燃え盛るヒ

羽上帆樽

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第5章 疑心暗鬼

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 砂浜が終わり、キャンプ場がある辺りまで辿り着いた。そちらは一段高くなっていて、道そのものが柵を伴った防波堤のような役割をしている。右手に売店があったが、やはりそこも閉まっていた。この時間帯に開いている店など、この辺りにはコンビニエンスストアくらいしか見つからない。

 火花によると、キャンプ場は予約制らしい。最近は季節が違うので、あまり利用客はいないとのことだった。炭を入れて火を点ける暖炉のような形をした加熱機構を中心に、長方形の椅子が四辺を囲んでいる。そのセットが、傾斜した丘のような場所にいくつか点在していた。

 柵のすぐ傍を歩き、ときどき下の海を眺める。今は夜だから、水は黒く、そしてどこまでも深く続いているように見えた。

 飛沫が上がる。

「火花は、どこで眠るの?」

 ずっと無言で歩き続けていたが、月夜は気になって彼女に尋ねた。フィルは、月夜の腕の中ですでに眠ってしまっていた。

「私は、基本的に眠りません」火花は答える。「でも、そうですね……。その必要があるときは、管理棟の待機場所か、カフェの奥にある準備室を使わせてもらっています」

 月夜は頷く。

「もう、眠いですか?」

 火花に尋ねられたが、月夜は首を横に振った。

「私も、眠らなくても大丈夫」

「春休み中だからですか?」

「ううん、違う」彼女は答える。「いつも、あまり眠っていない」

 同じですね、と言って火花は微笑んだ。

 道の端までやって来ると、もうそれ以上進めなくなった。柵で完全に閉鎖されていて、まだ道は続いているものの、その先には関係者以外立ち入ることはできない。

 海を泳いでいけば、その先の工場地帯に至ることができる。今も赤色のランプが点灯しているそれらの建物からは、微かに乗り物を走らせるような音が聞こえてくる。周期的な波の音と、不規則な人工的な音を耳にしていると、不思議と心が落ち着くように感じられた。

 火花と一緒に道を引き返して、先ほどのキャンプ場の辺りまで戻ってくる。そこは丘になっているから、二人でその芝の上に寝転がることにした。

 プラネタリウムに来たみたいに、頭上には星空が広がっている。

 プラネタリウムの方が人工物で、それは自然の星空をモデルにしているのに、前者を後者の例えに使うのは、本来なら違和感を覚えなくてはならない。

 けれど、少なくとも月夜には、その感覚は欠落していた。

 ときどき風が吹いて、その度に身が引き締まるような感じがした。やはり、今日は昨日と比べれば寒い。寒暖を繰り返して春へと至るのは、この国に特有の事象らしい。一般的に季節と呼ばれているものの一部だが、最近は、今がどのような季節なのか、意識されることは少なくなってきているように思える。

「あと二週間、よろしくお願いしますね」感情を伺わせない声で、火花が闇夜に向かって呟いた。

 上に向けていた顔を横に向けて、月夜は火花の顔を見つめる。

 彼女もこちらを向く。

 目が合い、彼女はそこでようやく笑った。

「……ごめんなさい」

「……どうして、謝るの?」

「なんとなく……」火花は考えるような素振りをみせる。「……そうしておいた方が、月夜さんと円滑な関係を維持できると思ったからかもしれません……」

 火花の髪は、今日も透き通るように綺麗だった。白と透明の中間のような色合いだが、色素が完全に抜けているわけではなさそうだ。たとえるなら、プラスチック製のストローにナタデココを通したような色合いだった。

「学校って、どんな所なんですか?」

 中くらいの沈黙が続いていたが、火花がまた質問をしてきた。どうやら、この場では質問役と回答役が自然と決まっているようだ。

「火花は、行ったことがないの?」

「……どんな所かは知っています。通ったことはありません」彼女は説明する。「月夜さんは、どうして学校に行こうと思ったんですか?」

「火花が、ここにいるのと、同じ理由」

 火花は可愛らしく息を漏らしながら、笑った。

「唐突な回答で、びっくりしました」

「うん」

 沈黙。

 腹部の上で丸まっているフィルが、もそもそと動く。しかし起きることはなく、そのまま眠り続ける姿勢をとった。

「月夜さん」上を向いたまま、火花が言った。「実は、一つお願いがあるんですが……。……聞いてもらえますか?」

 月夜はまた彼女の方を向く。

「私は、いつも、聞くことはするよ」

 火花は嬉しそうな顔をする。

 そして、再び上空を眺め出す。

「……最後の役割を終えたら、私は消えていなくなります」火花は言った。「……その最期のときに……。……できれば、月夜さんに傍にいてほしいんです」

 火花の言葉の意味を考えながら、月夜は上空に輝く星の数を数える。それは、何かを考えるときに彼女がする癖だった。

「うん、いいよ」月夜は答える。

 簡単に了承されると思っていなかったのか、火花はまた笑みを零した。

「私は、ずっと一人でした。……もちろん、同じ仕事をする人は周囲にもいましたが、月夜さんみたいに親しく接してくれる人に出会ったのは、私にとっては初めてだったんです。だから、それが嬉しかった……。……できるなら最期まで貴女と一緒にいたいというのが、私の願いです」

 月夜は黙って頷いた。

 暫くそこでそうしていたが、夜が明ける少し前に場所を移動した。朝になれば、ウォーキングや体操などの運動をする人たちがやって来て、かなり目立つからだ。

 道を戻って弧の外側に周り、今度はそちら側の道を遊園地がある方向に向かって歩いた。左側には大通りと、その上を走るモノレールの線路がある。右手には松林がずっと続いている。

 太陽が昇り始めて、東の方から徐々に空が明るくなってきていた。

「プログラムの作成は、今のところ順調です」

 歩きながら会話をする中で、火花は月夜にそう告げた。

「ただ、なんとか間に合う程度です。突然のことでしたから……」

「それを組み終われば、本当に、ここを完全に制御できるようになるの?」月夜は尋ねる。

「何も不備がなければ、なるはずです」火花は答えた。「確認をする時間も設けてありますが、どこか途中で躓くことがあれば、その時間も充分にはとれないかもしれません……」

「そのときは、どうするの?」

 月夜の質問を受けて、火花は首を傾げる。

「さあ、どうしましょう……。……今は、失敗する未来は考えていません。失敗しないことが目標です。……成功しても、失敗しても、私はそれ以上存続することはできないので、そんなことを言っても仕方がないんです」

「私に、手伝えることは、ある?」

「プログラミングに関して、ですか?」

 月夜は頷く。

「残念ながら、それは難しいと思います」火花は説明した。「こんなことを言うのは恥ずかしいんですが、たぶん、私にしかできないと思います。この遊園地のシステムを熟知しているのは、私のほかには誰もいません」

「そう……」

「月夜さんには、ほかの作業を手伝ってもらえるだけで、充分です」火花は笑顔で言った。「私はその間に自分の仕事に集中できます。それだけでとても助かります」

「分かった」月夜は頷いた。「じゃあ、そうする」

 途中でフィルも目を覚ました。自分で歩き出したいと言ったから、月夜は彼を地面にそっと下ろした。

「日中は、どこで過ごすの?」月夜は質問する。

「そうですね……」火花は答える。「日中は、どこにいるのかあまり決めていません。海岸線沿いを散歩することが大半ですが……、まあ、あとは、色々と……」

 遊園地が営業している間は、例の三角形のモニュメントの中に入って、プログラミング作業をすることはできない、と火花は説明した。利用客がいる最中に何らかの誤動作を起こしたら大変だから、という理由かららしい。それは施設の管理人を務める者たちの共通認識で、彼女の独断ではどうしようもないとのことだった。

 道が開け、ちょっとした広場のような場所に到着する。右に道を進み、坂を上ると、サッカーをするために一面に芝生が広がったエリアに至った。その手前に噴水があったが、それが動くのは夏の間だけで、必要のない時期には水が流れることはないと火花は話した。

 長方形の広大な緑の平面が、海に並行するように広がっている。

 その手前にある段差に腰を下して、疲れてはいなかったが、二人はまた休憩した。

「それにしても、気持ちの良い朝ですね」

 前方を眺めたまま、火花は呟く。月夜が積極的に話しかけるタイプではないことを理解したのか、火花は自分から口を開くことが多かった。

「気持ちの良い朝、とは?」

 火花の社交辞令を完全に無視するような態度で、月夜は訊き返す。

「えっと……」火花は応える。「それは、質問ですか?」

「気になったから、訊いてみた」

 火花は首を捻った。

「何について訊かれているのか、分からなくて……」

「どういうのを、気持ちの良い朝、というの?」

 月夜はあくまで真剣に尋ねたつもりだったが、火花は苦笑いした。

「今の、こういう状態を、そういうふうにいうんだと思います」

「言葉で説明すると、どうなる?」

「余計なことを言うな、月夜」月夜の膝の上に載っていたフィルが、彼女に言った。「他人がせっかく気を遣ってくれているのに、そんなことは言うもんじゃない」

「……そうなの?」

「そうだ」

 火花は祈祷するように片手を上げ、それを団扇のごとく左右に振る。

「いえ、そんなことはありません」

「じゃあ、訊いてもいい?」

「ええ、もちろんです」

 フィルは溜息を吐く。

 意味の分からない沈黙が降りる。

「そうですね……」やがて、火花は説明した。「私にとっては、自分の視界に映る水平線の、ちょうど真ん中から太陽が昇ってきて、その太陽の直径が水平線と一致している、つまり太陽の上半分が見えている光景を、自分以外の誰かと見ている場合、気持ちの良い朝の三分の二の条件を満たすものと考えます」

 月夜は頷く。

「そして、その状態がある程度長期的に維持されることで、残りの三分の一の条件が満たされます。歩いていて、木々の隙間から一瞬だけそれが見えるだけでは駄目なんです。今みたいに、二人以上で、数分間に渡って眺めていることで、条件のすべてが満たされるのです」

 火花の説明を聞いて、なるほど、と月夜は思った。

「でも」月夜は正面を向いて、自分の意見を述べる。「今は、視界に映る水平線の、中心から太陽は昇っていないし、その太陽も、まだ半分まで見えていないよ」

 目前には、草原が見え、その向こう側に水平線が見えるものの、太陽は右に寄っている。さらに、その太陽はやっと顔を見せた程度で、半分まで昇るにはまだ時間がかかりそうだった。

「ええ、そうなんです」月夜の指摘を受けて、火花は答えた。「だから、これからその状態になるんです」





 海水浴場と遊園地は斜張橋で繋がれているが、遊園地の敷地内にも斜張橋がもう一つある。正確には、遊園地の裏口にその斜張橋は繋がれている。こちらは道路の一部として使用されており、自動車が走行できるように二車線が用意されているため、必然的に幅は広く、入り口のものよりも規模の大きいものだった。

 遊園地が開業時間を迎えると、人々が少しずつ園内に入ってくるようになった。現在は春休み期間中だから、平日でも平均的に利用客は多い。しかしながら、今日は昨日よりも曇っているためか、それほど人が多いという印象は受けなかった。

 月夜と火花は、裏口に近い方の斜張橋の上から、眼下に広がる遊園地を眺めている。ちょうど真下には、月夜が火花と初めて出会った、例の傾斜地帯が広がっている。少し離れた位置にバイキングが、そのさらに向こうにメリーゴーラウンドが見えた。両者とも、今は稼働しているが、利用客は一人としていない。

 この遊園地に来る者の半分くらいは、水族館をメインの目的として訪れる。特に、朝早くから来る客の大半は、遊園地での行楽は後回しにして、水族館で水生生物と触れ合うことを優先する。月夜にもその感覚はなんとなく分かった。バイキングで揺さぶられたあとで海豚のショーを観るよりは、先に海星の不思議な肌に触れてから、思いきりジェットコースターでエキサイティングした方が良いに違いない(という結論は、意識的に思考しない限り導き出されないが)。

 昨日の温度を引き継いだように、今日もまた肌寒かった。上着を持ってくれば良かったな、と月夜はぼんやりと考える。基本的に、彼女はいつも薄着だが、寒さを感じないわけではない。ほかの人に比べて、その度合いが小さい範囲に収まるというだけだ。

「寒いですか?」

 隣に立って、欄干に腕を載せて下を眺めていた火花が、月夜に声をかけてきた。

「うん、少し」月夜は答える。

「従業員の制服なら、上に羽織るものがあります。よかったら、それを着ますか?」

「着てもいいものなの?」

「うーん……」火花は唸る。「たしかに、従業員と間違われる心配はあります」

「それなら、遠慮しておく」

「申し訳ありません」

「火花は、何も悪いことはしていないよ」

 フィルは、散歩に行ってくると言って、数分前にどこかへ行ってしまった。その内戻ってくるだろうが、いつになるかは分からない。「散歩に行ってくる」という文には、「あとで必ず戻ってくる」という意味が自然に添加されるから、不思議だ。人は言葉や文の意味をそのまま受け取っていないことになる。皮肉というのも、またその内の一つだろう。

 後ろを振り返り、首の角度を上方向に大きくすれば、斜張橋の立派な柱を眺めることができる。一本の巨大な柱から、細いワイヤーが幾本も派生している。細いといっても、直感的に細いと感じるほど細くはない。あくまで、橋全体を支える柱に比べたら、という意味だ。

 海風に吹かれ、橋が奇妙な音を上げる。どこが軋んでいるのか分からないが、僅かに振動を伴うような、そんな重たい音だった。

「こういう大きな建物を見ていると、なんだか不思議な感覚を抱きませんか?」

 背後から声をかけられて、月夜は正面に顔を戻す。欄干に体重を預けた火花が、無表情に近い顔で月夜の方を見ていた。

「ときどき、なる」月夜は端的に答える。

「遊園地には、背の高い建物が沢山あるので、ときどき自分の大きさが分からなくなってしまうことがあります」火花は話した。「変な話かもしれませんけど……。あまりにも自分が小さすぎて、向こう側に自分が吸い込まれてしまいそうな感覚に、ときどき陥ります」

「あの、塔型のアトラクションは、昼に見るのと、夜に見るのとでは、印象が違う気がする」

 彼女たちから見て右手に位置する、この遊園地に特徴的な青い塔を指差して、月夜は話した。

「ええ、分かります……。夜になるほど、大きく見えますね」

「メリーゴーラウンドに乗ったときも、変な感じがした」月夜は説明する。「乗ったのは初めてだったけど、違和感があった。色々なルールから解放されるような、そんな感じがした」

 火花は頷く。

「夜には、不思議なことが沢山起こりますね」

 月夜は、自分がどのように名づけられたのか、知らなかった。誰が決めた名前なのかも聞いたことがない。そもそも、両親がいないから、確かめることすらできない。自分の親戚を名乗る人物にも、彼女は一度も会ったことがなかった。

 背後を自動車が通り過ぎていく。

 斜張橋の左端は遊園地の傍にある大通りに、右端は大きなトンネルに繋がっている。トンネルを抜けた先がどこに繋がっているのか、月夜は知らなかった。自分の住んでいる地域や、学校の周囲のことは知っているが、それも熟知しているわけではない。土地や場所というものに、彼女はあまり興味がなかった。

「今度、水族館に行ってみませんか?」

 火花の声が聞こえて、月夜は思考を中断させる。

「水族館?」

「ええ、そうです」花火は頷く。「今からでもいいですけど、どうせなら夜の方がいいと思うので、後日……」

「どうして、夜の方がいいの?」

「何だか、その方が雰囲気がいいような気がしませんか?」

「そうかな……」

「暗闇と、水の気配は、上手くマッチするように思います」火花は話す。「夜の海が素敵に見えるのも、理由は分かりませんが、確かなことだと感じます」

「夜に、水族館に、入れるの?」

「ええ、許可を貰っておけば」

「誰から?」

「水族館の管理人からです」火花は言った。「一応、遊園地を管理するのと、水族館を管理するのは、別々の部署という扱いになっています。ですから……、彼らにお願いしておけば、きっと入れるはずです」

「魚たちは、眠っているんじゃないの?」

「そうかもしれません」

「それでも、入っていいの?」

「起こさないように、静かに入りましょう」火花は楽しそうに言った。

 斜張橋から離れて、裏口から遊園地の敷地に戻った。時刻はまだ午前十時だ。二人が管理作業を始めるには、まだ十二時間ほど時間がある。

 座っているだけでは退屈なので(いずれにしろ、何をしていても退屈なのだが)、二人は園内を散歩することにした。北、東、南側のエリアに関しては、月夜も散策したことがあったので、まだ行ったことのない西側のエリアを歩くことにした。

 火花と最初に出会った傾斜地帯がある辺りを、さらに奥に進む。そのエリアは、メリーゴーラウンドの辺りから伸びる一番手前の道の最奥に当たる。

 青い色をした塔型のアトラクションの傍を通り過ぎ、頭上に巨大な橋があるエリアに到着した。この橋は先ほどの斜張橋とは異なり、遊園地と駐車場を繋ぐための連絡路として機能している。おそらく、遊園地の敷地内にある橋の中で最も規模が大きい。緑色をした直方体型の形をしており、橋の上は外気に触れることはなく、完全に密閉されている。もちろん窓はあるから、外の空気をまったく取り入れられないわけではない。景色を楽しむためのスポットとしても、ある程度の人気はあるらしい。

 そのエリアを通り過ぎると、間もなく船への乗船口が見えてきた。港と呼べるほど大きくはないが、船はボートではなく、複数人が乗れる中程度のものだ。今はちょうど船が一層停泊していた。

 左にはずっと海が続いている。しかし、向こう岸は見える。そちらでは釣りをしている者が何人かいた。

 二人は道の端までやって来る。

 それ以上は進めない。前方には、果てしなく海洋が広がっている。また、所々都市の陸地が突出している様子も窺えた。人間の生活圏は歴史とともに広がってきている。

「静かな遊園地も、いいかも」月夜は、陸と海を区切る柵に寄りかかって、何の前触れもなく呟いた。

 反対側を向いていた火花が、少しだけ彼女に身体を向けて答える。

「私もそう思います」

「でも、夜に一人でいたら、寂しいんじゃないの?」

 ええ、と言葉を零して、火花は黙る。

 それから、言葉を選ぶように、彼女は少しずつ声を発する。

「フィルに出会って、月夜さんを紹介してもらって、自分が今まで寂しさを感じていたことに気づきました」呼吸をするように、短いリズムを作りながら、火花は話した。「自分で自分の状態に気づかないなんて、面白いですね……。今まで比較の対象がなかったから、寂しさというものを知らなかったのかもしれません。あるいは、月夜さんと出会ったことで、初めて今までの自分と比較をするようになったのか……。……誰かと一緒にいると、とても心強く感じます。そんなことに憧れを抱いたことは、今まで一度もありませんでしたが……」

 声は、波の音に呑み込まれて、やがて消える。

「私も、そうかもしれない」月夜は言った。「色々な人に出会って、色々と知ることができるのは、いいことかもしれない、と思う」

 火花の笑い声が聞こえる。

「フィルとも、仲がいいみたいですね」

 月夜は一度首を傾げたが、角度を戻して、頷いた。

「そうかも、しれない」

「彼は、月夜さんが好きなのかもしれませんね」

「でも、一番じゃない」月夜は呟く。「彼には、ほかに、大切な人がいる」

 噂話をしていたからか、フィルがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。いつも通り平静な顔をして、じっと正面を向いて足を動かしている。

「おかえりなさい」火花が彼に言った。

「ああ、ただいま」フィルは答える。

「どこに行っていたの?」月夜は質問した。

「散歩に行くと、言わなかったか?」

「Xに行くの、Xに入るのは、場所の名前だよ」

「優等生みたいなことを言うなよ」彼は笑う。「橋の向こう側にも海岸が続いていたから、そっちの方まで行ってきた」

 彼が言う橋とは、おそらく、先ほどまで月夜と火花がいた斜張橋のことだろう。

「別に、何もなかったな」柵の幅の狭い上面に器用に座り、フィルは話す。「この一帯は、人工物が多すぎて、何がもとからあったのか分からない。あまり、好ましい環境とはいえないな」

「どうしてですか?」フィルに付き合うつもりなのか、火花が笑顔で質問する。

「うん、つまりな」彼は得意気に説明した。「人工物が多ければ、それだけ人の存在を身近に感じるだろう? 俺は、できるなら、人も、自然も、バランス良く感じたいんだ。どちらだけしか存在しないのも、それはそれで良くない。すべてにおいて、バランスという概念は非常に重要だ」

 火花は面白そうに笑みを零し、月夜に視線を送る。

 月夜は相変わらず無表情だったが、社交辞令のつもりで小首を傾げておいた。

「まあ、いいさ。理解者がいなくてもいいんだ、俺には。何も、困らないからな。月夜さえいてくれれば……」

 先ほど火花に伝えたことが嘘だと思われるような発言だったが、月夜は気にしないことにした。彼がそうした気障な言葉を口にするのは、比較的よくあることで、特に珍しくもなかった。

 場所を移動し、管理棟の傍にある桟橋があるエリアへとやって来る。やはり、人は少ない。行楽日和とはいえない、若干マイナスのバイアスがかかった気温のせいかもしれない。

 桟橋には、小型のボートが何艘か待機していた。月夜たちがそちらに近づくと、乗ってみないかと誘われたが、当然料金を支払わなくてはならないし、乗る必要性を感じられなかったので、乗らなかった。その決断を下したのは、もちろん月夜だ。火花なら、乗ってみましょうと言ったかもしれない。

 桟橋は木でできているから、歩くとなんとなくほかの場所とは感触が違う。周期的に波の影響を受けて揺れ、足が地についていないような、そんな不思議な感覚がする。

 何もせず、ただぼんやりとして時間を過ごすのも、悪くはないかもしれない、と海を眺めながら月夜は思った。彼女がそんなことを思えるようになったのは、本当につい最近のことだ。以前の彼女は、そこまで寛容に自分の習性を修正することはできなかった。ただ、時間が経過するにつれて、徐々に自分を客観的に見られるようになり、それとともに普段の自分とは異なる選択をすることも可能になった。これだけ聞けば丸くなったと思われるかもしれないが、実際には、経過する時間の中で出会った、様々な人々の特異な性質が関係している。

 結局のところ、人間が変わる原因というのは、その大半が同じ人間なのだ。人間は人間のことにしか興味がないと言われるが、その意見はあながち間違えてはいない。地球や自然を守ろうとするのも、ほかの生き物や生態系を守ることが第一の目的ではない。そういう側面があるのも確かだが、第一の目的は、人間が自らの生を維持することにほかならない。ほかの生き物が死滅してしまえば、人間にとっての食料はなくなってしまう。その先には、人間すらも死滅する未来しか待っていない。

 しかし……。

 人間は、それすらも、超越しようと試みている。

 つまり……。

「人間は、生き物をやめようとしている、ということだな」

 唐突に発せられた言葉を聞いて、月夜は現実に引き戻された。自分の膝の上にフィルがいて、彼がこちらを見て意地悪そうに笑っていた。

 月夜は隣を見る。

 フィルの台詞は、火花には聞こえなかったみたいだ。

「詮索するのはいいけど、それを口に出すのは、やめてほしい」

 月夜がそう言うと、フィルは僅かに首を傾げた。

「ほう。どうしてだ?」

「ほかの人に、聞かれたくないから」

「なるほど」フィルは言った。「たしかに、俺だけの月夜をとられるのは、あまりいい気がしないからな」

 月夜はフィルを見つめる。

 それから、一度小さく頷いておいた。
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