The Signature of Our Dictator

羽上帆樽

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第7章 すぐに再開

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 届けられた夕飯を食べながら、僕は今後どうしたら良いのかを考えた。ロトからは何の連絡もない。もっとも、僕たち以外の所員は今後の方針をもう知っているのかもしれない。今回の事件に関する詳細を教えてもらうのと引き換えに、僕たちはその一切を他言しないと約束したが、そんなスタイルが僕は本当は好きではなかった。だから、これ以上ロトに情報を提供するように働きかけるつもりはない。ただ、相手も他言されては困るだろうから、僕たちに嘘を吐こうという気にはならないだろう。不安や心配は人間をいとも容易く支配するものだ。

 夕飯を食べ終えてから、僕は再びヘブンズとの会話を試みた。ヘブンズは僕の大抵の質問には答えてくれたが、他人のプライバシーに関する内容には答えなかった。セキュリティーの観点から当然といえる。ただ、僕には、ヘブンズの人工知性のレベルが低いように思えてならなかった。これだけハイテクな施設で運用されているにしては、質問に対する答え方がいまいち適切でないように感じる。きちんと思考してはいると思うが、なんというのか、参照するデータが不足しているように思えた。

 ヘブンズとの会話が一通り終了してから、僕はリィルと部屋の外に出た。ここ数日間室内にずっと篭りっぱなしだったから、久し振りに外の空気を吸いたくなったのだ。すぐ傍に海があるのだから、ありがたい環境を有効に使わせてもらおうと思った。

 ロビーに出たが、相変わらず人はいなかった。右を向いて、ロトの部屋のドアを見る。その向こうでロトはまだ仕事をしているに違いない。厄介な役割を担ってしまったものだ、と僕は無責任ながらも彼が可哀相に思えた。誰も、好き好んでそんな役割を担いたいとは思わない。

 外は暗かった。しかし、今夜もドームは灯台としてしっかり機能している。

 今日は砂浜には下りないで、丘の上から海を眺めることにした。

 ドームの裏にベンチが一台だけ置かれている。

 僕たちはそこに並んで腰をかけた。

「久し振りだね、こういう感じ」リィルが言った。

「外の空気が?」

「いや、こうやって並んでベンチに座るの」

 ベンチという単語から、僕は彼女と初めて出会った日のことを思い出した。

「君は、もう、いいの?」

「何が?」

「さっきまで、あんなに好奇心旺盛だったじゃないか。もう興味は尽きてしまった?」

「うーん、どうだろう……」リィルは答える。「なんだか、面倒臭くなってきちゃった……」

「それは、もしかすると、危機感を覚えたからかもしれない」

「危機感?」

「そう……。……実は、僕にもその感覚がある」

「この出来事に対して?」

「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」僕は話す。「なんか、この出来事に対してだけではないんだ。この施設に来て、仕事をすることになったけど、それから、何か、少しずつずれていったような感じがするんだ……。君は初めからそんなことを言っていただろう? それが、僕にも段々分かってきた。このまま進んだら危ないような気がする」

 リィルは小さく頷いた。

 波の音が聞こえる。海は真っ黒だった。空よりも黒いかもしれない。船の汽笛でも聞こえてきたらロマンチックだと思うが、今は自然音しか聞こえなかった。人工的な気配は灯台の光しかない。

「もう、帰る?」リィルが訊いてきた。

「家に?」

「そう……」

「仕事は、最後までするつもりだよ」僕は言った。「でも……。……うん、どうするのが正解なのか分からない」

「何が、私たちにこんなふうに感じさせるんだろう?」

「さあ……」

「私はね、もう、帰りたい」

「それは僕も同じだよ」僕は賛同する。「気持ちとしては帰りたいけど、論理的に考えると、まだ帰らない方がいい、という結論に至る」

「じゃあ、帰ろうよ」

「黙って?」

「そう」

「それは、できない」

 沈黙。

 前を向いたまま、リィルは僕の掌を握った。

 僕も彼女の手を握り返す。

 静かだった。

 いったい、僕たちは何を迷っているのだろう?

 いったい、僕たちは何を悩んでいるのだろう?

 何をそんなに迷う必要があるのか?

 何をそんなに悩む必要があるのか?

 だけど……。

 それでも、今は彼らと関わらなくてはならない、という気がするのは確かだ。

 そう……。

 それしかない。

 そう決められている。

 どうしても、そんな予感がする。

「うん、やっぱり、もう一度考えてみよう」やがて、僕は再び口を開いた。「ここで退散するのも間違った判断ではないけど、でも、それは、今じゃなくても良い気がする。必ず、この施設には何かある。このタイミングで僕たちが呼び出されたことも、きっと偶然なんかじゃない。きちんとした理由があるはずだ。僕はそれを突き止めたい」

 僕はリィルを見る。

 彼女は少しだけ笑った。

 困ったような顔だった。

「私も、そう思うよ」彼女は頷く。「でもね、本当に大丈夫かな、という迷いがある」

「大丈夫じゃなくなったら、どうする?」

「どうするって?」

「僕がそんな目に遭ったら、君はどうする?」

「分からない。……逃げ出すかもしれない」

「適切な判断だね」

「でも……。とりあえず、私は、君の指示に従う」

「指示なんて、そんな大層なものじゃないさ。……分かった。とりあえず、今はその方向で進むことにしよう」

 リィルはゆっくり頷いた。

 ベンチから立ち上がって、僕たちはドームの中に戻る。

 階段を下りて廊下を進んだ。

 自分たちの部屋に戻ってくる。

「ちょっと、危ないことをしよう」ドアを開けるなり僕は言った。「君にも協力してほしい」

「何を?」

 僕はソファに腰かけ、自分のデバイスを起動させる。スリープモードにしてあったから、機器はすぐに立ち上がった。

「ヘブンズを解析する」

 僕はディスプレイを見ながら話す。

「……どういうこと?」

「気になることがあるんだ。それを解明するには、それしか方法がない。君にやってもらいたいと思う」

「どうして、私じゃないと駄目なの?」

「すぐに分かる」

 数秒の間があったが、リィルは落ち着いた声で答えた。

「分かった」

 僕は頷く。

 デバイスをクラウドに接続し、先ほどと同じ手順でヘブンズにログインする。ただし、ヘブンズが完全に起動する前に操作を一時的にストップした。そこでデバイスをリィルに手渡す。

「君のウッドクロックを使うんだ」僕は説明した。「ヘブンズに侵入して、記述言語を解析したい。誰にも気づかれないように、プロテクトを張る必要もある。……できそう?」

「できるとは思うけど……。……そんなに危険なことをしないと駄目なの?」

「駄目だ」

 リィルは心配そうな顔をする。

「いや、別に見つかってもいいんだ。見つかったらそれまでだから。策は考えてある。僕たちは報酬を受け取らないで、この施設から立ち去る。もちろん、仕事の成果は彼らに提供する。それでも満足してくれないなら、仕方がないから、こちらから金銭を与えるしかない」

「……それでいいの?」

「いいよ」

 僕を見たまま、リィルは静かに頷いた。

「……分かった」

 リィルの胸の中心部が青く光り、そこから空中に円い立体映像が投影される。今は衣服を着ているから見えないが、その下には硝子の窓が嵌った木製の時計が存在する。これがウッドクロックと呼ばれる機構で、彼女の生命線に当たる。これが機能しなくなれば、彼女はすべての身体制御を失うことになる。

「私のウッドクロックで、ヘブンズのセキュリティゲートを突破できる?」

「たぶん、できると思う」

「プロテクトは、長くても、一日しかもたないよ」

「分かった。なるべく、痕跡を残さないようにしよう。気づかれるまでの時間を稼ぐんだ」

「了解」

 本当なら、こんなことは了解したくないだろう、と僕は思った。逆の立場だったら、僕は絶対に引き受けない。僕にはその程度の度胸しかないのだ。それに比べて、リィルはなかなか勇敢だ。普通に生活していてもそう感じることが多い。

 やはり、僕は彼女に支えてもらわないと駄目らしい。

 なんて脆弱な精神。

 彼女が投影する立体映像が光を増す。リィルがヘブンズへの侵入を図るとともに、デバイスの画面が突然真っ黒になった。やがてそこに白色の文字列が表示される。それは現在の状況を知らせるもので、見てみると、セキュリティーゲートを突破しようとしているところだった。

「大丈夫そう?」

「うん、たぶん」

 ヘブンズのセキュリティーが機能を失う。

 先に進めるようになった。

 しかし、次の瞬間、リィルは目を丸くした。

「え? これって……」彼女はディスプレイを見たまま呟く。「……ベーシック」

「やっぱりね」僕は頷いた。

「そんな……。……どうして?」

「そのまま解析を進めよう。ベーシックで書かれている内容は、僕があとで確認する。君は解析だけしてくれればいい」

 リィルは頷く。

 ベーシックというのは、人間を記述するための言語だ。つまり、ベーシックで記述されているから、人間は人間として存在できる。そして、ベーシックは僕たちウッドクロックを記述する際にも使われている。ウッドクロックは人間をモデルに作られているからだ。

 そして……。

 ヘブンズも、同様にベーシックで記述されていることが分かった。それは、彼が人間と同様の思考回路を持っていることを示す。

 それだけではない。

 きっと、リィルももう気づいているだろう。

 もちろん、僕も気づいている。

 けれど、お互いに、それは口にしなかった。

 なぜか?

 言葉にするのは簡単なはずなのに……。

 そう……。言葉とは、本来そういうものだ。対象を示す単なる記号ではない。それは、対象と同等の力を持っている。文学作品から人の思いを汲み取るのと同じだ。言葉には魔力がある。

 だから、僕も、そしてリィルも、それを口にしようとしなかった。

 現実から目を背けたのだ。

 少なくとも、今だけは……。

「解析が終わったら、それをすべて記憶してほしい」僕は彼女に指示する。「長期保存する必要はないけど、その分的確に記憶してね」

「うん……。……でも、できるかな」

「できないと困る」

 デバイスの画面には、黒い背景に白い文字がずっと流れている。もの凄いスピードだった。そして、もの凄い量がある。けれど、これも僕たちの数分の一でしかないはずだ。実際に会話をしてみて分かったが、ヘブンズは人間と思考の仕方が異なる。どのように異なるのか、具体的に説明するのは難しいが、一言でいえば、論理展開の順番が違っている。

「どれくらいで終わりそう?」

「えっと、どうかな……。……上手くいけば、だいたい三時間くらいだと思うけど」

「よし、じゃあ、僕は風呂に入ってこよう」僕は立ち上がる。

「え、いや、ちょっと、待ってよ」顔を上げてリィルは訴えた。「誰か来たらどうするの?」

「ドアに鍵をかけておけばいい」

「そういう問題じゃないって。困るよ、そんなの。私一人じゃ何もできないんだから」

「何が?」

「いや、だって……」

「誰も来ないよ」僕は話す。「今まで、この時間帯に誰か来たことなんてないだろう?」

「そうだけど……」

「誰か来たら、寝室に隠れればいいよ。僕は浴室にいるから、すぐにドアの鍵を開けて対応できる」

 リィルは何やら呟いている。彼女に次の一手をとられる前に、僕は一人で浴室に向かった。

 服を脱いで風呂に入る。衣服は毎日洗濯しているが、もう以前着たのと同じものが被るようになっていた。もともとファッションに気を遣う方ではないが、またこれを着るのか、と思わないわけではない。思ってもどうにもならないが……。

 湯に浸かりながら僕は考える。

 ヘブンズがベーシックで記述されていることは、だいたい予想がついていた。それは、僕の発想力や想像力が優れていたからではない。一定の手順を踏めば、誰が考えても同じ答えに辿り着く。つまり、単純な推論を行ったにすぎない。リィルは気づかなかったみたいだが、それは、おそらく、彼女が最悪の可能性を無意識の内に排除していたからだろう。推論を行う際には、すべての可能性に目を向ける必要がある。そうでないと、大事な可能性を見落とす結果に繋がる。

 さて、そうなると、次は、ヘブンズがベーシックで記述されていることが、どのようにほかの出来事と繋がってくるかだが……。

 それについても、ある程度の結論は出ていた。

 けれど、まだ材料が足りない。確信できるだけの根拠がない。

 それをどうするか……。

 それ以上何も思いつかなかったから、僕は考えるのをやめて、衣服を入れる籠から携帯端末を取ってきた。それで適当にニュースを見る。専門分野に関する新しい情報がいくつか見つかったが、どれも僕の興味を引くものではなかった。

 なんとなく友人に電話をかけてみようと思って、僕は番号をプッシュした。

 五回目のコールのあと、相手が応答する気配があった。

「はい?」彼の声が聞こえる。

「あ、僕だけど」

「番号を見れば分かる」彼は言った。「そのあと、どうなった? 何か面白いことはあった?」

「あった」

「どんな?」

「説明するのが面倒」僕は答える。「それよりも、ちょっと調べてほしいことがあるんだ。ハイリという人物に関する情報を集めてくれないかな」

「誰?」

「この施設のリーダー」

「へえ……。その人がどうかしたの?」友人は笑っている。もっとも、彼はいつも笑っている。

「詳しいことは教えられないけど、その人物に関する情報が、今、必要なんだ」

「なるほど。大分苦戦しているようだ」

「半分は君のせいだけどね」

「酷いなあ、まったく」彼は言った。「まあ、いいよ。気が向いたら調べておこう」

「気が向かなくても頼む」

「うん、できれば」

「じゃあ、よろしく……」

 電話を切る。

 身体と頭を洗い、パジャマに着替えて浴室を出た。リビングに戻ると、リィルはまだ作業を続けていた。

「誰か来た?」僕は尋ねる。

「誰も」

 僕はソファに腰をかける。そのままリィルの様子を観察した。様子といっても、彼女はデバイスとにらめっこをしているだけだ。何もしなくても記憶できるのだから、僕としては羨ましい限りだ。

 僕が見つめているのに気づいて、リィルはこちらに顔を向けた。

「……何?」

「いや、何も」

「これ、あとで全部翻訳するの?」

「うん、まあ」僕は答える。「じゃないと、何が書かれているのか分からないから。君は分かるの?」

「うーん、あまり……」

「じゃあ、そうするしかないね」

 その後もリィルはヘブンズの解析を続け、彼女が予想した通り、およそ三時間後にはすべての作業が完了した。今度はそれをテキストとして保存し、僕が一つ一つ翻訳していくことになる。しかし、僕はベーシックは読めないので、その前にリィルに標準的なプログラミング言語に翻訳してもらった。この作業は数秒ほどで終わった。普通ならそんな簡単にはできない。ウッドクロックはベーシックで記述されているから、彼女の機能を使えば、それを標準的なプログラミング言語にすぐに置換できる。

「でも、どうして、もう一度翻訳し直す必要があるの?」

 デバイスのキーを叩いている隣で、リィルが質問した。

「ここに、たぶん、何かあるから」僕は答える。「それ以外にありえない」

「何かって、何?」

「メッセージみたいなもの」

 リィルは顔を逸らす。

「……今日中には終わらないよね」

 僕は自分の腕時計を見る。もう日付けが変わっていた。

「今日、というのがいつを指しているのか分からないけど、君みたいにすぐにはいかないよ」

「もう、寝ようかな」

「疲れた?」

「うん……」

 僕は顔を上げてリィルを見る。彼女の瞼は半分ほど閉じかけていた。無理もない。あれほどの処理を長時間行っていたのだ。

「少しだけ試してみて、上手くいきそうなのが分かったら、僕も寝るよ」

「私、お風呂に入るの忘れてた……」リィルは目を擦る。「どうしよう……。もう、今日はいいかな……」

「溺れられても困るから、今日はもう入らない方がいい。明日起きてから入ればいいさ」

「うん……。じゃあ、そういうことで……」

 覚束ない足取りで、彼女は寝室に入っていった。

 僕は作業を続ける。

 当然、簡単に終わるとは考えていなかった。かなりの量があるし、明日になれば明日の仕事があるわけだから、それらの作業を並行して行わなければならなくなる。僕にそんな体力があるのか疑わしいが、しかし、やらないわけにはいかない。リィルが築いてくれたプロテクトも長くはもたない。ロトがどのような決断を下したのか分からないが、少なくとも、三日すれば事態が動くのは間違いない。できるなら、それまでこちらも粘りたいものだが……。

 しかし……。

 この施設には、ロト以外にも何人もの所員がいるのだから、その内の誰かに見つかる可能性も充分に考えられる。ロトはサブリーダーという立場に就いているが、それは、彼がこの分野で秀でた才能を発揮したからではないだろう。もちろん、そういう理由もあるだろうが、それ以外の才能がないと彼のポストは獲得できない。

 そして、僕はこの施設のリーダーついて考えた。ハイリという名の女性だが、彼女が今どこにいるのかは不明だ。予言書と呼ばれる書物を持ったまま逃走している。

 不明瞭なことが多すぎる。

 とにかく情報が足りない。ロトに教えてもらったものだけでは……。

 気がつくと、僕の手は止まっていた。無意識の内に作業が終了していたようだ。自分で決めた範囲は無事に翻訳できており、これなら問題なく続けられるだろうと僕は思った。

 僕も今日は寝ることにする。

 寝室に入ると、リィルの微かな寝息が聞こえた。相当疲れていたようだ。

 自分のベッドに入る。

 布団をかけて天井を見上げた。

 今日起きた様々なことが脳を駆け巡る。

「……ねえ、リィル」

 返事がないのは承知だったが、僕は寝ている彼女に声をかけた。

 しかし、リィルはゆっくりとこちらを振り向く。

「……何?」

「あれ、起きていたの?」

「君の呼びかけを聞いて、起きた」彼女は笑っている。

「それは悪いことをした。ごめん」

「いいよ。で、何?」

「いや、何でもないんだ。何も話すことがないのに、君に話しかけてしまった」

「そういうことって、よくあるものだよ」

「眠いんだろう? 寝ていいよ。応えてくれてありがとう」

「うん……。……でも、何か話したいことがあるんじゃないの?」

「今はない」

「本当に?」

「本当に」

 沈黙。

「……分かった。じゃあ、おやすみ」

「おやすみ」

 暫くすると、再びリィルは寝息を立て始めた。

 僕はあまり眠れそうになかった。身体は疲れているのに、脳の多くがまだ活発に動いている。質の高い眠りは期待できそうにない。

 寝返りを打つ。

 反対側を向いたところで、もう一度リィルと目が合った。

 二人で黙って見つめ合う。

「何?」僕は尋ねた。

 彼女は答えない。

 その瞳が、僅かに青く輝いたような気がした。

 僕は嫌な気分に襲われる。

「……大丈夫?」

 僕の変化に気づいて、リィルはこちらに手を伸ばす。

「大丈夫だよ。少し頭が痛かっただけだから」僕は誤魔化した。「早く寝た方がいい」

「うん」

「明日も仕事だよ。睡眠時間が短いと、色々と支障が出てくる」

「君が眠ったら、私も眠るよ」

 しかし、その三秒後に、リィルは完全に意識を失った。





 目が覚めてから、いつも通り作業を行った。翻訳するテキストはサラから随時送られてくる。クラウドに接続できない処置は限定的に解除されたが、もうその状態を維持する意味はなさそうだった。

 正午前にロトに呼び出されて、僕とリィルは彼の部屋に向かった。そこで、ロトは、ヘブンズの活動領域を拡大する作業を始めたこと、またリーダーの捜索を引き続き行うことを僕たちに伝えた。別に何も驚くことではなかった。普通に考えたらそうする以外にはない。

 ただし、僕とリィルはヘブンズの特殊性を知っている。活動領域が拡大されるとなれば、何らかの不利益を被る可能性は高い。それがどの程度のものかは分からない。現段階では、そうすることで齎される利益や不利益について、確かなことは何もいえない。だから、ロトもそのような決断をしたのだろう。未知の不利益について考えるよりも、予言書の返還という確実な利益を優先したということだ。

 部屋に戻って昼食をとりながら、僕はリィルと話した。

「とりあえず、まずはヘブンズの記述言語の翻訳を終わらせないとね」僕は言った。「それを読めば必ず何か分かるはずだ」

「必ず、と断定できる根拠は?」

「さあ……。それは僕にも分からない。でも、君も同じように感じているんだろう?」

 リィルは否定しなかった。黙ったまま視線を下に向ける。

「……でも、それって……」

 そう言ったものの、彼女はその先の言葉を続けようとしない。

「そう」僕は応えた。「それしかない」

「でも」リィルは顔を上げる。

「何?」

「でも……」

 料理を食べ終えて、僕は箸をトレイに戻す。今日のランチはエビフライ定食だった。

「とりあえず、やれるだけやってみよう」彼女が何も話さないから、僕は言った。「それしかない」

 数秒遅れて、リィルは小さく頷いた。

 午後二時を迎える前に、新着のメッセージが届けられた。テーブルにスクリーンが投影される。送り主は昨日と同じだった。


〉要求から二十四時間が経過した。残された時間は四十八時間となる。


〉ヘブンズの活動領域の拡大を急ぐように。


〉要求を受け入れないと判断した場合は、事前にこちらに伝えてもらって構わない。


〉その場合、私の手もとにあるテキストは直ちに破棄する。


〉心するように。



統括者

 僕とリィルはそのメッセージを読んだ。

「これって、逆探知とかできないのかな?」リィルが言った。

「できないと思うよ。できるなら、ロトがとっくにやっているさ」

 しかし、僕がそう言うと、リィルは自分のウッドクロックを活性化させた。

「私がやってみる」

 彼女は、数分間テーブルに搭載された端末と格闘していたが、結局メッセージの送信もとを突き止めることはできなかった。まあ、当たり前といえば当たり前だ。そんな脆弱な手段で自分勝手な要求をする人間はいない。

 そんなことをしても時間を無駄にするだけだから、僕はいつも通り与えられた仕事をこなした。翻訳は随分と速くできるようになった。長い間ずっと同じことを繰り返していたから、脳の構造もそれに合わせて変化したのかもしれない。

 途中でサラが一度顔を見せたが、何も言葉を発さずに立ち去った。

 彼女には、少し不思議なところがある。

 まるで自分の意思とは無関係に行動しているようだ。

 僕にはそう見えた。

 リィルにその点について意見を求めてみたところ、お節介な指摘を受ける羽目になった。

「まあ、君よりはましだと思うけど」

 そう言って、彼女はにっこりと笑った。
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