は香水とリネンの匂い。
鏡が何面もあって、光が増えて見える。
「ルー!遅い!」
白いロリータのリリが、両手を広げて迎え撃つ。
「今日のスポンサー、いらっしゃい」
「……その呼び名はやめてください」
「じゃあ養育費係」
「語感がもっと悪いです」
言いながらも、視線は入口から一番遠い試着室の方へ引かれていく。
鏡の縁がきらりと光って、その向こうで――
黒。
夜空みたいな黒。
装飾は控えめ、でも線がきれいだ。
ユリカが鏡の前で立ち、店員に肩のラインを整えてもらっている。
胸元のブローチには夜空を閉じ込めた青。
銀の髪が黒に落ちて、淡いピンクの瞳が驚くほど映える。
息が一瞬、止まった。
(……黒はやばい)
語彙が、ごっそり抜ける感覚。落ち着け。
黒=シェイ色という偏見も混ざっている。
意識するな。
できない。
「お母様、すごく綺麗です!」
ピンクのリシェが両手で頬を押さえて跳ねる。
赤いリボンまで、今日はさらに元気だ。
ユリカがこちらを振り向く。
「ルアルク……どう、かな」
喉が鳴って、言葉になるまで一拍かかった。
「……似合いすぎています。本当に」
正確には、可愛いと綺麗と危ないの比率を算出して報告したいが、脳のどこかで演算が停止している。
「ほらね!」とリリが腰に手を当てる。
「黒は正義。じゃ、お会計はルーのお財布で!」
「それは……理屈として無茶があります」
「養育費!」
「法令集のどこにもそんな条文は――」
「家の笑顔を守る条文ならあるでしょ」
ない。
けれど、たぶんある、という顔でこちらを見るな。
店員が控えめに差し出すトレイには、手袋、レースのチョーカー、そして深い青の髪飾り。
「コーディネートは、こちらが完成形になります」
完成形。なんと恐ろしい言葉だ。
「お母様、これも可愛い!」
リシェが青の髪飾りを両手で持ち上げ、背伸びする。
ユリカが膝を折って頭を傾ける。
青が銀に触れた瞬間、鏡の中で星がひとつ光った気がした。
(これ以上似合うものが存在するのか?)
「……ルアルク?」
ユリカが小さく首をかしげる。
「無理はしないで。私、あんまり派手なものは慣れてなくて」
「無理ではありません」
即答。財布の中の現金残高と、今月の書籍代と、次の調達品の見積もりが同時に脳裏を走る。
(今月の蔵書補充は来月に回す。紙とインクは在庫で足りる。大丈夫だ)
店員が見積もりのメモを差し出す。
桁が一つ増えて見えるのは、光の加減だろうか。
ルアルクは眼鏡をポケットから出して掛け直し、もう一度読む。
桁は増えていなかった。
初見で合っていた。
「……払います」
声が震えないように、腹に力を入れる。
「ちょっと待ってください、僕が払いますよ」と背後から落ち着いた声。
いつの間にか、シェイが来ていた。黒のコート、いつもの顔。
「これは僕のわがままでもありましたし」
「却下」とリリが即答してシェイの胸を押す。
「ルーの本気を試してんの」
「試さないでください」
それでも、ユリカが困ったように笑って「ありがとう、でも買うなら自分で買うわ」と言うから、「いえ――僕にプレゼントさせてください」と返す以外の選択肢はなかった。
(笑顔が見られるなら安い。……たぶん安い。数字は高い)
レジへ向かう足が、いつもよりまっすぐだ。
店員が「箱はどうなさいますか」と訊く。
箱なしで包装費を抑えたい、と理性が囁く。
「箱は付けます」と口が勝手に言った。
隣でリリが親指を立てる。
敵はしたたかだ。
会計の音。革財布が軽くなる。
(……今月の新刊は全部図書室で読む。買うのは来月)
受け取った包みの重みは、それほどでもない。
重いのは数字だけだ。
振り向くと、鏡の前のユリカが照れて目を伏せていた。
黒が、彼女の線をすこしだけ大人にする。
可愛いとか綺麗とかの語彙では距離が出る。
もっと正確に言うなら――
(大切だ、と思った。)
「仕上げに日傘、どうです?」とリリが悪魔の囁きをする。
「リリ」
「冗談よ。今日はここまで。
ルー、よく頑張りました」
「労われる立場でしょうか、僕は」
「財布が泣いてる顔してるから」
「していません」
店を出ると、花通りの白が少し眩しかった。
ユリカが袋を大事そうに抱え、ちらりとこちらを見る。
「本当に……いいのかな?」
「必要経費です」
「……ごめんなさい、でも、嬉しい」
胸のどこか、柔らかいところをそっと押された気がした。
ユリカが歩き出してから、半歩だけ戻る。
ルアルクの上着の裾を、ユリカがちょん、とつまんで呼び止めた。
「ルアルク、ありがとう」
短い一言。すぐ指が離れる。
「どういたしまして」
心拍が一拍だけ跳ねたのを、歩幅で誤魔化す。
ユリカはもう前を向いて、袋を抱え直した。
横でシェイが肩を並べる。
「似合いますね、ユリカさん」
真っ直ぐな一言に、ユリカがまた赤くなる。
ルアルクは咳払いをひとつ。
「……黒はやばい」
「え?」
「いえ、日除けの話です」
自分でも何を言っているのかわからない。
語彙は回復しない。
「カフェ、行こ!」
リリが先頭に立ち、リシェがくるりと一回転してスカートをひらめかせる。
「パパ、見て!」
「とても可愛い」と、シェイは即答した。
ルアルクは視線を少しだけ外したまま、耳が熱いのを誤魔化す。
◇
紅茶の湯気が立ちのぼる。
ユリカが黒の袖口をそっと持ち上げ、カップを口に運ぶ所作だけで、席の時間が少しゆっくりになる。
リリは満足そうに腕を組み、リシェはケーキに前のめり。
シェイはメニューの片隅を見ながら、「これは覚醒が穏やかで」とか言っている。
研究者はどこでも研究者だ。
「ねえ、ルアルク」
ユリカが小さな声で呼ぶ。
「今日のこと、忘れ物にしないから」
「忘れ物?」
「大切に着ます、ってこと」
黒の袖口が、ほんのすこしだけ揺れた。
「……助かります」
語彙は戻らないまま、紅茶の香りが胸の奥に落ちていく。
花通りの風が窓のレースを揺らす。
数式とレース、白と黒。違うものが並んで、同じ方向を見ている。
家というのは、たぶん、そういう整列の仕方をする。
ルアルクは心の中で、来月の予算表を書き換えた。
――本は、来月まとめて買う。
今日の出費は、笑顔の科目に計上する。
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