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第8章 けれど停滞
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その日の分の作業が終わり、やっとヘブンズの記述言語を翻訳できるようになった。テーブルの上には今日の分の夕飯が届いていたが、僕はまだ手をつけていない。今は食事をしている暇が惜しかった。なんといっても時間がない。焦っているわけではないが、まだやることがあると思うと、ほかのことをする気にはなれなかった。
リィルは風呂に入っている。彼女は今日一日何もしていない。何もしていない、という言い方はおかしいが、実のあることは何もしていない、とでもいえば良いだろうか。ただ、施設の中を彷徨いていたらしい。新しい発見は何もなかったとのことだった。
浴室のドアが開いて、リィルが風呂から出てくる。彼女はドライヤーで髪を乾かさない主義らしい。理由は知らない。濡れた髪をタオルで束ねて、僕の傍までやって来た。
「……ご飯くらい食べたら?」彼女は言った。
「うん、そうなんだけど……」僕は話す。「実は、あまりお腹が空いていないんだ」
「ずっと仕事をしているのに?」
「作業の量が増えるほど、エネルギー消費が抑えられる質なんだよ、僕って」
「嘘っぽい」
「うん、嘘だ」
リィルは対面のソファに座る。
「ご飯、どうするの?」
「食べなかったら、そのまま回収されるんじゃないかな。それで、ロトの分になるとか」
「彼には彼の分があるじゃん」
「どうだろうね。彼も食事をしないタイプかもしれないよ」
「それ、どういう意味?」
「単なる冗談。でも、そんな感じがするだろう?」僕はタイピングを続けながら話す。「何も食べなくても平気そうじゃないか。それ以外にも、睡眠もとらなくても大丈夫そうだね。僕はそれは無理かな……。食事よりは、睡眠の方が欲が強いね」
「どのくらいまでできた?」
「三分の一くらい」
「……間に合うかな」
「間に合うって、何に?」
「私のプロテクトが消失するまで」
「ああ、そういうこと」僕は頷く。「大丈夫だとは思うけど……。それよりも、ヘブンズの活動領域を拡大される方が困る」
「え、どうして?」
「だって、その分プログラムが増えるってことだろう?」僕は説明した。「そうしたら、それまで解析しないといけなくなる。……まあ、もしそうなっても、追加された分が重要かというと、そうでもない気がするけど……」
「ねえ、ちょっと、外に行こうよ」
「今は行けない。見ての通り、手が離せないんだ」
「そのままでいいよ、別に。タイピングしながら、海に行こうよ」
「シュールすぎるんじゃないかな」
「いいじゃん」
「一人で行ってきたら?」
「そんなの、つまんないでしょう?」
「やったことがないから、僕は知らない」
「私に試してみろって言うの?」
「まだ言っていないよ」
リィルはソファから立ち上がり、僕の背後に回り込む。翻訳された内容を確かめるのかと思ったら、彼女は背後から抱きついてきた。
僕は多少動揺する。
「……あのさ」
「何?」
「離れてくれないかな」
「どうして?」
「正当な理由はないけど、しいて言えば、打ちづらいから」
「いいじゃん、そんなの」
「よくない」
「外に行こうよ」リィルは耳もとで囁く。「私、もう我慢できないから」
「一人で行けば、我慢する必要はない」
「あああ、もう!」そう言って、彼女は自分の腕を僕の首に絡めた。「そんな答えが聞きたいんじゃないの!」
「いや、ちょっと……。……うん、本当に、離れてくれないと困る。呼吸ができなくなってきた」
「五分だけでいいから」
「五分じゃ海まで行けないよ」
「じゃあ、十分」
「そうやって、五分ずつ延長していくつもりなんだろう?」
「そうだよ」
「駄目だ」
「なんでよ……」
「なんでも」僕は言った。「とにかく、僕は今キーボードとデートしているんだ。君の出番はない」
「酷い……」
「離れて下さい」
「仕方がない。今日は許してやろう」
首が解放される。
リィルは自分の席に戻った。
「でも……。それって、どう考えてもあと二日じゃ終わらないよね? どうするつもり?」
「終わらせるしかないね」僕は言った。「夜更しするんだ」
「本気?」
「当たり前じゃないか。それしか方法がない」
「そんな……」リィルは肩を落とす。「私、そんなの、無理」
「なんで君が落胆するわけ?」僕は笑った。「君はベッドでぐっすり眠ればいい」
「それはできないからなあ」
「なんで?」
「だって、そうに決まっているじゃん」
「ちょっと、よく分からないんだけど……」
「私も夜更ししよう」
「僕はお勧めしない」
「でもさ、なんか、皆で夜更しするのって、楽しいよね」リィルは突然笑顔になる。「わくわくしない? 本当はしちゃいけないことだけど、それを許してくれる仲間がいるのってさ、どきどきするじゃん。ねえ、そうじゃない?」
「そういう理由で、人は犯罪を犯すんだ」
「そうかもしれないけど……。……でも、仕方がないとは思うよ」
「犯罪を犯すのが?」
「うん……。……だって、いけないことでも、面白そうだったら、ついついやりたくなっちゃうでしょう?」
「どうだろう……」
「私は、たぶん、そう」
「それは、いいのか、悪いのか、分からないね」
「どっちが大切かな? ルールを守って自分の欲望を抑圧するか、それとも、ルールを破って自分の欲望を満たすか」
「一般的には前者だけど、本当は後者の方が大切」
「だよね」
「でも、それは理想だから、現実には適用できない」
「適用する人が、犯罪を犯すってこと?」
「まあ、そうともいえるかな」
「お腹空かない?」
「空いてきたかも」僕は言った。「食べさせてよ。口を開けるから」
「え……」
「あそう。嫌なら構わない」
「そんなにやってほしいの、あーんって」
「冗談だよ」
「やってあげようか?」
「今度ね」
一時間くらい何も話さずに作業を続けたが、リィルが寝室に向かう様子はなかった。時刻は午後十時を過ぎている。眠るにはまだ早い時間だが、何もしないでソファに座り続けられるのは一種の才能だろう。
根比べみたいになるのは嫌だったので、僕は作業を続けながら彼女に話しかけた。
「ねえ、リィル」
僕が呼びかけると、彼女は瞬時に顔をこちらに向けた。それまでずっと天井を見ていたようだ。
「ん? 何?」
「ちょっと考えてみたんだけど、今回の出張は、なかなか素晴らしい旅だったかもしれないね」
リィルは笑う。
「それ、どういうこと?」
「いや、だってさ、こんなエキサイティングな経験って、そうそうできるものじゃないだろう? 毎日が夢のようだったじゃないか。列車に乗ってここまでやって来て、毎日一生懸命働いて、夜には海に散歩に行って、ときどき謎解きみたいなこともして……」
「そんなきらきらしたものじゃなかったと思うけど」
「え? あ、そう」
「でも、毎日、くたくたになる君を見ているのは、つまらなくはなかったかな」
「へえ……」
「あと、一人で食事をする君を見るのも、なかなか面白かったよ」
「悪趣味だね」
「そんなことない」リィルは意気揚々と話す。「見ているだけで面白いものって、案外少ないものだよ」
「動物園の動物たちは、見ているだけで面白いけどね」
「あ、たしかに」
「僕は動物と同じレベルってことかな」
「そう言われてみれば、見ているだけで面白いものって、けっこう沢山あるかも」彼女の調子は変わらない。「映画だってそうだし、ドラマだって、演劇だって、見ているだけで面白いよね」
「並列関係になっていない。どれも同じカテゴリーだよ」
「ああ、私さ、最近映画を観ていないから、何か、心動かされる傑作を観たいんだよなあ」
「観ようと思えば、いつでも観られる」
「どうやって?」リィルは急に真剣な表情になる。「ここって、映画を借りられるの?」
「念力を使えば」
「は、念力? いやいや、そんなんじゃ観られないって。念力ってサイコキネシスのことでしょう? 無理無理。絶対に無理。そんなので観られるのなら、もう、観音様なんていらないもん」
「君ね、僕にも分かるように説明してくれないと困るよ」僕はタイピングを続ける。
「説明しているよ。君が理解しようとしないだけでしょう?」
「それは違うと思う」
「あのさあ、もう少しレディーに気を遣えないの?」
「それだけの利益がなければ、普通はそういうことはしないものだ」僕は言った。「第一、君がレディーなのか疑問だし」
「何だって?」リィルは立ち上がる。
「まあまあ、落ち着いて……。そんなにかっかしてもいいことはないから」
リィルは勢い良くソファに腰を下ろした。
「何でさ、そんなに急にハイテンションになるわけ?」僕は尋ねる。「もう少し、自制したら?」
「君が変なこと言うからじゃん……」リィルはテーブルに突っ伏す。
「僕じゃない。君が言ったんだ」
「私、天の川で素敵な出会いを果たしたかったな……」
「何? どうしちゃったわけ?」
「ホーホケキョーの観音寺で、水鳥の観察とかもしたかったし……」
「観音寺ってどこ?」
「知らない。どこかの遺跡じゃない?」
「適当だね。ちゃんと調べてから話さないと……」
リィルはきっちり五分間黙った。
「ねえ、何か、楽しい話をしようよ」突然顔を上げて、彼女は僕に話しかける。
「今、したじゃないか」
「もっと楽しい話。なんていうのかなあ……。もっと、こう、はらはら、どきどきするような感じ? そんな話がしたいんだけど……、何かない?」
「君の話を聞いているだけで、僕はいつもはらはらするし、どきどきする」
「私がしたいの」
「すればいいじゃないか」僕は話す。「こう、心臓を意識的に動かして、はらはら、どきどきって言えば、それなりにはらはらどきどきするよ」
「私、心臓なんてない」
「じゃあ、今から作れば?」
「ちょっと、外に行かない?」
「行かない」
リィルは膨れっ面になった。その顔で僕を見つめてくる。マンボウみたいだな、と僕は思う。
「もう少し落ち着いて話そう」僕は言った。「僕ね、今、仕事中なんだ」
「趣味でしょう?」
「違うね。本来なら、やらなくてもいいことをやっているんだから」
「でも、自分で決めてやっているんでしょう? じゃあ、趣味じゃん。少なくとも、仕事じゃないよね」
「その理屈は、僕には通用しない」
「駄目駄目、そんなの」彼女は自分の前で手を振る。「社会に出たら通用しないんだから」
僕はキーを打っている手を止めて、リィルの顔をじっと見つめた。
「君さ、酔っているんじゃない?」
「ええ? 何だってえ?」
僕は無視して作業を続ける。
リィルも何も言わなくなった。
ヘブンズの翻訳結果は、すべて英語で記している。その方が論理的だからだ。だから、僕にはまだ内容がよく分からない。現れる単語の意味くらいは所々理解しているが、それらが合わさってどのような文を作り上げているのか、理解するには時間をかけて注意深く読まなくてはならない。
キーを打つ音だけが部屋に響く。
いつの間にか、リィルは眠ってしまった。
ソファに座ったまま首が不安定に揺れている。
寝室から毛布を持ってきて、僕はそれをリィルの肩にかけた。彼女を寝室まで運んでも良かったが、かなりの重労働になるからやめておいた。彼女が重いという意味ではない。僕の運動能力が足りないだけだ。
もう夜は更けていた。しかし、ここには時計以外に時間を感じさせるものはないから、思い込もうと思えば日中だと錯覚することもできる。
何らかの作業に集中しているとき、人は時間の経過を忘れている。それは、時間という概念を超越していると言い換えられるかもしれない。作業が一段落したところで、ようやく自分が時間に従属していることを思い出す。その瞬間に、あっという間だったなと感じるのだ。
僕は……。
そんなことを考えている内に、段々と意識が遠退いていくのが分かった。
もう、限界だったのかもしれない。
自分の限界を把握できない。
悪い癖だ。
だから、普段から自分の能力を過小評価するようにしているのに……。
駄目だ。こんな所で眠ってしまっては……。
視界にリィルの寝顔が映った。
それを見て、僕は安心する。
まあ、良いか。僕は一人ではないのだから……。
腕が垂れて掌が床に触れる。
それは分かった。
しかし、その感触を最後に僕の意識は消えた。
突然、前方から圧力を受ける。
僕は驚いて目を覚ます。
リィルの頭があった。彼女の髪が僕の頬に触れている。
僕はその頭を撫でる。
リィルは顔を上げた。
「起きて」リィルは言った。「朝だよ」
「うん……」僕は目を擦る。「今、何時?」
「六時三十分」
僕は盛大に欠伸をした。
「大丈夫?」身体から離れて、リィルが質問する。「やっぱり、無理しない方がよかったじゃん」
「君は? あんな姿勢で寝て、身体を痛めたりしなかった?」
「うん……。……ちょっと、首が痛いような気がする」
七時に朝食が届いた。僕はそれを食べる。もう何回ここで食事をとったのだろう、とふと思った。計算する気にはなれなかったが、大分ここでの生活に馴染んだ気がする。久し振りにリィルの手料理を食べたいと思った。そんなふうに食に対して積極的になるのは、僕にしては珍しいことだ。
八時にロトが僕たちの部屋にやって来て、軽く近況を伝えた。どうして僕たちにそんなことを伝えるのだろう、と多少疑問に思ったが、彼も不安を抱えているのかもしれない。サブリーダーという立場上、僕たちが今回の出来事を外部に漏らしたら、最終的に彼が責任をとらなくてはならなくなる。そんな責任は誰もとりたくないだろう。僕にロトとの約束を破るつもりはなかったが、そんな不安を抱えて生きる彼が惨めに思えた。
ヘブンズの記述言語の翻訳作業は中断して、与えられた仕事を今日もこなす。ちょっとした疲労を感じたが、指はまだまだ動きそうだった。しかし、手が使えなくなるとかなり不便になる。食事もとれなくなるし、風呂に入ったり、電話をかけたりと、基本的なことが何もできなくなる。人間は自らの多くを手に依存させているようだ。
あっという間に昼時になった。あっという間と感じるということは、今までそれなりに集中できていたことになる。自分ではそんなつもりはなかったが、リィルに尋ねてみると、僕は何度か彼女の声に応じなかったようだ。
「そうかなあ……」僕は言った。「君に話しかけられたら、絶対に気づくと思うけど……」
「もうね、凄い集中していたよ。なんか、そのまま、悟りを開いちゃうんじゃないかっていうくらい」
「それは凄い」
「適度に休憩した方がいいよ。単純に計算しても、作業が二倍になっているんだから」
「そうだね……」僕スプーンを動かす。今日のランチはグラタンだった。
「大丈夫?」
「平気だよ、たぶん」
「何かあったら、遠慮なく頼ってね」
「その前に、色々なツールに頼ると思う」
午後一時半になったタイミングで、昨日と同様にメッセージが送られてきた。
〉要求から四十八時間が経過した。残された時間は二十四時間となる。
〉ヘブンズの活動領域の拡大を急ぐように。
〉なお、私の居場所を特定しようとしているのなら、無駄な努力に終わる可能性が高い。
〉お互い最善の結果を得られることを願っている。
〉心しておくように。
統括者
僕はそれを読む。もう全然驚かなかった。当たり前のことしか書かれていないからだ。リィルも同様の反応だった。
「こいつさ、馬鹿なんじゃないの?」リィルは言った。「こんなふうに気取っちゃってさ、何様のつもり?」
「この施設のリーダーなんだよ。それなりの頭脳の持ち主なんだ。馬鹿にしてはいけない」
「どうせ、肩書だけなんじゃないの?」
そのとき、僕の上着のポケットで携帯端末が震えた。
僕は端末を取り出し、画面の表示を確認する。友人から電話がかかってきていた。画面をタップしてそれに応答する。
「どうかした?」僕は尋ねた。
「今、話しても大丈夫?」友人の声が聞こえる。「大事な話なんだ」
僕は端末を耳に当てたままリィルに目配せした。彼女は僅かに首を傾げる。
「どんな話?」
「見つけたんだ、君が言っていた人物を」彼は言った。「その施設のリーダーだろう? ハイリ・スルシという女性だ。ネットのニュースを回覧していたら、偶然見つけた。どうしてだと思う?」
「ニュース?」僕は訊き返す。「どういうこと?」
「彼女、死亡したんだ」彼は言った。「しかも、今朝の五時に」
僕は驚いて声が出なくなった。
「地方の路上で死亡しているのが見つかった。いや、路上じゃないな……。どこかの橋の上? まあ、いいや、そんなことは……。見つかったとき、彼女は腹部にナイフが刺さっていて、出血多量で意識不明の重体だった。その後、搬送先の病院で死亡。死因はそのナイフに間違いないけど、自殺か他殺かは分かっていない。まあ、普通に考えれば他殺だろうけど……。……聞いている?」
「それで? そのあと、どうなった?」
「別に、どうもなっていない。死亡が確認されて、それで終わり」
「彼女の所有物について、何か書かれていない?」僕は質問する。
「所有物? いや、そんなことは書かれていないけど……」
「本当に? 重要なものなんだ。その……、いや、詳しいことは言えないけど、とにかく、とても大事なものなんだ。持っていたら、絶対に目立つ。警察も気づくはずだ」
暫くの間彼は沈黙する。
「いや、そんなことはどこにも触れられていない。でも、あくまでネットのニュースだから、必要最低限のことしか載っていないよ。それに……。それは、貴重品なんだろう? 機密事項だと判断されたんじゃないの?」
「そうかもしれないけど……」
僕は黙る。
……ハイリが死亡した?
どうして?
誰かに殺されたのか?
なぜ?
いや、それなら……。
僕は彼に話しかけようとする。
しかし、そのとき、ドアの方から激しい音が聞こえた。
僕はそちらを振り返る。リィルも顔を向けた。
ドアが開かれている。
その向こう側。
誰かが立っている。
サラだった。
彼女は部屋に入ってくる。
そして、急停止。
手に持っていたものをこちらに向けて、彼女は僕とリィルの顔を交互に見つめた。
黒光りする鋼鉄。
彼女は、ピストルを握っている。
呆気に捕らわれて、僕もリィルも何も言えなかった。
「電話を切りなさい」サラが言った。「今すぐに」
僕は端末の電源を切る。電話の向こう側で彼の声が聞こえていたが、僕の操作で通話は終了した。
「動かないで」サラは僕たちを睨みつける。「両手を頭の後ろに掲げて、百八十度方向転換」
沈黙。
「言われた通りにしなさい」
僕とリィルは黙って指示に従う。後ろを向くとき、リィルと一瞬だけ目が合った。彼女の目には恐怖とも疑問ともとれない、微妙な色が浮かんでいた。
「今、誰と話していたかを説明して」
僕は溜息を吐く。
肩の力を抜いた。
不思議と、抵抗しようという気にはならなかった。
「友人と話していました」
「誰?」
「僕に、この仕事を紹介した者です」
「何を聞いた?」
僕はリィルに目配せする。彼女はまだ内容を知らない。
「とある人物が、今日の朝に死亡したというニュースです」僕は説明した。「その人物は、ハイリという名前の女性です。この施設のリーダーでした。腹部の損傷で出血多量になり、意識不明の状態で見つかって、死亡しました」
隣でリィルが息を呑むのが分かった。
当然、僕も驚いた。
しかし、今は……。
そんなことはどうでも良かった。
「ほかには?」
「それだけです」
「予言書はどうなった?」
「知りません。彼が教えてくれたのは、あくまで、ネット上に公開されている情報だけでした」
サラはゆっくりと僕たちの背後を歩く。
足音。
ほかには何も聞こえない。
僕の鼓動は?
僕の呼吸は?
心肺機能は正常に作動しているか?
分からない……。
心臓の音も、呼吸の音も、今は完全に聞こえなかった。
なぜ?
リィルは?
僕はそっと自分の隣を見る。
彼女の表情は落ち着いていた。
静かに目を閉じている。
伏せられた瞼を観て、長い睫毛だな、と僕は思った。
ああ、なんてくだらないことを考えるんだろう……。
まるで下等な動物。
こんな状況下でも、生物的な美に惹きつけられる愚鈍。
サラは歩くのをやめる。リィルの隣に立ち、彼女の頭にピストルの先端を突きつけた。接触を認識してリィルは目を開ける。彼女は終始無表情だった。まるで恐怖すら感じられなくなったように……。
「二人とも、知ってはいけないことを知ってしまった」サラは言った。「このまま帰すわけにはいかない」
僕は目だけで彼女の姿を確認する。
「命乞いをさせてもらえませんか?」
サラは引き金に指を当て、僕をじっと見つめた。
「できると思うの?」
「まあ、無理でしょうね」
「あなたたちを抹消し、私たちは事件そのものを隠蔽する」
「どうして、これから殺す人間にそんなことを言うんですか?」
「せめてのサービスのつもり」サラは表情を変えない。「ありがたいと思いなさい」
「それは、感謝しないといけませんね」
サラはピストルをリィルの頭から離し、今度はそれを僕に向けた。
「何ですか?」僕は尋ねる。
「黙れ」
彼女は僕の傍に近づこうとする。
次の瞬間、銃口が自分から離れたのを確認したリィルが、サラの首に思いきり腕を伸ばした。
サラは反応する。しかし、ワンテンポ遅れた。
二人は縺れ合う。
僕はリィルに加勢しようとしたが、サラがピストルを持っているため上手く動けない。
サラは引き金を引く。
一発。
弾はリィルのすぐ傍を通り、対面にあったソファを撃ち抜いた。
轟音で耳が聞こえなくなる。
無音。
リィルは一方の手でサラの首を締め、もう片方の手でピストルを握っている方の腕を掴もうとする。
サラの抵抗。
リィルは、彼女の腕を床に押しつけようとした。
しかし、相手が動くので上手くいかない。
銃口が何度も僕の方を向いた。怖かった。
二人はバランスを崩す。
靴が床を擦る音。
摩擦。
リィルは足を踏み外したが、スタビライザーが作動して、すぐに体勢を立て直した。
ステップを踏むように。
踊り子の真似をするように。
二人は素早く足の位置を入れ替える。
そして、リィルは、サラのピストルを取り上げた。
そのまま彼女を床に組み伏せる。
サラはまだ抵抗する。
まるで、何かの支配から逃れるように……。
リィルは首を締める力を強めた。
歯を食いしばる。
どれだけ力を込めても、これ以上サラに勝利の女神は微笑まない。
これで終わり。
確定事項。
やがて、サラは動かなくなった。
「誰か呼んできて!」リィルが大きな声で叫んだ。「早く!」
僕は部屋から出ていこうとしたが、その前にサラが気を失っているのに気づいた。
「離して」僕はリィルに言った。「サラが死んでしまう」
リィルはサラの様子を確認し、すぐに首に回していた腕を解いた。
サラは両腕を投げ出す。
床にへばり付くように力は分散される。
訪れる静寂。
聞こえるのは、リィルの荒い呼吸だけ。
彼女は僕を見る。
僕は頷いた。
「大丈夫だ」僕は言った。「よくやった。ナイスファイトだ、リィル」
「私……」彼女の声は震えている。
「何も問題はない。サラは生きている。気を失っただけだ」
「……駄目、だ。私、もう、何も、できない」
「……リィル?」
「ごめん……」リィルの表情は引き攣っている。「ごめん……、ね……」
僕はリィルの肩に触れようとする。
しかし……。
伸ばした手は届かなかった。
彼女に阻害されたからだ。
僕は、リィルに思いきり首を絞められ、その勢いのまま後ろに倒れる。
……リィル?
意識が薄れる直前に、僕は彼女の顔を見た。
笑っている。
笑っていた。
リィルは、楽しそうに笑っていた。
数秒後、彼女の瞳は赤く輝き、僕の目には涙が浮かんだ。
リィルは風呂に入っている。彼女は今日一日何もしていない。何もしていない、という言い方はおかしいが、実のあることは何もしていない、とでもいえば良いだろうか。ただ、施設の中を彷徨いていたらしい。新しい発見は何もなかったとのことだった。
浴室のドアが開いて、リィルが風呂から出てくる。彼女はドライヤーで髪を乾かさない主義らしい。理由は知らない。濡れた髪をタオルで束ねて、僕の傍までやって来た。
「……ご飯くらい食べたら?」彼女は言った。
「うん、そうなんだけど……」僕は話す。「実は、あまりお腹が空いていないんだ」
「ずっと仕事をしているのに?」
「作業の量が増えるほど、エネルギー消費が抑えられる質なんだよ、僕って」
「嘘っぽい」
「うん、嘘だ」
リィルは対面のソファに座る。
「ご飯、どうするの?」
「食べなかったら、そのまま回収されるんじゃないかな。それで、ロトの分になるとか」
「彼には彼の分があるじゃん」
「どうだろうね。彼も食事をしないタイプかもしれないよ」
「それ、どういう意味?」
「単なる冗談。でも、そんな感じがするだろう?」僕はタイピングを続けながら話す。「何も食べなくても平気そうじゃないか。それ以外にも、睡眠もとらなくても大丈夫そうだね。僕はそれは無理かな……。食事よりは、睡眠の方が欲が強いね」
「どのくらいまでできた?」
「三分の一くらい」
「……間に合うかな」
「間に合うって、何に?」
「私のプロテクトが消失するまで」
「ああ、そういうこと」僕は頷く。「大丈夫だとは思うけど……。それよりも、ヘブンズの活動領域を拡大される方が困る」
「え、どうして?」
「だって、その分プログラムが増えるってことだろう?」僕は説明した。「そうしたら、それまで解析しないといけなくなる。……まあ、もしそうなっても、追加された分が重要かというと、そうでもない気がするけど……」
「ねえ、ちょっと、外に行こうよ」
「今は行けない。見ての通り、手が離せないんだ」
「そのままでいいよ、別に。タイピングしながら、海に行こうよ」
「シュールすぎるんじゃないかな」
「いいじゃん」
「一人で行ってきたら?」
「そんなの、つまんないでしょう?」
「やったことがないから、僕は知らない」
「私に試してみろって言うの?」
「まだ言っていないよ」
リィルはソファから立ち上がり、僕の背後に回り込む。翻訳された内容を確かめるのかと思ったら、彼女は背後から抱きついてきた。
僕は多少動揺する。
「……あのさ」
「何?」
「離れてくれないかな」
「どうして?」
「正当な理由はないけど、しいて言えば、打ちづらいから」
「いいじゃん、そんなの」
「よくない」
「外に行こうよ」リィルは耳もとで囁く。「私、もう我慢できないから」
「一人で行けば、我慢する必要はない」
「あああ、もう!」そう言って、彼女は自分の腕を僕の首に絡めた。「そんな答えが聞きたいんじゃないの!」
「いや、ちょっと……。……うん、本当に、離れてくれないと困る。呼吸ができなくなってきた」
「五分だけでいいから」
「五分じゃ海まで行けないよ」
「じゃあ、十分」
「そうやって、五分ずつ延長していくつもりなんだろう?」
「そうだよ」
「駄目だ」
「なんでよ……」
「なんでも」僕は言った。「とにかく、僕は今キーボードとデートしているんだ。君の出番はない」
「酷い……」
「離れて下さい」
「仕方がない。今日は許してやろう」
首が解放される。
リィルは自分の席に戻った。
「でも……。それって、どう考えてもあと二日じゃ終わらないよね? どうするつもり?」
「終わらせるしかないね」僕は言った。「夜更しするんだ」
「本気?」
「当たり前じゃないか。それしか方法がない」
「そんな……」リィルは肩を落とす。「私、そんなの、無理」
「なんで君が落胆するわけ?」僕は笑った。「君はベッドでぐっすり眠ればいい」
「それはできないからなあ」
「なんで?」
「だって、そうに決まっているじゃん」
「ちょっと、よく分からないんだけど……」
「私も夜更ししよう」
「僕はお勧めしない」
「でもさ、なんか、皆で夜更しするのって、楽しいよね」リィルは突然笑顔になる。「わくわくしない? 本当はしちゃいけないことだけど、それを許してくれる仲間がいるのってさ、どきどきするじゃん。ねえ、そうじゃない?」
「そういう理由で、人は犯罪を犯すんだ」
「そうかもしれないけど……。……でも、仕方がないとは思うよ」
「犯罪を犯すのが?」
「うん……。……だって、いけないことでも、面白そうだったら、ついついやりたくなっちゃうでしょう?」
「どうだろう……」
「私は、たぶん、そう」
「それは、いいのか、悪いのか、分からないね」
「どっちが大切かな? ルールを守って自分の欲望を抑圧するか、それとも、ルールを破って自分の欲望を満たすか」
「一般的には前者だけど、本当は後者の方が大切」
「だよね」
「でも、それは理想だから、現実には適用できない」
「適用する人が、犯罪を犯すってこと?」
「まあ、そうともいえるかな」
「お腹空かない?」
「空いてきたかも」僕は言った。「食べさせてよ。口を開けるから」
「え……」
「あそう。嫌なら構わない」
「そんなにやってほしいの、あーんって」
「冗談だよ」
「やってあげようか?」
「今度ね」
一時間くらい何も話さずに作業を続けたが、リィルが寝室に向かう様子はなかった。時刻は午後十時を過ぎている。眠るにはまだ早い時間だが、何もしないでソファに座り続けられるのは一種の才能だろう。
根比べみたいになるのは嫌だったので、僕は作業を続けながら彼女に話しかけた。
「ねえ、リィル」
僕が呼びかけると、彼女は瞬時に顔をこちらに向けた。それまでずっと天井を見ていたようだ。
「ん? 何?」
「ちょっと考えてみたんだけど、今回の出張は、なかなか素晴らしい旅だったかもしれないね」
リィルは笑う。
「それ、どういうこと?」
「いや、だってさ、こんなエキサイティングな経験って、そうそうできるものじゃないだろう? 毎日が夢のようだったじゃないか。列車に乗ってここまでやって来て、毎日一生懸命働いて、夜には海に散歩に行って、ときどき謎解きみたいなこともして……」
「そんなきらきらしたものじゃなかったと思うけど」
「え? あ、そう」
「でも、毎日、くたくたになる君を見ているのは、つまらなくはなかったかな」
「へえ……」
「あと、一人で食事をする君を見るのも、なかなか面白かったよ」
「悪趣味だね」
「そんなことない」リィルは意気揚々と話す。「見ているだけで面白いものって、案外少ないものだよ」
「動物園の動物たちは、見ているだけで面白いけどね」
「あ、たしかに」
「僕は動物と同じレベルってことかな」
「そう言われてみれば、見ているだけで面白いものって、けっこう沢山あるかも」彼女の調子は変わらない。「映画だってそうだし、ドラマだって、演劇だって、見ているだけで面白いよね」
「並列関係になっていない。どれも同じカテゴリーだよ」
「ああ、私さ、最近映画を観ていないから、何か、心動かされる傑作を観たいんだよなあ」
「観ようと思えば、いつでも観られる」
「どうやって?」リィルは急に真剣な表情になる。「ここって、映画を借りられるの?」
「念力を使えば」
「は、念力? いやいや、そんなんじゃ観られないって。念力ってサイコキネシスのことでしょう? 無理無理。絶対に無理。そんなので観られるのなら、もう、観音様なんていらないもん」
「君ね、僕にも分かるように説明してくれないと困るよ」僕はタイピングを続ける。
「説明しているよ。君が理解しようとしないだけでしょう?」
「それは違うと思う」
「あのさあ、もう少しレディーに気を遣えないの?」
「それだけの利益がなければ、普通はそういうことはしないものだ」僕は言った。「第一、君がレディーなのか疑問だし」
「何だって?」リィルは立ち上がる。
「まあまあ、落ち着いて……。そんなにかっかしてもいいことはないから」
リィルは勢い良くソファに腰を下ろした。
「何でさ、そんなに急にハイテンションになるわけ?」僕は尋ねる。「もう少し、自制したら?」
「君が変なこと言うからじゃん……」リィルはテーブルに突っ伏す。
「僕じゃない。君が言ったんだ」
「私、天の川で素敵な出会いを果たしたかったな……」
「何? どうしちゃったわけ?」
「ホーホケキョーの観音寺で、水鳥の観察とかもしたかったし……」
「観音寺ってどこ?」
「知らない。どこかの遺跡じゃない?」
「適当だね。ちゃんと調べてから話さないと……」
リィルはきっちり五分間黙った。
「ねえ、何か、楽しい話をしようよ」突然顔を上げて、彼女は僕に話しかける。
「今、したじゃないか」
「もっと楽しい話。なんていうのかなあ……。もっと、こう、はらはら、どきどきするような感じ? そんな話がしたいんだけど……、何かない?」
「君の話を聞いているだけで、僕はいつもはらはらするし、どきどきする」
「私がしたいの」
「すればいいじゃないか」僕は話す。「こう、心臓を意識的に動かして、はらはら、どきどきって言えば、それなりにはらはらどきどきするよ」
「私、心臓なんてない」
「じゃあ、今から作れば?」
「ちょっと、外に行かない?」
「行かない」
リィルは膨れっ面になった。その顔で僕を見つめてくる。マンボウみたいだな、と僕は思う。
「もう少し落ち着いて話そう」僕は言った。「僕ね、今、仕事中なんだ」
「趣味でしょう?」
「違うね。本来なら、やらなくてもいいことをやっているんだから」
「でも、自分で決めてやっているんでしょう? じゃあ、趣味じゃん。少なくとも、仕事じゃないよね」
「その理屈は、僕には通用しない」
「駄目駄目、そんなの」彼女は自分の前で手を振る。「社会に出たら通用しないんだから」
僕はキーを打っている手を止めて、リィルの顔をじっと見つめた。
「君さ、酔っているんじゃない?」
「ええ? 何だってえ?」
僕は無視して作業を続ける。
リィルも何も言わなくなった。
ヘブンズの翻訳結果は、すべて英語で記している。その方が論理的だからだ。だから、僕にはまだ内容がよく分からない。現れる単語の意味くらいは所々理解しているが、それらが合わさってどのような文を作り上げているのか、理解するには時間をかけて注意深く読まなくてはならない。
キーを打つ音だけが部屋に響く。
いつの間にか、リィルは眠ってしまった。
ソファに座ったまま首が不安定に揺れている。
寝室から毛布を持ってきて、僕はそれをリィルの肩にかけた。彼女を寝室まで運んでも良かったが、かなりの重労働になるからやめておいた。彼女が重いという意味ではない。僕の運動能力が足りないだけだ。
もう夜は更けていた。しかし、ここには時計以外に時間を感じさせるものはないから、思い込もうと思えば日中だと錯覚することもできる。
何らかの作業に集中しているとき、人は時間の経過を忘れている。それは、時間という概念を超越していると言い換えられるかもしれない。作業が一段落したところで、ようやく自分が時間に従属していることを思い出す。その瞬間に、あっという間だったなと感じるのだ。
僕は……。
そんなことを考えている内に、段々と意識が遠退いていくのが分かった。
もう、限界だったのかもしれない。
自分の限界を把握できない。
悪い癖だ。
だから、普段から自分の能力を過小評価するようにしているのに……。
駄目だ。こんな所で眠ってしまっては……。
視界にリィルの寝顔が映った。
それを見て、僕は安心する。
まあ、良いか。僕は一人ではないのだから……。
腕が垂れて掌が床に触れる。
それは分かった。
しかし、その感触を最後に僕の意識は消えた。
突然、前方から圧力を受ける。
僕は驚いて目を覚ます。
リィルの頭があった。彼女の髪が僕の頬に触れている。
僕はその頭を撫でる。
リィルは顔を上げた。
「起きて」リィルは言った。「朝だよ」
「うん……」僕は目を擦る。「今、何時?」
「六時三十分」
僕は盛大に欠伸をした。
「大丈夫?」身体から離れて、リィルが質問する。「やっぱり、無理しない方がよかったじゃん」
「君は? あんな姿勢で寝て、身体を痛めたりしなかった?」
「うん……。……ちょっと、首が痛いような気がする」
七時に朝食が届いた。僕はそれを食べる。もう何回ここで食事をとったのだろう、とふと思った。計算する気にはなれなかったが、大分ここでの生活に馴染んだ気がする。久し振りにリィルの手料理を食べたいと思った。そんなふうに食に対して積極的になるのは、僕にしては珍しいことだ。
八時にロトが僕たちの部屋にやって来て、軽く近況を伝えた。どうして僕たちにそんなことを伝えるのだろう、と多少疑問に思ったが、彼も不安を抱えているのかもしれない。サブリーダーという立場上、僕たちが今回の出来事を外部に漏らしたら、最終的に彼が責任をとらなくてはならなくなる。そんな責任は誰もとりたくないだろう。僕にロトとの約束を破るつもりはなかったが、そんな不安を抱えて生きる彼が惨めに思えた。
ヘブンズの記述言語の翻訳作業は中断して、与えられた仕事を今日もこなす。ちょっとした疲労を感じたが、指はまだまだ動きそうだった。しかし、手が使えなくなるとかなり不便になる。食事もとれなくなるし、風呂に入ったり、電話をかけたりと、基本的なことが何もできなくなる。人間は自らの多くを手に依存させているようだ。
あっという間に昼時になった。あっという間と感じるということは、今までそれなりに集中できていたことになる。自分ではそんなつもりはなかったが、リィルに尋ねてみると、僕は何度か彼女の声に応じなかったようだ。
「そうかなあ……」僕は言った。「君に話しかけられたら、絶対に気づくと思うけど……」
「もうね、凄い集中していたよ。なんか、そのまま、悟りを開いちゃうんじゃないかっていうくらい」
「それは凄い」
「適度に休憩した方がいいよ。単純に計算しても、作業が二倍になっているんだから」
「そうだね……」僕スプーンを動かす。今日のランチはグラタンだった。
「大丈夫?」
「平気だよ、たぶん」
「何かあったら、遠慮なく頼ってね」
「その前に、色々なツールに頼ると思う」
午後一時半になったタイミングで、昨日と同様にメッセージが送られてきた。
〉要求から四十八時間が経過した。残された時間は二十四時間となる。
〉ヘブンズの活動領域の拡大を急ぐように。
〉なお、私の居場所を特定しようとしているのなら、無駄な努力に終わる可能性が高い。
〉お互い最善の結果を得られることを願っている。
〉心しておくように。
統括者
僕はそれを読む。もう全然驚かなかった。当たり前のことしか書かれていないからだ。リィルも同様の反応だった。
「こいつさ、馬鹿なんじゃないの?」リィルは言った。「こんなふうに気取っちゃってさ、何様のつもり?」
「この施設のリーダーなんだよ。それなりの頭脳の持ち主なんだ。馬鹿にしてはいけない」
「どうせ、肩書だけなんじゃないの?」
そのとき、僕の上着のポケットで携帯端末が震えた。
僕は端末を取り出し、画面の表示を確認する。友人から電話がかかってきていた。画面をタップしてそれに応答する。
「どうかした?」僕は尋ねた。
「今、話しても大丈夫?」友人の声が聞こえる。「大事な話なんだ」
僕は端末を耳に当てたままリィルに目配せした。彼女は僅かに首を傾げる。
「どんな話?」
「見つけたんだ、君が言っていた人物を」彼は言った。「その施設のリーダーだろう? ハイリ・スルシという女性だ。ネットのニュースを回覧していたら、偶然見つけた。どうしてだと思う?」
「ニュース?」僕は訊き返す。「どういうこと?」
「彼女、死亡したんだ」彼は言った。「しかも、今朝の五時に」
僕は驚いて声が出なくなった。
「地方の路上で死亡しているのが見つかった。いや、路上じゃないな……。どこかの橋の上? まあ、いいや、そんなことは……。見つかったとき、彼女は腹部にナイフが刺さっていて、出血多量で意識不明の重体だった。その後、搬送先の病院で死亡。死因はそのナイフに間違いないけど、自殺か他殺かは分かっていない。まあ、普通に考えれば他殺だろうけど……。……聞いている?」
「それで? そのあと、どうなった?」
「別に、どうもなっていない。死亡が確認されて、それで終わり」
「彼女の所有物について、何か書かれていない?」僕は質問する。
「所有物? いや、そんなことは書かれていないけど……」
「本当に? 重要なものなんだ。その……、いや、詳しいことは言えないけど、とにかく、とても大事なものなんだ。持っていたら、絶対に目立つ。警察も気づくはずだ」
暫くの間彼は沈黙する。
「いや、そんなことはどこにも触れられていない。でも、あくまでネットのニュースだから、必要最低限のことしか載っていないよ。それに……。それは、貴重品なんだろう? 機密事項だと判断されたんじゃないの?」
「そうかもしれないけど……」
僕は黙る。
……ハイリが死亡した?
どうして?
誰かに殺されたのか?
なぜ?
いや、それなら……。
僕は彼に話しかけようとする。
しかし、そのとき、ドアの方から激しい音が聞こえた。
僕はそちらを振り返る。リィルも顔を向けた。
ドアが開かれている。
その向こう側。
誰かが立っている。
サラだった。
彼女は部屋に入ってくる。
そして、急停止。
手に持っていたものをこちらに向けて、彼女は僕とリィルの顔を交互に見つめた。
黒光りする鋼鉄。
彼女は、ピストルを握っている。
呆気に捕らわれて、僕もリィルも何も言えなかった。
「電話を切りなさい」サラが言った。「今すぐに」
僕は端末の電源を切る。電話の向こう側で彼の声が聞こえていたが、僕の操作で通話は終了した。
「動かないで」サラは僕たちを睨みつける。「両手を頭の後ろに掲げて、百八十度方向転換」
沈黙。
「言われた通りにしなさい」
僕とリィルは黙って指示に従う。後ろを向くとき、リィルと一瞬だけ目が合った。彼女の目には恐怖とも疑問ともとれない、微妙な色が浮かんでいた。
「今、誰と話していたかを説明して」
僕は溜息を吐く。
肩の力を抜いた。
不思議と、抵抗しようという気にはならなかった。
「友人と話していました」
「誰?」
「僕に、この仕事を紹介した者です」
「何を聞いた?」
僕はリィルに目配せする。彼女はまだ内容を知らない。
「とある人物が、今日の朝に死亡したというニュースです」僕は説明した。「その人物は、ハイリという名前の女性です。この施設のリーダーでした。腹部の損傷で出血多量になり、意識不明の状態で見つかって、死亡しました」
隣でリィルが息を呑むのが分かった。
当然、僕も驚いた。
しかし、今は……。
そんなことはどうでも良かった。
「ほかには?」
「それだけです」
「予言書はどうなった?」
「知りません。彼が教えてくれたのは、あくまで、ネット上に公開されている情報だけでした」
サラはゆっくりと僕たちの背後を歩く。
足音。
ほかには何も聞こえない。
僕の鼓動は?
僕の呼吸は?
心肺機能は正常に作動しているか?
分からない……。
心臓の音も、呼吸の音も、今は完全に聞こえなかった。
なぜ?
リィルは?
僕はそっと自分の隣を見る。
彼女の表情は落ち着いていた。
静かに目を閉じている。
伏せられた瞼を観て、長い睫毛だな、と僕は思った。
ああ、なんてくだらないことを考えるんだろう……。
まるで下等な動物。
こんな状況下でも、生物的な美に惹きつけられる愚鈍。
サラは歩くのをやめる。リィルの隣に立ち、彼女の頭にピストルの先端を突きつけた。接触を認識してリィルは目を開ける。彼女は終始無表情だった。まるで恐怖すら感じられなくなったように……。
「二人とも、知ってはいけないことを知ってしまった」サラは言った。「このまま帰すわけにはいかない」
僕は目だけで彼女の姿を確認する。
「命乞いをさせてもらえませんか?」
サラは引き金に指を当て、僕をじっと見つめた。
「できると思うの?」
「まあ、無理でしょうね」
「あなたたちを抹消し、私たちは事件そのものを隠蔽する」
「どうして、これから殺す人間にそんなことを言うんですか?」
「せめてのサービスのつもり」サラは表情を変えない。「ありがたいと思いなさい」
「それは、感謝しないといけませんね」
サラはピストルをリィルの頭から離し、今度はそれを僕に向けた。
「何ですか?」僕は尋ねる。
「黙れ」
彼女は僕の傍に近づこうとする。
次の瞬間、銃口が自分から離れたのを確認したリィルが、サラの首に思いきり腕を伸ばした。
サラは反応する。しかし、ワンテンポ遅れた。
二人は縺れ合う。
僕はリィルに加勢しようとしたが、サラがピストルを持っているため上手く動けない。
サラは引き金を引く。
一発。
弾はリィルのすぐ傍を通り、対面にあったソファを撃ち抜いた。
轟音で耳が聞こえなくなる。
無音。
リィルは一方の手でサラの首を締め、もう片方の手でピストルを握っている方の腕を掴もうとする。
サラの抵抗。
リィルは、彼女の腕を床に押しつけようとした。
しかし、相手が動くので上手くいかない。
銃口が何度も僕の方を向いた。怖かった。
二人はバランスを崩す。
靴が床を擦る音。
摩擦。
リィルは足を踏み外したが、スタビライザーが作動して、すぐに体勢を立て直した。
ステップを踏むように。
踊り子の真似をするように。
二人は素早く足の位置を入れ替える。
そして、リィルは、サラのピストルを取り上げた。
そのまま彼女を床に組み伏せる。
サラはまだ抵抗する。
まるで、何かの支配から逃れるように……。
リィルは首を締める力を強めた。
歯を食いしばる。
どれだけ力を込めても、これ以上サラに勝利の女神は微笑まない。
これで終わり。
確定事項。
やがて、サラは動かなくなった。
「誰か呼んできて!」リィルが大きな声で叫んだ。「早く!」
僕は部屋から出ていこうとしたが、その前にサラが気を失っているのに気づいた。
「離して」僕はリィルに言った。「サラが死んでしまう」
リィルはサラの様子を確認し、すぐに首に回していた腕を解いた。
サラは両腕を投げ出す。
床にへばり付くように力は分散される。
訪れる静寂。
聞こえるのは、リィルの荒い呼吸だけ。
彼女は僕を見る。
僕は頷いた。
「大丈夫だ」僕は言った。「よくやった。ナイスファイトだ、リィル」
「私……」彼女の声は震えている。
「何も問題はない。サラは生きている。気を失っただけだ」
「……駄目、だ。私、もう、何も、できない」
「……リィル?」
「ごめん……」リィルの表情は引き攣っている。「ごめん……、ね……」
僕はリィルの肩に触れようとする。
しかし……。
伸ばした手は届かなかった。
彼女に阻害されたからだ。
僕は、リィルに思いきり首を絞められ、その勢いのまま後ろに倒れる。
……リィル?
意識が薄れる直前に、僕は彼女の顔を見た。
笑っている。
笑っていた。
リィルは、楽しそうに笑っていた。
数秒後、彼女の瞳は赤く輝き、僕の目には涙が浮かんだ。
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