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第2部 直線と曲線
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彼女の素性は大学生だったが、格好は高校生だった。高校の頃に着ていた制服のままで大学に通っているらしい。その理由は、毎日服を選ぶ必要がないからというものだった。女性にしては珍しいかもしれない、とあなたは考える。それから、その考えがどの程度確からしいものであるのかも考えた。しかし、具体的なデータを持ち合わせていないから、考えたところで分からない、とも考える。そして、考えすぎるのはやめようと考え、仕舞いには、それは「考え」ではなく「思い」になってしまう。
彼女の名前はルームといった。背が高く、脚が長く、腕が長く、髪も比較的長く、しかし声は小さかった。そうした客観的な基準に照らし合わせた外観的な特徴が、あなたが最初に受けた彼女の素直な印象だった。その次に、そうした、「高い」、「長い」、「小さい」といった客観的な特徴が、「綺麗」、「美しい」、「好ましい」といった主観的な評価と結び付いて、あなたの中に一定の値として定められる。そういう形で一度定位されてしまえば、客観的な特徴は主観的な評価によって覆われてしまう。すなわち、あなたにとって、彼女は「高く、長く、小さい」存在ではなく、「綺麗で、美しく、好ましい」存在としてマークされる。
あなたは、普段人とあまり話さない。人との接触は最小限に抑えている。だから、そんなふうに、彼女のような他人に興味を惹かれるということが、あなたにとっては少々奇妙なことだった。そんな自分の状態を、どこか離れた場所から観察している自分と、その場に抱かれて体験している自分がいる。そして、そんな二つの自分の存在を把握しているもう一段階上の自分と、それから、そんな自分の存在を把握しているのより、さらにもう一段階上の自分も……。
あのとき、何か言いたいのか、とルームはあなたに尋ねた。だから、あなたは、そのあとで、何も言いたくはない、と素直に答えた。あなたがそう答えると、そう、とだけ彼女は言って、握っていたあなたの手を離し、姿勢をもとの状態に戻して、
翻り、前方を向いた。
この場から立ち去るつもりだろうか。
しかし、身を翻した彼女に向かって、あなたは一言、声をかけた。
A:待って。
B:待って。
一歩踏み出しかけていた足を止め、ルームは再びあなたの方を振り返る。その綺麗な目で見つめられた。振り向く動きから少し遅れて、綺麗な髪が空気を撫でた。
「何?」
あなたが彼女を引き止めたのは、そうするだけの理由があったからにほかならない。では、その理由とは何か? しかし、それは言葉にできない。ただ、このまま離れられるのは違うという抵抗があったからに過ぎない。抵抗とは、すなわち力で、それは物理的なもので、最も客観的なもので、世界の成立の根源に関わるもので、その存在に理由などない。
結果的にあなたは彼女を呼び止めることに成功し、その結果が、今日まで継続されている。
大学の講義が終わってから、あなたはルームと並んで大学の傍の小道を歩いていた。大学は幅の広い河川の隣にある。沈みかけた太陽の光を反射して、水面が鈍色に輝いていた。橙から桃色に渡って染まりかけた空。涼しい風が背後から吹いてきて、あなたの頬を優しく撫でる。
「どうして、私に声をかけたの?」
と、あなたの隣でルームが問うた。
「別に」あなたは前を向いたまま応じる。
すでに何度か受けた質問だった。しかし、あなたには、やはりその理由を言葉にすることができなかった。そもそも、そうした類のものを言葉にすることに、一体どれだけの意味があるだろう? 言葉にすることで、却って本当のところから遠ざかってしまいはしないか? しかし、一方で、思っていることは言葉にしなければ相手に伝わらないというのも、事実には違いないだろう。けれど、言葉にした瞬間に、それは別のものに変わってしまう。
あなたがあのときルームを視界の隅に捉えた際に感じたのは、やはり客観的な特徴で、それは、色だった。あなたにとって好ましい色彩が、不意に端の方からあなたの視界を浸食していくように感じたのだ。だからあなたは顔を上げた。だからあなたは彼女を目で追った。しかし、色というのは、客観性を装って、本当は主観的なものかもしれない。人によって、対象を見たときに感じる色は微妙に異なる。
「声かけられたの、初めてなんだ」あなたの隣を歩きながら、不意にルームが呟いた。「ちょっと嬉しかった」
「ちょっと」とあなたは応じる。そうした皮肉めいた応答は、あなたの得意とするところだった。
「それで?」ルームはもう一度こちらを振り返る。「どうして、私に声をかけたの?」
歩きながら、あなたは目だけで隣を見る。向こう側にある夕日に照らされて、陰りを伴った彼女の顔が傍に見えた。長く伸びた髪と、その髪の先がブレザーの襟もとに接触している様。そこに生じる摩擦の度合いについて、あなたは少し考える。ルームは、今はまったく笑っていない。真っ直ぐな目でこちらを見つめている。
「分からない」あなたは正直に答えた。「かけたかったから、かけたんだ」
「何それ」そう言って、ルームは頬を膨らませる。「でも、そういうの、分からなくはないよ。人間なんて、そんなもの」
「そんなものって?」
「なんとなくで、生きているんだよ。生まれたのもなんとなくで、死んでいくのもなんとなく」
そういうものだろうかと、彼女の言葉を聞いてあなたは考える。
「それで?」
あなたが考えていると、ルームが肩を寄せてきた。
「どうして、私に声をかけたのかな?」
彼女の名前はルームといった。背が高く、脚が長く、腕が長く、髪も比較的長く、しかし声は小さかった。そうした客観的な基準に照らし合わせた外観的な特徴が、あなたが最初に受けた彼女の素直な印象だった。その次に、そうした、「高い」、「長い」、「小さい」といった客観的な特徴が、「綺麗」、「美しい」、「好ましい」といった主観的な評価と結び付いて、あなたの中に一定の値として定められる。そういう形で一度定位されてしまえば、客観的な特徴は主観的な評価によって覆われてしまう。すなわち、あなたにとって、彼女は「高く、長く、小さい」存在ではなく、「綺麗で、美しく、好ましい」存在としてマークされる。
あなたは、普段人とあまり話さない。人との接触は最小限に抑えている。だから、そんなふうに、彼女のような他人に興味を惹かれるということが、あなたにとっては少々奇妙なことだった。そんな自分の状態を、どこか離れた場所から観察している自分と、その場に抱かれて体験している自分がいる。そして、そんな二つの自分の存在を把握しているもう一段階上の自分と、それから、そんな自分の存在を把握しているのより、さらにもう一段階上の自分も……。
あのとき、何か言いたいのか、とルームはあなたに尋ねた。だから、あなたは、そのあとで、何も言いたくはない、と素直に答えた。あなたがそう答えると、そう、とだけ彼女は言って、握っていたあなたの手を離し、姿勢をもとの状態に戻して、
翻り、前方を向いた。
この場から立ち去るつもりだろうか。
しかし、身を翻した彼女に向かって、あなたは一言、声をかけた。
A:待って。
B:待って。
一歩踏み出しかけていた足を止め、ルームは再びあなたの方を振り返る。その綺麗な目で見つめられた。振り向く動きから少し遅れて、綺麗な髪が空気を撫でた。
「何?」
あなたが彼女を引き止めたのは、そうするだけの理由があったからにほかならない。では、その理由とは何か? しかし、それは言葉にできない。ただ、このまま離れられるのは違うという抵抗があったからに過ぎない。抵抗とは、すなわち力で、それは物理的なもので、最も客観的なもので、世界の成立の根源に関わるもので、その存在に理由などない。
結果的にあなたは彼女を呼び止めることに成功し、その結果が、今日まで継続されている。
大学の講義が終わってから、あなたはルームと並んで大学の傍の小道を歩いていた。大学は幅の広い河川の隣にある。沈みかけた太陽の光を反射して、水面が鈍色に輝いていた。橙から桃色に渡って染まりかけた空。涼しい風が背後から吹いてきて、あなたの頬を優しく撫でる。
「どうして、私に声をかけたの?」
と、あなたの隣でルームが問うた。
「別に」あなたは前を向いたまま応じる。
すでに何度か受けた質問だった。しかし、あなたには、やはりその理由を言葉にすることができなかった。そもそも、そうした類のものを言葉にすることに、一体どれだけの意味があるだろう? 言葉にすることで、却って本当のところから遠ざかってしまいはしないか? しかし、一方で、思っていることは言葉にしなければ相手に伝わらないというのも、事実には違いないだろう。けれど、言葉にした瞬間に、それは別のものに変わってしまう。
あなたがあのときルームを視界の隅に捉えた際に感じたのは、やはり客観的な特徴で、それは、色だった。あなたにとって好ましい色彩が、不意に端の方からあなたの視界を浸食していくように感じたのだ。だからあなたは顔を上げた。だからあなたは彼女を目で追った。しかし、色というのは、客観性を装って、本当は主観的なものかもしれない。人によって、対象を見たときに感じる色は微妙に異なる。
「声かけられたの、初めてなんだ」あなたの隣を歩きながら、不意にルームが呟いた。「ちょっと嬉しかった」
「ちょっと」とあなたは応じる。そうした皮肉めいた応答は、あなたの得意とするところだった。
「それで?」ルームはもう一度こちらを振り返る。「どうして、私に声をかけたの?」
歩きながら、あなたは目だけで隣を見る。向こう側にある夕日に照らされて、陰りを伴った彼女の顔が傍に見えた。長く伸びた髪と、その髪の先がブレザーの襟もとに接触している様。そこに生じる摩擦の度合いについて、あなたは少し考える。ルームは、今はまったく笑っていない。真っ直ぐな目でこちらを見つめている。
「分からない」あなたは正直に答えた。「かけたかったから、かけたんだ」
「何それ」そう言って、ルームは頬を膨らませる。「でも、そういうの、分からなくはないよ。人間なんて、そんなもの」
「そんなものって?」
「なんとなくで、生きているんだよ。生まれたのもなんとなくで、死んでいくのもなんとなく」
そういうものだろうかと、彼女の言葉を聞いてあなたは考える。
「それで?」
あなたが考えていると、ルームが肩を寄せてきた。
「どうして、私に声をかけたのかな?」
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