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キューブはリビングの硝子戸を開けたが、僕とカロは靴を履く必要があったから、玄関から家の外に出た。念のために鍵を締めておく。どれくらいの間家を空けるのか分からない。
カロが衣服の下に収納してあった翼を展開した。衣服が破れることはなく、襟から翼の根もとごと外に出される。翼は扇のような形状をしていたが、直径のすべてが背中に接着されているのではない。細い繊維状の組織が背中と翼を線状に結合させている。カロの翼は完全に乾いていた。もともと湿り気を帯びていたわけではないが、以前に増して硬質化しているように見える。
こうして見ると、翼は思っていた以上に大きいことが分かった。背中のほとんどを覆ってしまうほどの大きさがある。長い髪が翼と接触し、自然に干渉し合っていた。彼女は腕も長いから、こうして見るとやはり人間とは異質な印象を受ける。いや、人間と共通点があるものに、同時に人間との相違点が認められるからこそ、異質に感じられるのだろう。彼女の顔だけをスナップにすれば、人間と大差ないと判断されるのではないか。
カロが腕を伸ばして僕の手を掴んだ。この、伸ばして、というのは、物理的に、という意味ではない。彼女の腕が伸縮自在であるところを、少なくとも僕は見たことがない。けれど、彼女の身体は繊維状の組織を含むから、もしかすると伸ばしたり縮めたりすることができるかもしれない。ただ、それは人間の身体も同じだろう。ストレッチをすればある程度は伸びる。
カロの体温は低いように感じられた。掌は柔らかい。その感触が伝播する。カロは僕の手を握る力を少しだけ強め、手が繋がれた様を確認すると、顔を上げて僕を見た。赤い光を宿した目に見つめられる。僕はなんとなく頷いた。彼女もそれに応じる。
「飛ぶのって、大丈夫なの?」僕は尋ねる。
「飛んだことがないから、分からない」カロは答えた。「落としたら、ごめん」
「ごめんではすまない」
「飛ぶ原理は理解しているつもり」
「原理を理解していても、経験がなければ難しいよ」
キューブがまた変形を始めた。彼を構成する粒子の密度が、先ほどよりも小さくなっている。一つ一つの粒子が浮力を得る仕組みなのかもしれない。全体を統合して浮遊するというより、粒子ごとに浮力を得ることで、結果的に全体が浮遊するデザインなのだろう。
〈じゃあ、行こうか〉
僕たちにそう告げると、キューブは先に空へ上っていく。スピードはあまりないが、徐々に地面との距離が大きくなっていった。
カロが僕の手を引いて歩き始める。道路に出ると、彼女はそこで一度立ち止まった。道路はカーブしながら上へ続いている。それほどの傾斜ではないが、歩いたり走ったりすると少し息が切れそうだった。
カロは何も言わないで、僕の手を握ったまま一歩を踏み出した。次の一歩も連続して踏み出す。始めは両足が地面につく瞬間があったが、徐々にそれもなくなっていった。ついに片足ずつ接地するようになる。僕は彼女の動きについていくのが大変だった。普段走ることなどないからだ。
途中で例の魔法使いの家の前を横切った。いつもと変わらないように見える。先に彼に文句の一つでも言った方が良いのではないかと思ったが、そんな暇はなかった。カロはみるみる速度を上げていく。彼女が走る様はいたって軽やかだった。まったく辛そうに見えない。もしかすると、彼女は二つ以上肺を持っているのかもしれない。
足が地面から離れる感覚を、僕は確かに得た。
なるほど、これが飛ぶということなのだな、と、そのとき悟った。
前方から迫る空気の圧力が、走っているときよりも増した。痛くなって、僕はたちまち目を閉じる。視界が閉ざされると、いよいよ何が起きているのか分からなくなった。怖くなって、僕はカロの手を強く握る。カロがそれに応えてくれた。それで、僕はもう一度目を開く。
足もとに視線を向けたが、最早足もとはなかった。先ほどまで足がついていた地面が、もう随分と下にある。家が高さを失って、道路と同じように二次元上の存在に見えた。電信柱と、立ち並ぶ山は、まだ立体的に見える。
カロはほとんど羽ばたくことなく、背筋を伸ばして地面に対して鋭角に飛んでいく。彼女の前方に黒い物体が先行しているのが見えた。キューブだ。その動きに従って、カロはさらに高度を上げる。
キューブが粒子の結束を緩めて、球形から円形へ姿を変える。粒子がリングの縁を形成する状態になった。リングの中心にフィルム状の膜が現れる。鏡が宙に浮いているような感じだった。
僕の手を握ったまま、カロはそのリングの中心へ向かっていく。不思議と僕に恐怖はなかった。彼女の掌の感触が得体の知れない説得力を帯びている。僕が握る力を強めれば、彼女は必ずそれに応えてくれる。それだけで、落ちる心配も、どこか分からない先へ向かう心配も、余所へ消えてしまうように思えた。
僕たちが近づくにつれて、リングは広がる。リングの縁は三重にあり、互い違いに逆の方向に回っていた。その回転速度が速くなり、中心の膜が赤みを帯びていった。
カロはその中へ飛び込む。
彼女に手を引かれて、僕も。
リングが収束するとともに、背後で重たい音が聞こえた。僕は思わず目を閉じる。耳も塞ぎたかったが、塞げるほどの余裕はなかった。
それまで受けていた空気の圧力も、風の音も、気づいたときには消えていた。少しだけ暖かくなったような気がする。自分の身体が軽くなったように思えた。前方から手を引かれると、何の抵抗もなくそれに従える感じがした。
目を開くと、カロの大きな目がすぐそこにあった。彼女は一度瞬きをして、首を傾げた。
「大丈夫?」彼女の声が聞こえる。一瞬、口の動きがスローモーションに見えたが、すぐにもとのスピードに戻った。
僕はすぐには声が出せなくて、彼女に倣って一度頷く。
〈もうすぐ、オレたちの国だ〉
キューブが背後から現れて、僕とカロの前に出た。彼はすでに形状をもとに戻している。
少し余裕が出てきて、周囲に視線を巡らせると、見渡す限り黒い空間が広がっていた。そこに無数の白い光が散らばっている。宇宙に来たのかと思ったが、どうやら違うようだ。第一、僕は宇宙に行ったことがないから、宇宙というものを知らない。もしかすると、これが宇宙なのかもしれないとも考えた。しかし、普通に呼吸することができる。周囲に浮かんでいる白い光は、一点に停滞しているのではなく、それぞれが様々な方向に移動していた。
「ここは、どこ?」僕は浮遊しながら質問する。
〈だから、オレたちの国だよ〉キューブが答えた。
「さっきまで僕たちがいたのと、同じ空間?」
〈空間の定義は?〉
キューブに問われて、僕は黙ってしまった。あまりそういうことを考えたことはない。たとえば、宇宙空間自体が何でできているのかは知らない。
〈ここは、オレの中だ〉キューブが言った。〈ゲートを潜って、こちら側に来てもらった〉
「どういうこと?」
〈そのままの意味〉
黒い空間に浮かぶ白い光が、僕たちの傍を通り過ぎていった。すぐ傍を通ったはずなのに、微妙に距離感が分からなかった。大小関係が狂っているような感じがする。僕の感覚の問題だろうか。
〈空間、の定義はあまりはっきりしないが、一般的に言われている意味で空間という言葉を使うなら、普通、ある空間の内側にはその空間よりも小さいものしか入らない〉キューブが話した。〈しかし、オレは少々特殊でね。ある空間の中では、その空間に収まるサイズをしているが、オレの中身はその空間よりも遙かに広いんだ〉
「それでは、矛盾しているんじゃない?」
〈そうそう。矛盾している。その矛盾をどのように解消しているのか、オレは知らない。それはシスターだけが知っている〉
「シスター?」
〈オレをデザインした奴がいるのさ〉
唐突に、カロが手を引いて、僕の身体を抱え込んだ。彼女の方が背が高いから、彼女の頭の下に僕の頭が来る。
「何?」僕は尋ねた。
「怖くない?」
「怖くはないかな」
「私は怖い」
「あそう。どうしたらいい?」
「こうしている」
「それで、飛べるの?」
「もう、飛んでないよ」
カロが言う通り、彼女の翼はいつの間にか収納されていた。僕たちは、彼女の力で飛んでいるのではない。もう飛んでいるとはいえないかもしれなかった。存在していると言った方が正しい。移動しているのかも分からない。周囲に景色は確認できるが、そちら側が動いているのか、それとも僕たちが動いているのか、判断できなかった。
〈オレたちの家に通そう〉キューブが言った。
「こんな所に住んでいるんだね」僕は応じる。
〈なかなか素敵だろう?〉
「ところで、君の正体は何なの?」
〈おいおい。今になって、そんな不躾なことをきくのか?〉
「そろそろ明かした方がいいんじゃないかな」
〈実は、オレ自身よく分かっていない〉キューブは話す。〈お前だってそうだろう? 自分が何者かなんて、考えても答えは出ないんじゃないか?〉
「私はね、カロ」カロが口を挟んだ。
〈そうだ、カロ。仲良くしようじゃないか〉
「うん」
僕は唐突に眠くなって、カロに抱きかかえられたまま目を閉じた。上も下も右も左も分からない、奇妙な感覚に襲われたが、それは微妙に心地が良いものだった。
カロが衣服の下に収納してあった翼を展開した。衣服が破れることはなく、襟から翼の根もとごと外に出される。翼は扇のような形状をしていたが、直径のすべてが背中に接着されているのではない。細い繊維状の組織が背中と翼を線状に結合させている。カロの翼は完全に乾いていた。もともと湿り気を帯びていたわけではないが、以前に増して硬質化しているように見える。
こうして見ると、翼は思っていた以上に大きいことが分かった。背中のほとんどを覆ってしまうほどの大きさがある。長い髪が翼と接触し、自然に干渉し合っていた。彼女は腕も長いから、こうして見るとやはり人間とは異質な印象を受ける。いや、人間と共通点があるものに、同時に人間との相違点が認められるからこそ、異質に感じられるのだろう。彼女の顔だけをスナップにすれば、人間と大差ないと判断されるのではないか。
カロが腕を伸ばして僕の手を掴んだ。この、伸ばして、というのは、物理的に、という意味ではない。彼女の腕が伸縮自在であるところを、少なくとも僕は見たことがない。けれど、彼女の身体は繊維状の組織を含むから、もしかすると伸ばしたり縮めたりすることができるかもしれない。ただ、それは人間の身体も同じだろう。ストレッチをすればある程度は伸びる。
カロの体温は低いように感じられた。掌は柔らかい。その感触が伝播する。カロは僕の手を握る力を少しだけ強め、手が繋がれた様を確認すると、顔を上げて僕を見た。赤い光を宿した目に見つめられる。僕はなんとなく頷いた。彼女もそれに応じる。
「飛ぶのって、大丈夫なの?」僕は尋ねる。
「飛んだことがないから、分からない」カロは答えた。「落としたら、ごめん」
「ごめんではすまない」
「飛ぶ原理は理解しているつもり」
「原理を理解していても、経験がなければ難しいよ」
キューブがまた変形を始めた。彼を構成する粒子の密度が、先ほどよりも小さくなっている。一つ一つの粒子が浮力を得る仕組みなのかもしれない。全体を統合して浮遊するというより、粒子ごとに浮力を得ることで、結果的に全体が浮遊するデザインなのだろう。
〈じゃあ、行こうか〉
僕たちにそう告げると、キューブは先に空へ上っていく。スピードはあまりないが、徐々に地面との距離が大きくなっていった。
カロが僕の手を引いて歩き始める。道路に出ると、彼女はそこで一度立ち止まった。道路はカーブしながら上へ続いている。それほどの傾斜ではないが、歩いたり走ったりすると少し息が切れそうだった。
カロは何も言わないで、僕の手を握ったまま一歩を踏み出した。次の一歩も連続して踏み出す。始めは両足が地面につく瞬間があったが、徐々にそれもなくなっていった。ついに片足ずつ接地するようになる。僕は彼女の動きについていくのが大変だった。普段走ることなどないからだ。
途中で例の魔法使いの家の前を横切った。いつもと変わらないように見える。先に彼に文句の一つでも言った方が良いのではないかと思ったが、そんな暇はなかった。カロはみるみる速度を上げていく。彼女が走る様はいたって軽やかだった。まったく辛そうに見えない。もしかすると、彼女は二つ以上肺を持っているのかもしれない。
足が地面から離れる感覚を、僕は確かに得た。
なるほど、これが飛ぶということなのだな、と、そのとき悟った。
前方から迫る空気の圧力が、走っているときよりも増した。痛くなって、僕はたちまち目を閉じる。視界が閉ざされると、いよいよ何が起きているのか分からなくなった。怖くなって、僕はカロの手を強く握る。カロがそれに応えてくれた。それで、僕はもう一度目を開く。
足もとに視線を向けたが、最早足もとはなかった。先ほどまで足がついていた地面が、もう随分と下にある。家が高さを失って、道路と同じように二次元上の存在に見えた。電信柱と、立ち並ぶ山は、まだ立体的に見える。
カロはほとんど羽ばたくことなく、背筋を伸ばして地面に対して鋭角に飛んでいく。彼女の前方に黒い物体が先行しているのが見えた。キューブだ。その動きに従って、カロはさらに高度を上げる。
キューブが粒子の結束を緩めて、球形から円形へ姿を変える。粒子がリングの縁を形成する状態になった。リングの中心にフィルム状の膜が現れる。鏡が宙に浮いているような感じだった。
僕の手を握ったまま、カロはそのリングの中心へ向かっていく。不思議と僕に恐怖はなかった。彼女の掌の感触が得体の知れない説得力を帯びている。僕が握る力を強めれば、彼女は必ずそれに応えてくれる。それだけで、落ちる心配も、どこか分からない先へ向かう心配も、余所へ消えてしまうように思えた。
僕たちが近づくにつれて、リングは広がる。リングの縁は三重にあり、互い違いに逆の方向に回っていた。その回転速度が速くなり、中心の膜が赤みを帯びていった。
カロはその中へ飛び込む。
彼女に手を引かれて、僕も。
リングが収束するとともに、背後で重たい音が聞こえた。僕は思わず目を閉じる。耳も塞ぎたかったが、塞げるほどの余裕はなかった。
それまで受けていた空気の圧力も、風の音も、気づいたときには消えていた。少しだけ暖かくなったような気がする。自分の身体が軽くなったように思えた。前方から手を引かれると、何の抵抗もなくそれに従える感じがした。
目を開くと、カロの大きな目がすぐそこにあった。彼女は一度瞬きをして、首を傾げた。
「大丈夫?」彼女の声が聞こえる。一瞬、口の動きがスローモーションに見えたが、すぐにもとのスピードに戻った。
僕はすぐには声が出せなくて、彼女に倣って一度頷く。
〈もうすぐ、オレたちの国だ〉
キューブが背後から現れて、僕とカロの前に出た。彼はすでに形状をもとに戻している。
少し余裕が出てきて、周囲に視線を巡らせると、見渡す限り黒い空間が広がっていた。そこに無数の白い光が散らばっている。宇宙に来たのかと思ったが、どうやら違うようだ。第一、僕は宇宙に行ったことがないから、宇宙というものを知らない。もしかすると、これが宇宙なのかもしれないとも考えた。しかし、普通に呼吸することができる。周囲に浮かんでいる白い光は、一点に停滞しているのではなく、それぞれが様々な方向に移動していた。
「ここは、どこ?」僕は浮遊しながら質問する。
〈だから、オレたちの国だよ〉キューブが答えた。
「さっきまで僕たちがいたのと、同じ空間?」
〈空間の定義は?〉
キューブに問われて、僕は黙ってしまった。あまりそういうことを考えたことはない。たとえば、宇宙空間自体が何でできているのかは知らない。
〈ここは、オレの中だ〉キューブが言った。〈ゲートを潜って、こちら側に来てもらった〉
「どういうこと?」
〈そのままの意味〉
黒い空間に浮かぶ白い光が、僕たちの傍を通り過ぎていった。すぐ傍を通ったはずなのに、微妙に距離感が分からなかった。大小関係が狂っているような感じがする。僕の感覚の問題だろうか。
〈空間、の定義はあまりはっきりしないが、一般的に言われている意味で空間という言葉を使うなら、普通、ある空間の内側にはその空間よりも小さいものしか入らない〉キューブが話した。〈しかし、オレは少々特殊でね。ある空間の中では、その空間に収まるサイズをしているが、オレの中身はその空間よりも遙かに広いんだ〉
「それでは、矛盾しているんじゃない?」
〈そうそう。矛盾している。その矛盾をどのように解消しているのか、オレは知らない。それはシスターだけが知っている〉
「シスター?」
〈オレをデザインした奴がいるのさ〉
唐突に、カロが手を引いて、僕の身体を抱え込んだ。彼女の方が背が高いから、彼女の頭の下に僕の頭が来る。
「何?」僕は尋ねた。
「怖くない?」
「怖くはないかな」
「私は怖い」
「あそう。どうしたらいい?」
「こうしている」
「それで、飛べるの?」
「もう、飛んでないよ」
カロが言う通り、彼女の翼はいつの間にか収納されていた。僕たちは、彼女の力で飛んでいるのではない。もう飛んでいるとはいえないかもしれなかった。存在していると言った方が正しい。移動しているのかも分からない。周囲に景色は確認できるが、そちら側が動いているのか、それとも僕たちが動いているのか、判断できなかった。
〈オレたちの家に通そう〉キューブが言った。
「こんな所に住んでいるんだね」僕は応じる。
〈なかなか素敵だろう?〉
「ところで、君の正体は何なの?」
〈おいおい。今になって、そんな不躾なことをきくのか?〉
「そろそろ明かした方がいいんじゃないかな」
〈実は、オレ自身よく分かっていない〉キューブは話す。〈お前だってそうだろう? 自分が何者かなんて、考えても答えは出ないんじゃないか?〉
「私はね、カロ」カロが口を挟んだ。
〈そうだ、カロ。仲良くしようじゃないか〉
「うん」
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