No.5 トウトリノス

羽上帆樽

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 魔法の原理が分かったとしても、なぜ彼が魔法を使うことができるのかは分からない。たとえば、僕は魔法を使うことができない。原理を知っていることと、実際にそれが使えることは別だ。

 もう一度隣を見たとき、もうそこに魔法使いはいなかった。影も形もない。現実世界に影はある。仮想空間にはなかった。影は、物体と運動のどちらだろう。光が運動だから、影も運動だろうか。そうすると、仮想空間に影がなかったのはなぜだろう。それだけではない。仮想空間には太陽もなかった。それは、おそらく光だけが存在していたからではないか。

 カロがこちらに向かって駆けてくる。

 その場に立ち止まって、肩を上下させながら僕を見下ろす。

「満足した?」僕は尋ねた。

 カロは動作だけは静かに頷く。

「じゃあ、帰ろう」

「さっきまでいた人は?」

「どこかに行ってしまった」

「君のお姉さんと同じ?」

「さあ、どうだろう」

 僕はベンチから立ち上がり、軽く腰を叩く。

 彼女と一緒に再び歩き始める。

 空は、曇ったり、晴れたりの繰り返しだった。雲が太陽の前を行き来している。その度に温度が上がったり下がったりして、微妙な体感だった。こういう天気も悪くないとは思う。変化は大いに歓迎すべきことだが、変化しすぎると少し困る。

 僕も、たぶん急には変われない。お姉ちゃんが死んでしまったり、カロが現れたりしても、僕自身が大きく変わったという感覚はなかった。けれど、なんだろう、身体の内側に、今はなんとなく温かいものがあるような気がする。以前の僕にはそれがなかった。これが成長した証だろうか。

 家に到着して、ドアに鍵を差し込む。

 しかし、把手を捻っても開かなかった。

 おかしいと思って、手もとを見る。

 差し込んだ鍵が違っていた。

 金色に光る大きな鍵が差し込まれている。

 こちら側に開くはずのドアが、唐突に向こう側に開いて、僕の身体はそちらに倒れ込んだ。まずいと思ったときには、もうバランスを崩している。少し慌てたカロの気配を背後に感じたが、振り返る前にドアは閉まった。

 僕は、いつの間にか閉じていた目を開ける。

 玄関の中。

 背後にあるドアの隙間から、橙色の陽光が差し込んで、僕の足もとを照らしている。

 ひぐらしの鳴き声が聞こえた。

 キッチンの方から、包丁を叩く音、鍋が煮える音、そして、微かに鼻歌が聞こえる。

 リビングのドアが開いて、お姉ちゃんが半身を覗かせた。

「あ、おかえり」エプロンを着けた格好で、彼女は言った。「今日、お父さんとお母さん、遅いんだって」

「うん」僕は頷く。

 沈黙。

「何してるの? 早く入りなよ」

「うん」僕はもう一度頷く。

 靴を脱ぎ、洗面所に入って手を洗う。鏡の向こう側に、茫洋とした自分の姿が見えた。髪が伸び、目もとにかかりかけている。だらしがないと自分でも思う。鏡のすぐ下にある台の上に、コップが四つ並んでいた。そのすべてに歯ブラシが一本ずつ立てかけられている。

 上着を脱いで、セーター一枚になる。正面のドアを開けて、リビングの中に入った。

 右手にキッチン。お姉ちゃんはガスコンロの前に立ち、片手にお玉を持って鍋を掻き回している。

「おかえり」彼女はもう一度言った。「コンロの電池、変えておいてくれてありがとう」

 僕は彼女を直視したまま、分かりやすいように大きく頷く。

 匂いから、彼女が作っているのがシチューだと分かった。ホワイトシチューだ。流し台の傍に、魚が入っていたらしい白いトレイが重ねられている。微妙に剥がされたフィルムの表示から、もともと鮭が入っていたと分かった。そうだ。前に一度、鮭の入ったシチューが好きだと彼女に言ったことがある気がする。特別好きではないが、一つ挙げるとしたらそれだと言ったような気がした。

「もう少しだから、待ってて」お姉ちゃんが言った。

「お姉ちゃん、料理できたっけ?」僕は質問する。

「できないけど」彼女は鼻から息を漏らす。「やってみたかったのです。任せなさい」

 僕はリビングの方へ歩いていく。軽く畳んでから上着をソファの上に置き、自分もその隣に座った。照明はキッチンの方だけ灯っているから、この辺りは暗い。それを察したのか、お姉ちゃんがスイッチを入れて、こちらの照明も灯した。

 左手に硝子扉がある。夏だから、隙間が空いたままになっていた。夏なのにシチューを作っているのか、と僕は思った。そう思うだけで、良いとも悪いとも思わない。お姉ちゃんが作ってくれるのだから、嬉しい、と追加で思慕。

 硝子の向こう側に人影が見える。

 カロがこちらを覗いていた。

 開かれた翼が、休息するように小さく動いている。

 僕は彼女を見つめた。

 口を開きかけた。

 そのとき、お待たせと言って、お姉ちゃんがこちらにやって来る。声を出す前に僕は彼女の方を見た。ホワイトシチューが入った皿を運んできて、彼女はそれをテーブルの上に置いた。それから、別の器にご飯をよそって持ってくる。サラダやスープの類はなかった。シチューを作るだけで精一杯だったのかもしれない。

 僕はソファから降りて、テーブルの席に着く。スプーンが用意されていなかったから、一度立ち上がり、キッチンに行って二人分を持ってきた。

 スプーンで掬って、お姉ちゃんの作ったシチューを食べる。

「どう? 美味しい?」お姉ちゃんは尋ねた。

 どう、ときいたあとに、美味しいか、ときくのであれば、最初の、どう、は何をきいているのかと僕は考える。それはともかく、シチューは一言では形容しがたい味だった。液体の粘度は平均よりも小さくて水っぽいし、ニンジンもジャガイモも火が完全には通りきっていない。鮭も少々生っぽい感じがした。けれど、別に不味いわけでもない。僕は味覚音痴だから、お姉ちゃんの料理が下手なのか、僕の味覚がおかしいのか、そのどちらの割合が大きいのか、すぐには判断できなかった。

「うん、まあ」僕は答える。「食べられる」

「いまいちってことか」そう言って、お姉ちゃんは自分でもシチューを口に運ぶ。「たしかに、美味しくはないな」

 客観に寄せた意見だったから、僕は思わず笑ってしまった。お姉ちゃんらしい発言だと思う。それをお姉ちゃんらしいと判定できる自分に、少しだけ驚いた。何を根拠にそう考えるのだろう。少なくとも、これは客観的な判定ではない。

 スプーンが食器に接触する音が響く。硝子扉の向こうから、涼しい風が室内に入り込んでくる。

 暫く無言でシチューを食べた。

「最近、どう?」お姉ちゃんが口を開く。

「どうって?」

「楽しい?」

「何が?」

「色々」

 色々と言われても分からない。自分の周囲では、色々なことが起きたように思えたし、かといって、周囲で起こるすべてのことに興味があるわけでもないから、全然色々ではないようにも思える。

「分からない」僕は素直に答えることにする。「お姉ちゃんは、どうなの?」

「うーん」彼女はスプーンを咥えたまま考える素振りをする。「楽しいって、何だろうね」

「何だろうねって……。自分の方からきいてきたんじゃないか」

「楽しいって、物体かな? 運動かな?」

 僕は、スプーンを口に運びかけていた手を止めた。開きかけていた口を閉じ、顔を上げて彼女の方を見る。

 お姉ちゃんは、じっと僕を見つめていた。

 茶色い目。

 赤い目でも、青い目でもないことに、僕はそのとき気がついた。

「魔法使いは、誰だと思う?」お姉ちゃんの口が動く。

「え?」

「本当に魔法を使えるのは、誰だろう?」

 僕は答えられない。スプーンを完全に皿に戻してしまった。

「形は違えど、私は、いつだって、君の傍にいるよ」お姉ちゃんは言った。「私という物体も、私という運動も、もう、どこにもないけど、姿を変えて、君の傍にいるよ」

 それはもう分かっていた。しかし、なぜ分かっているのだろう? たぶん、それは、魔法使いに聞いたからではない。もっと説得力のある感覚として、僕はそのことを分かっていた。

「魔法は、誰にだって見えるものじゃないよ。魔法を使うのにも、魔法を受けるのにも、それができるだけの条件が揃っていなければいけない。君は、魔法を受けることができる。魔法を見ることができる。魔法を見せられているんじゃない。君が魔法を見ているんだよ」

 僕たちの前に、もう、シチューはなかった。テーブルも、部屋もない。どこにいるのか分からなかった。

 いる?

 空間は、物体だろうか? 運動だろうか?

「私には、物体か、運動か、どちらかに振り切ることしかできなかったけど……。君になら、もっと別の方法がとれると思う。魔法は、魔法なのだから……」

「魔法は魔法という言い方も、魔法だ」僕は言った。

 僕の言葉を聞いて、お姉ちゃんは笑ってくれた。

「ほら、向こう」そう言って、彼女は僕の背後を指さす。「あの子が待ってる」

 後ろを振り返ると、玄関のドアが中空に浮いていた。その向こう側に人影が見える。

 確認するまでもなく、カロだと分かった。

「私は、もうどこにもいないけど、それは、どこにでもいるのと同じ」

 お姉ちゃんは、僕の身体を軽く押す。僕はドアの方へ流されていった。

 お姉ちゃんの姿がどんどん小さくなっていく。

「あの子は、あの子だよ。でも、もしかしたら、少しは私かもしれない」

 背後でドアが開き、僕の身体はその先へと飛び出す。

 後ろから腕が伸びてきて、僕の身体を包み込んだ。

 カロの浮力に支えられて、僕はゆっくりと宙を進む。

 前方で、ドアが閉まるのが見えた。
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