No.2 トブトリノス

羽上帆樽

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 シスターが指を鳴らすと、空間にテーブルと椅子が現れた。テーブルは片仮名で表記するのに、なぜ椅子は漢字で表記するのだろうか。椅子は二つしかなかったから、僕とカロが座ることになった。ボールもシスターも浮遊している。

 シスターは暫くの間何も話さなかった。その場にふわふわと浮かんでいるだけだ。僕は手持ち無沙汰になって、自分の指を使って遊び始めた。触れるものがほかにないのだから仕方がない。カロは周囲を見ている。彼女にはその傾向があった。どこかへ行くと、大抵辺りを見渡している。僕は、一度見てしまえばもう見なくても構わないという質だから、僕と彼女がセットでいれば、それなりにバランスがとれるかもしれない。

「あなた方に来てもらって、正解でした」唐突にシスターが言った。「手伝ってほしいことがあるのです」

 僕は手先から視線をずらして、彼女を見る。

「ここは、どこですか?」僕は関係のない質問をした。

「彼の中です」そう言って、シスターはボールを指さす。「あなたは、彼を何と呼んでいるのですか?」

「ポール」僕は答えた。

「なるほど」シスターは頷く。「ポールは、仮想空間を生み出す装置です。あなた方を構成する情報を圧縮し、彼の中で再現しています。そのためには一定の処理が必要です。ここに来る前にゲートを潜ったはずです」

「どうして、仮想空間が必要なんですか?」

「必要? いえ、必要ではありません。つまり、私には必要ですが、必然的な必要性はありません」

「貴女にとって必要な理由は、何ですか?」

「それは後々分かると思います」シスターは一度目を閉じて、開いた。瞬きにしては間隔のある動きだった。「今は、直近の問題について話させてもらえませんか?」

「協力するつもりはあります。しかし、目的を教えてもらった方が、互いに不利がないと思います」

 僕がそう言うと、シスターはその場で一回転した。翼が少々上下に揺れる。

「目的というのは、難しいものです」シスターは言った。「たとえば、貴方が存在することに、何か目的があるでしょうか? ポールが存在することに、何か目的があるでしょうか? それは、最初はあったかもしれません。けれど、時間が経つにつれて、薄れていくということもあるでしょう。それでも、目的が薄れたからといって、それが存在してはいけない理由にはなりません。存在するものは、もう存在してしまっているのです」

「その考え方は、どこかで聞いたことがあります」

 周囲を観察し終えたのか、カロは僕の隣でシスターを見つめていた。鋭い視線でもない。ただ、注意を向けているという感じだ。夜の街中でばったり遭遇したときの猫みたいな目だった。

「目的を簡潔に述べれば、ここを存続させるためです」シスターが言った。

「この、仮想空間をですか?」

「ええ、そう」

 僕は数秒ほど考えた。最近、僕にしては考えることが多いと思う。普段していないことをしているから、疲れやすくなっているかもしれない。

 シスターが嘘を吐いているのか、本当のことを言っているのか、僕には判断できなかった。そもそも、嘘か本当かという見方自体意味がないかもしれない。この場所を存続させることが目的と言われれば、今度は、では、この場所を存続させる目的は何か、と尋ねることができる。しかし、これでは禅問答と同じだ。この展開を避けるために、彼女は始めから目的について言及しなかったのかもしれないと考えた。と、いう考えは、目的を起点としているわけだが。

「このままにしておくと、この仮想空間は間もなく閉ざされます。それを防ぐために、システムの稼働を支える動力を補充する必要があります。その作業をあなた方に手伝ってほしいのです」

「何をすればいいですか?」僕は今度は当たり前の質問をした。

「動力は、この仮想空間で新たに生産する必要があります。これまでは、私が一人で生産していましたが、供給が間に合わなくなりました。ポールの活動範囲が広がったためです」

〈仕方がない〉ポールが久し振りに口を利いた。〈必要なことなんだ〉

「活動範囲が広がったというのは、つまり、この仮想空間の範囲が広がったということ?」僕は質問する。

〈ま、そんな感じだ〉

「それは、どうして?」

〈疑問が絶えない兄ちゃんだなあ〉ポールは言った。〈そういうのは、後々分かるようになるんだよ。考えてばかりいないで、とにかく身体を動かせってことだ〉

 そう言われれば、確かにそうだと僕も思った。けれど、疑問は僕の中に残り続ける。そもそもの問題として、なぜこの仮想空間が存在するのかというのが最大の疑問だった。それが解消されれば、ほかの疑問も解消される。この仮想空間が存在する理由が分かれば、それが存続されなければならない理由も、その存続のために僕とカロがここへ導かれた理由も分かるはずだ。

 シスターについて僕は歩いた。カロはポールと並んで宙に浮かび始めたので、歩いていない。歩くと、床はないのに感覚はきちんと伝達された。一歩足を踏み出すと、そのときその場所にだけ床が出現した。床は一応形を見ることができる。角に丸みを帯びた正方形の平面だった。それが進行方向に合わせて現れる。後ろを振り返ると、一歩後ろの床はすでに見えなかった。

「この空間は、なんて呼ばれているんですか?」歩きながら僕は質問する。

「呼び名は決まっていません」前を向いたまま、シスターが答えた。「あなた方は、彼のことをポールと呼んでいるそうなので、同じ名前で呼んでもらって構いません」

「ちょっと奇妙な名前だね、ポールって」

〈そうか?〉ポールが応じる。〈オレはそれなりに気に入っているけどな〉

「ところで、君、いつからポールになったの?」

〈お前が勝手に決めたんじゃなかったか?〉

「そうだ、カロ。君は、どうしてカロという名前なの?」僕は彼女に質問した。

「前にも話さなかったっけ?」カロは僕を見る。片方の目だけ微妙に閉じていて、睨みつけるような視線だった。新しく習得した表情かもしれない。

「話したような、話していないような」

「私は知らない」カロは答える。「なんとなく、そういう感じだったからだと思う」

 僕は歩きながらまた考える。僕たちをここへ導いたのが魔法使いだとすれば、彼がすべてを知っているということになるのではないか。そして、魔法使いはシスターやポールと繋がっている。そうすると、やはりシスターもポールも僕が知らないことを知っているということになる。彼らが言った通り、本当に色々なことが後々分かるようになるのだろうかと心配になった。

 心配になる?

 どうして、そんな必要があるのだろう?

 そうか……。

 僕は、たぶん、どこかで、彼らと自分の間に何らかの関係を見出そうとしているのだ。おそらく、その予感があるのだろう。だから彼らのことが気になるし、知ろうとする。彼らに関係のあることは、きっと自分にも関係があると感じているのだ。

「物理学は、ものとものの関係について考える学問らしい」僕の隣で浮遊しながらカロが言った。「でも、それって、どの学問でも同じことだと思う」

「まあ、そうだね」僕は同意する。「君は、物事を理解するのが早すぎる」

「そう?」

「もう少し躊躇してもいいのでは?」

「どうして?」

「なんとなく」

「理由になっていないと思う」

「そう……。理由が求められることではないから」

「物理学では、最初はものとものの関係を客観的に見ようとするのに、いつの間にか主観的になってきてしまうように思えるのは、どうして?」

「君が言っていることを正しく理解したとは言えないけど……」僕は目だけでカロを見る。「たぶん、外側に向かえば向かうほど、外側が内側になって、結果的に、もともと内側だった部分が外側になってしまうからじゃないかな」

 僕がそう言うとカロは黙った。また何か考えているのかもしれない。

 シスターが進むのをやめた。目的地に到着したようだ。

 四方が真っ白な空間に、緑と茶色の有機物があった。土でできたライン上の地面が等間隔に形成され、そこから緑の茎が上に向かって伸びている。どうやら畑のようだ。ここは上下左右に空間が限りなく広がっているから、当然、土の下にも空間が広がっている。しかし、茎の下にあるはずの根は見えない。存在しないのか、見えないのか、判断できなかった。どちらでも同じことだからかもしれない。

 近くに行って見てみると、茎は案外太くて丈夫そうだった。表面に細かく毛が生えている。茎の至る所からさらに小さな茎が生え、その先に葉が茂っていた。そして、葉のさらに先に実が成っている。赤い実だった。

「まずは、この実を収穫するのを手伝ってもらいます」僕の背後でシスターが言った。

「何の実ですか?」僕は振り返って質問する。頭の上でポールとカロが飛び交っているのが見えた。

「さあ、何の実でしょう」そこでシスターは少し笑ったみたいだった。彼女の笑顔を見たのは、そのときが初めてだった。「何の実かは分かりませんが、実から種を取り出し、その種を乾燥させて使います。乾燥させた種を煎ったあと、それを磨り潰し、お湯で成分を抽出して飲むと美味しいそうです」

「コーヒーですか?」

「さあ、どうでしょう。私は実物を見たことがないので、分かりません」

 実物というのは、実そのものか、煎ったあとのものか、どちらだろうと僕は考える。

「ただ、今は飲むために使うのではありません。ここを維持するために使います」

 カロが実を一つ摘まんで、口の中へ入れる。

 噛んでから飲み込むまで、彼女は真顔のままだった。

「あまり美味しくない」
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