No.5 トウトリノス

羽上帆樽

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 スコップをアスファルトに打ちつけても、掘れるはずはないと思ったが、不思議なことに、アスファルトが融解して、スコップはすんなりとその中に入っていった。掘られたアスファルトはすぐに固化する。これも魔法の仕業らしい。

 魔法使いは地面を掘り続けたが、その中には何も見つからなかった。幾分目立つ穴が形成されただけだ。アスファルトに特有な鼻をつく匂いも発生した。

「何もありませんね」僕は事実を述べた。皮肉ではない。

「うん、そうだね」魔法使いは頷く。「しかし、見えないだけかもしれない」

 一瞬戸惑ったが、彼が何を言っているのかすぐに分かった。要するに、隠されているものは、物体ではなく、運動だと言いたいのだろう。隠されている「もの」と言っているのに、それが運動だというのは、随分と奇妙な「もの」だ。

 穴は言うほど大きくはないから、人が一人入ることもできない。もっと掘り進めても、きっと何も出てこないだろうと僕は予想した。ポールが落下してきたときの様を覚えていたからだ。

 あのとき、ポールは、どうして落下してきたのだろう?

「それは、もちろん、私がそうするように仕向けたからだ」魔法使いが言った。

「僕の思考が読めるんですか?」

「魔法が使えるからね」彼は立ち上がる。視線は穴の先に固定されたままだった。「私が座標を送った。しかし、穴が空くほど大きな力で衝突した理由は分からないな」

「分からないんですか?」

「そう」

 会話になっていないと僕は感じる。いつものことだから別に気にならない。カロともこういうことは起こる。それなのに、なんとなく、伝わったという感覚がするのだ。これも、会話というのが、交換されたデータ、つまり物体の側面ではなく、データの交換という運動の側面にそれなりの比重があるからだろうか。

 隣にも、後ろにも、カロの姿が見えなかった。

 正面に顔を戻すと、いつの間にか、カロは穴の傍にしゃがみ込んで、その先を見つめていた。

「カロ?」僕は声をかける。

「何?」彼女は下を向いたまま応じる。

「どうかしたの?」

「うん」彼女は頷く。「私、分かったかもしれない」

「何が?」

「植物について、学ぼうと思う」カロは顔を上げて言った。

「え?」

「いや、違うな」そう言って、彼女は首を振る。「学ぶことは、まだ沢山あるけど、その学んだことを用いて、何かを作りたいと思う」

 彼女が何を言っているのか分からなくて、僕は首を傾げる。

「なるほど。この穴も、君のお姉さんの一部なんだ」魔法使いが言った。「ここに、何かが入るようにできていた」

「どういう意味ですか?」僕は尋ねる。

「つまり、ここに、君のお姉さんの知識が入っていた、ということ」彼は話す。「うーん、知識というのは違うかもしれない。そう言ってしまうと、物体か、運動か、よく分からないからね。ただ、たとえば、私と、君と、カロを合計しても、君のお姉さんとしては、充分ではないだろう? あの仮想空間が崩壊して、君のお姉さんの一部は現実世界に分散されたが、それ以外の多くは、初めからここに残されていたんだ。今までは、閉じられた状態だった。しかし、蓋を開くことで、カロがそれを享受した」

「貴方がここに蓋をしたのは、仮想空間が崩壊する前では?」

「そうそう。つまり、そのときには、すでに君のお姉さんは仮想空間に充分にはいなかった、ということになるね」

 では、僕が仮想空間で会ったのは、一体誰だったのだろう?

 あれはお姉ちゃんではなかったのか?

 僕の傍に魔法使いとカロが立っている。地に足をついて立っていた。しかし、彼らは本当にそこに存在するだろうか? 自分の掌を見た。視線がその先へ突き抜けて、自分の足が地についている様が見える。顔を上げて、周囲に視線を向ける。建ち並ぶ家々、電柱、木々……。それらは本当にそこに存在するだろうか?

「どうしたの?」

 と、カロの口が動く。確かにそう動いたように見えた。しかし、その運動は本物だろうか? その音は本物だろうか? その意味は本物だろうか?

 何を信じたら良い?

 そうか……。最後には、自分が見たもの、聞いたもの……、自分が感じたものを信じる以外にはないのだ。

 仮想空間で会ったのも、玄関の先で会ったのも、お姉ちゃんだったのか、お姉ちゃんではなかったのか、分からない。

 そうだ。

 僕は魔法使いだ。

 自分が見たい世界を魔法で生み出しているにすぎないかもしれない。

 何を信じたら良いだろう? 信じるべきものは、どのように決めたら良いだろう? 信じるべきものは、意図的に決めるものだろうか? 信じられると直感するから、信じるのだろうか? 僕は、どうしてお姉ちゃんを信じていたのだろう? 僕は、どうしてカロを信じているのだろう?

「私は、もう帰るよ」魔法使いが言った。「そうそう。そろそろ、この街を出ていこうと思う。色々と世話になった、というよりは、私が世話をした割合の方が大きいかな」

「どこに行くんですか?」僕は質問する。

「さあね。どこへでも」そう言って彼は小さくウインクする。あまり似合っていなかった。「どこにいたって、大して変わらないだろう。空気を介して繋がっているんだ」

 さて、と言って、魔法使いは僕たちに頭を下げた。

「健闘を祈っているよ」

「何のですか?」

「何でもいいさ。祈ることに意味があるんだ」

 魔法使いは僕たちに背を向けて、坂道を下っていった。そちらは彼の家がある方向ではない。もう、すぐに、この街を去るつもりらしい。彼は、いつの間にかトランクケースを持っていた。頭にシルクハットを被り、もう片方の手には杖が握られている。

 僕とカロは、二人並んで魔法使いの背中を眺めていた。あまり名残惜しくはなかった。ただ、彼との距離が離れていくだけだ。いつか、球状の世界を一周して、どこかで出会うかもしれない。

 カロに手を引かれて、僕は家の中に戻った。

 リビングに入ったとき、光が微妙に遮られた空間の中で、僕はカロの瞳が茶色に変わっているのに気づいた。背中を見ると、翼の跡もない。

「植物について学ぶつもりだというのは、本当?」ソファに腰を下ろして、僕は尋ねた。

「うん」カロはソファの肘かけに腰を下ろす。「そのつもり」

「君が何をしようと自由だけど、できれば、太陽の光をデータ化するような方向へは進まないでほしいな」

「進まないと思うよ」

「保証は?」

「保証なんてないけど。君が何を信じるかは、君の自由では?」

 言葉の通りにとれば、少々棘があるように思えなくもない。けれど、僕にはその言葉は優しく感じられた。

 沈黙が続く。

 カロとの間に生じる沈黙は心地良く、細波のような安心感がある。

「お姉ちゃんは、小さい頃、植物学者になりたいなんて言っていなかった」僕は天井を見上げて、呟いた。「小説家になりたいと言っていた。物語を作るのが好きだったんだ。物語の世界では、何が起きてもいい。ただ、面白くて、どこか自分の内側に残るところがあればいい。そんなことを言っていた。彼女は、たぶん、植物について研究していたのではなくて、植物についての物語を作っていたんだと思う」

「その結果が、私ということ?」

「そう言うつもりはないけど、君がそう言うと、そんな感じがするよ」

「彼女は、論理的なものが嫌いだった?」

「嫌いではなかったと思う。ただ、合わない部分があったんだろう」

「私は、何をしたらいい?」

「何をって……」僕はカロの方を見る。「自分のしたいようにすればいい」

「学問の道を歩んでもいいの?」

「学問にも、創作にも、道はないよ。自分で作るんだ。そんなことを、どこかで聞いた気がする」

 さて、これは何の話だろう? 随分と遠回りをしたような気がする。グラスにワインを注ごうとしたのに、氷がないことに気がついて、南極大陸まで採りに行ったような気分だ。実際に、僕たちは、コーヒーを淹れるために果実を収穫するところから始め、種を乾燥させ、ミルで粉砕することまでした。それにも関わらず、結局コーヒーを飲むことはできなかった。

 魔法使いが言ったように、すべてはカロを放り込んだことに起因している。カロがすべての原因だった。

 僕は魔法使いだ。故に、魔法を使える。しかし、魔法とは何だろう?

 考えてみると、周囲では色々な現象が起こる。普通、人は、そこに何らかの原理、あるいは理由が存在すると考える。また、個別的な事象を一般化して理解しようとすることもあるだろう。

 僕がこれまで経験してきたことは、果たして一般化することができるだろうか? おそらく、しようと思えばできるはずだ。しかし、そうすることにどれほどの意義があるだろう?

 起きたことを一つ一つ記述していった結果出来上がるのは、起きたことが一つ一つ記述されたものでしかない。そこには何の関連性もなければ、まとまりのあるメッセージがあるわけでもない。

 残念なことに、僕の人生はまだ続きそうだから、記述しようと思えば、どこまでもし続けることができる。

 どこまで記述できるだろうか?

 人生とは、そこまでドラマティックなものだろうか?

 起こったことを一つずつ記述していくと、どんな色になるだろう?

「どんな色になると思う?」

 と僕はカロに質問する。

 カロはこちらを振り返り、それから、少しだけ笑った。

 彼女にもう翼はない。

 空も飛べない。

 それでも、きっと、彼女と空を飛んだ感覚は消えず、僕の中に残り続ける。
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