Dream Per Second

羽上帆樽

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第10章 帰還します

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 時計を専門に扱う博物館をあとにして、僕とリィルは山の中を歩いた。つい最近も、仕事の関係で山道を歩いたばかりだから、慣れているというのは変だが、感覚的に歩き方が分かっていて、僕たちはあまり苦労することなく麓まで辿り着くことができた。

 この辺りは、都会から完全に断絶されている。周囲は山に囲まれ、人工物にもコンクリートや鉄骨の類は使われていない。さすがに乾拭き屋根とまではいかないが、木造の古民家がちらほらと見える。そうした事実を踏まえれば、あの博物館は異質な存在だったのかもしれない。山というこれ以上ないほどナチュラルな空間に、あれだけの規模の人工物が建っているという光景は、なかなか目にできるものではないだろう。

 駅まで坂道を下る必要があった。

「結局、探し物は見つからなかったね」

 ゆっくりとしたテンポで歩きながら、リィルが言った。

「うん、まあ、でも、別のものが見つかったから、収穫はあったといえるんじゃないかな」

「その、別のものが何か、言葉で説明することはできる?」

「いや、できない」僕は首を振る。「でも、君と僕の間で共有できていると、期待している」

 僕がそう言うと、リィルは少し笑って頷いた。

 人間は、生来言語とともにあるのだろうか、と疑問に思うことがある。考えるとき、僕は言語を使っているが、ほかの人はどうなのだろう。言語を使わずに、映像や、ニュアンスだけで考える人はいるだろうか。

 リィルと話していると、彼女は後者の性質を持っているのではないか、と感じることがある。なんというのか、聞こえは悪いが、彼女の説明は論理的ではないのだ。前後関係だけでは説明できない部分がある。

「私さ、今度、コーヒーが飲みたい」リィルが唐突に言った。

 下を向いていた顔を上げ、僕は彼女を見る。

「それは、単なる願望? それとも、実際に試す前提で言っているの?」

「もちろん、単なる願望として」

 彼女の返答が意外だったから、僕は驚いた。驚いても僕の顔はいつものままだ。常にデフォルトを維持するのが、僕のデフォルトなのかもしれない。

「へえ。まあ、それなら、いいんじゃないかな」僕は当たり障りのない感想を口にした。

「何、いいって。意味が分からないんだけど」リィルがそれを指摘する。

「まあ、そういうふうに、憧れるだけなら、健康的で、文化的ってことだよ」

「健康と、文化って、何か関係があるの? その二つが共起する瞬間って、ないと思うけど」

「まあ、たしかに」僕は頷く。「文化的なものに触れるときは、健康なんてそっちのけだからね。僕も、一晩中本を読んだりすることがあるから。最近は、眠気が酷くて、なかなかそうもいかないんだけど」

「へえ、眠いの?」

「うん、眠い」

「だっこしてあげようか?」

「今は眠くないよ。どうやら、運動していれば、眠気は感じないみたいだ」

 坂道はずっと続いている。道の片方は崖へと続いていて、ガードレールで一応落下防止の策が施されている。けれど、そんなものは乗り越えようと思えば簡単に乗り越えられるし、自動車が衝突したら間違いなく壊れる。たぶん、安心感を齎すためだけに設置されているのだろう。

 ガードレールの傍に寄って、僕はその向こうを見ながら歩いた。リィルも傍に寄ってきて、僕の隣に並んで歩く。歩道は線が引いて示されているだけで、厚みがあるわけではない。実質的に道路を歩いているのと同じだ。ただ、今は人通りもなければ、自動車もほとんど通らなかったから、貸し切りで歩いているようなものだった。

 眼下に、細い川が、そして、その周辺に立てられた家が見える。

 どれも古典的な造りだ。

「私、ああいう家に住みたい」

 リィルの言葉を聞いて、僕は思わず笑みを零した。

「この前、王子様とお城に住みたいって、言っていたじゃないか」

「うん、まあ、それもそうだけど、ときどき、ああいう家もいいなあって思うことがあってさ」リィルは説明する。「普段はお城で暮らしているんだけど、夏とか、冬とか、限られた季節だけ、こういう田舎に移り住むわけ。夢があると思わない? 和洋折衷という感じがして」

「別々に住むんだから、折衷ではないね」

「田植えとか、するのかな?」

「さあ……。でも、見たところ、辺りに店はないから、ある程度は自給自足しなくてはならないのかもしれない」

「川で魚を獲ったりとか?」

「そう……。蛍とかも、獲れるかもしれないね」

「蛍なんて、食べないでしょう」

「食べる人もいるかもよ」

「どこに?」

「さあ、どこかにはいるんじゃないかな」

 坂道はずっとカーブしていて、いつまでも終わりが見えない。でも、もうすぐすれば駅に着くはずだった。坂は周回するように下に向かっているから、実質的に始まりと終わりがない。

 無限に続くものは、大抵円状になっている。身近にあって、最も典型的なものは数字だ。同様の理屈で季節も円状だ。けれど、季節のもとになる、時間というものは、一般的に円状ではないとされている。現在を経由して未来へと続く、線状のものとして認識されている。

 歩き続けて、やがて駅が見えてきた。ここが本当の山の麓だ。人工的な山の上に、ナチュラルな山があって、その頂上に例の博物館があるイメージだ。

 特に寄り道をする場所はなかったから、僕とリィルは切符を買って、ホームで電車が来るのを待った。駅は古典的な雰囲気だが、走行しているのは都市でも見かける普通の電車だ。古典的な列車には以前乗ったことがあるが、僕はあちらの方が好きだった。

「帰ったら、何をしようかなあ」天に向かって伸びをしながら、リィルが呟いた。「あ、そうか。結局、仕事の続きをしなくちゃいけないのか……」

「ああ、それなんだけど」僕は缶コーヒーを飲みながら話す。近くの自動販売機で買ったものだった。「その仕事は、もう終わりにしよう。これ以上は、何もしなくていい」

 僕がそう言うと、伸びをしていた腕を下げて、リィルはきょとんとした顔でこちらを見た。

「何もしなくていいって、どういうこと?」

「すでに解決したってことだよ」僕は説明する。「あの空白に当て嵌まる言葉が、見つかったってこと」

 僕の言葉を聞いて、リィルは何度か瞬きした。

「え? なんで? だって……、今、あの博物館に探しに行って、それでも見つからなくて、どうしようって話していたところじゃなかったっけ?」

「でも、見つかったんだよ」僕は前を向いたまま話す。「いや、あの場所で見つかったわけじゃない。ほかの場所……、というよりも、僕の中で見つかったと言えばいいかな」

「……どういう意味?」

「さあ、どういう意味だろう? 僕も、自分で言っていて、よく分からない」

「説明できる?」

「言葉にすることはできるよ。僕にはその感覚があるから」

「じゃあ、ちゃんと話してよ」

「電車に乗ってからにしよう」僕は提案した。「どうせ、電車の中では座っているだけだから」

 ホームに人はいない。電車も一時間に一本しか来ないから、この辺りは田舎という認識で間違いなさそうだった。改札は電子的なものが導入されていたが、その周辺には、売店だったり、八百屋だったり、如何にもな店が軒を連ねていた。駅舎自体も木造だから、より一層田舎っぽい。

 電車がやって来て、僕たちはそれに乗り込んだ。席は横並びのものではなく、ボックス席だった。外見は近代的なのに、内装は至って古典的だ。オートマチックと、マニュアルが混在している。

 矛盾していると思った。

 そう……。この世界は、最初から矛盾しているのだ。

 個人の世界が矛盾しているのは問題ない。

 しかし、物理的な世界に矛盾があるのは問題だ。それがあれば、恒常的な規則が成り立たなくなってしまう。

 世界は二つある。

 内にある世界と、外にある世界。

 矛盾が許されるのは前者だ。

 つまり、これは……。

 互いに向かい合って、僕とリィルは席に着いた。全部で四人がけだが、車内は空いていたから、ほかの人と相席になることはなかった。

 電車が動き出し、窓の外で景色が流れ出す。

 風景が切り替わる。

 その内、レールも切り替わるかもしれない。

 この電車が向かう先はどこか?

「それで、どこで見つけたの?」リィルが尋ねてきた。「あの空白には、何が当て嵌まるの?」

 いつになくリィルが熱心だったから、僕は思わず笑ってしまった。たぶん、僕にとっての理想の彼女はこういう形なのだろう。それはつまり、実際にはそうではないということでもある。リィルは、僕が関心を抱くことには無関心で、常に自分の世界で生きている。だから、僕はもう少し、自分の世界と、彼女の世界を、リンクさせたいのかもしれない。

「問題の文は、『〈   〉、存在するのか?』というものだった」僕は普段と変わらない口調で話した。「結論から言えば、あの〈   〉に入るのは、『空白』という言葉だったんだ」

 僕がそう言うと、リィルは目を丸くした。その仕草が可愛らしくて、僕は少し明るい気持ちになる。現実の彼女はそこまでオーバーな表情はしない。

「『空白』? どういうこと?」

「うん、つまりね、もともとブランクだったんだよ」それでは説明にならないと思いながら、僕は話を続けた。「最初から、あの〈   〉に入る言葉はなかったんだ。でも、あれは一つの文で、一つはほかのすべてと関係があるから、欠けている状態ではいけない。そこで、空白を表すために、筆者はわざわざ『空白』という言葉を入れたんだ。君が最初にその文を読んだとき、何の違和感も抱かなかったのはそのためだ。きっと、空白をあるものとして捉えようとしたんだろうね」

 リィルは僕に片方の掌を向け、もう片方の手で額を抑える。

「……いまいち理解できないんだけど」

「内容は理解できるだろう? 論理的に述べられているんだから。君が理解できないのは、意味か、あるいは意図じゃないかな」

「うん、そうかも」

「意図とはつまり信念のことだから……」僕は腕を組む。「僕が今述べたことは、そうであるという事実ではなく、そうであってほしいという願望ということだね。だから、必ずしもほかの人に理解されるとは限らない」

「じゃあ、理解できるように説明してよ」

 リィルは顔を上げて僕を見る。

「それはできないんだ」

「どうして?」

「だって」僕は笑って言った。「ここは、僕の世界なんだから」

 窓の外に見える景色は、左から右へと流れていく。けれど、それは本当に流れているのではないかもしれない。流れているとは、もともとある物体を、窓という限定された枠から見た際に、電車の移動に伴って、あたかも流れているように見える、ということだ。

 しかし、もし、それは流れているのではなく、右から左へと、今、この瞬間に生み出されているのだとしたら、どうだろう?

 時間もそうだ。初めから直線状になっているのではないかもしれない。今、この瞬間に、新しい未来が生み出されていると捉えることもできる。

「それに気がつくまでに、随分と時間がかかったよね」膝の上に肘をついて、頬を支えた姿勢でリィルが言った。「やっぱり、世界が二重になっていると信じるのは、それなりに覚悟がいるのかな」

「現実の君は、絶対にそんなことは言わないね」

「言うかもしれないよ」

「少なくとも、僕は言わないと信じている」

 リィルは納得したように頷く。

「二重の世界を信じるのは、怖いからね」僕は考えながら話した。「やっぱり、現実は一つじゃないと、安心できないんだろうな。死んだら高次の世界に行くとか、生まれ変わるとか、色々な考え方があるけど、結局は、それって死に対する畏怖なんだ。この世界に対する憧れが、そういう感情として表れる。つまり、現実が好きで仕方のないことの裏返しにすぎない」

「裏返しという表現は、なかなかマッチしていると思うよ」

「そんなことを言う君は、君にマッチしていないね」

 僕は、もう一度、窓の外に目を向ける。

 もう、そこに景色はなかった。

 黒くも、白くもない。

 完全な無として存在している。

 しかし、空白とは無のことではない。

 それが、唯一の救いかもしれない。

 顔を正面に戻すと、そこにリィルはいなかった。代わりに僕が座っている。僕は、僕を見て、ああ、僕だな、と思った。向こうの僕もそう思ったに違いない。普段、僕はリィルをリィルとして捉えている。リィルは僕ではない。僕は、僕とそうでないものを区別している。

「気がつくのが遅いって、彼女は言っていたけど、僕の基準に照らし合わせれば、妥当な頃合いだったと思うよ」

 対面に座る僕が口を開く。外見だけではなく、そのときの仕草を見ても、ああ、やっぱり僕なんだなと、僕は感じた。

「うん、まあ、そうかもしれない」僕はとりあえず頷く。「やっぱり、これくらい時間をかけないと駄目なんだ。スピーディに結論を出す能力は僕にはない。いちいち立ち止まって、時間をかけて考えて、でも、最終的には、最初直感的に抱いたのと同じ結論に至る。だからといって、最初から直感的な結論を信じることはできない。必ず途中の過程が必要になる。そうでないと、僕は壊れてしまう」

「よく分かっているよ」対面の僕も頷いた。「もちろん、それがいいか悪いかという話ではない。それがプラスに作用する場合もあるし、マイナスに作用する場合もある。重要なのは、自分で自分を認められるかということだ。いざというときに、自分を見失わないためにもね」

 僕の意見を聞いて、僕は頷く。

 生きていくうえでは、否定してくれる他者が必要だ。

 でも、ときには、肯定してくれる他者も必要だと、僕は感じる。

 僕は僕にとって僕であり、同時に他者でもある。

 その逆も成り立つ。

 他者は僕にとって他者だが、同時に僕でもあるのだ。

 等値変換ができる。

 僕も、他者も、同じだと認識する。

「そろそろ、帰るつもりなんだろう?」僕が尋ねてきた。「戻ったら、色々と先に進むといいね」

「色々って?」

「僕と彼女の関係も、今目の前にある別の問題も」

「どちらかというと、後者の方が重要かな」僕は言った。「彼女との関係は、たぶんこれ以上進展しない。カウントがストップしている。つまり、高低の概念は適用できない」

「いいじゃないか。これ以上ないほど綺麗な関係だ」

「じゃあ、帰ろうか」

「うん、帰ろう」

 電車はトンネルに入り、前後、左右という概念を消失させる。

 感覚はまだあった。

 けれど、感覚があるという感覚は、感覚として認識できない。

 でも、感覚として認識できる。

 最初からそうだった。

 でも、そこに何の疑問も抱かなかった。

 だから気がつかなかった。

 それも、最初からそうだった。

 僕はそういうものとして生きている。

 生き物であることが先か?

 ウッドクロックであることが先か?

 それとも、僕であることが先か?

 一番前の車両まで移動して、僕は窓から顔を出して前を見る。青色の星が無の空間に浮かんでいた。

「さて、僕は、僕に戻るときが来たみたいだ」僕を見て、僕が言った。「僕も、僕に戻ろう」

 僕は黙って頷く。

 Q. 僕はどこから来たのか?

 A. 僕はどこから来た。




 幽霊のように曖昧な意識。

 肩を揺さぶられる感覚。

 瞼を持ち上げようとする意思。

 誰かの輪郭。

 髪。

 指。

 声。

「大丈夫?」

 呼びかけられ、僕は僕であることを認識する。

 目の前に少女の顔があった。僕はその少女を知っている。

 リィルだった。

「もう、十一時だよ」ベッドの縁に手をついて、リィルが僕に言った。「いつまで寝ているの? どこか、具合でも悪いの?」

 声を出したくて、でもなかなか口が開けなくて、僕はもどかしい感覚に陥る。けれど、それはよくあることで、暫くすれば解消することを知っていた。先に身体を起こして、額に片手を当てる。どこも具合は悪くなさそうだった。むしろ清々している。ようやく口を動かせるようになって、僕は掠れた声でリィルの呼びかけに応じた。

「おはよう」僕は少し笑う。「どうもありがとう」

「何、ありがとうって」リィルも表情を緩める。「全然起きないから、心配したよ。もうね、とっくの昔にご飯を作り終えて、ずっと待っていたんだから」

「申し訳ない」

「本当に、申し訳ないって思って、言っている?」

「まあ、少しは」僕は何も考えずに頷く。「着替えたらすぐに行くから、待っていて」

 リィルは部屋から出ていく。ドアが一度開き、また閉まった。

 枕もとに置いてある時計を見ると、たしかに十一時を過ぎた頃だった。午後ではなく午前だ。部屋のカーテンが開いていて、そこから陽光が差し込んでいる。こんなに遅い時間まで寝たのは久し振りだった。昨日もいつも通りの時間に布団に入ったし、特に疲れるようなことをした覚えもない。

 着替えを済ませて、部屋を出ようとしたが、ふと気になって、僕は自分の机の前まで戻ってきた。

 なんとなく、隣にある棚を開ける。

 具体的に何を探しているのか分からなかったが、何かを探している感覚はあった。それは頭の中ですでに形を成していて、けれど言語化するところまではできない。

 やがて、目当てのものを探し当てて、僕はそれを手に取る。

 円形の小さな硝子機器。

 ルーペだった。

 円形の機構に挟まれたレンズを回転させて、僕はそれを実用できる状態にする。机の上に置いてある梟の置物を手にとって、なんとなくルーペで観察した。特に何の発見もなかったが、普段とは異なる視点で物を見るのは面白かった。

 ルーペはそのまま机の上に出しておいた。なんとなく、棚の中に仕舞うのは間違えているように思えたからだ。

 洗面所で顔を洗って、リビングに入ると、テーブルの上に料理が並べられていた。いつも通りの朝食で、トーストと、おかずが少しあるだけだ。今日はソーセージと目玉焼きだった。かなり前に作ったとリィルは言っていたが、湯気が上っていたから、もう一度温め直したのかもしれない。

「どう? ちゃんと目は覚めた?」

 エプロンを身につけたリィルがキッチンから出てきて、コーヒーが入ったカップを運びながら僕に尋ねた。

「うん、まあ」僕はなんとなく答える。

「じゃあ、ほら、早く食べないと」リィルはテーブルにカップを置き、僕に椅子に座るように促した。「今日も、仕事するんでしょう?」

 僕は用意してもらった朝食を食べた。リィルは飲食をしない。これにはわけがあるのだが、今は重要ではないから特に触れないでおく。僕が食事をしている間、彼女は本を読んでいることが多いが、今日はなぜか対面の席に座って、両肘をついて僕のことを見ていた。

「何かいいことでもあった?」トーストを齧りながら僕は尋ねる。

「ううん、特にないけど」リィルは笑顔で答える。「なんか、モーニングらしいモーニングで、いいな、と思って」

「突然の英語だね」

「モーニングって、日本語じゃないの?」

「まあ、それなりに定着しているから、日本語かも」

 僕はコーヒーを飲む。メーカーで淹れたものだから、決まった味になるはずだが、今日はいつもより苦く感じられた。たぶん、僕の体調のせいだろう。

「今日は、どんな仕事? 私が手伝うことはある?」

 リィルに尋ねられて、僕は少し笑って答えた。

「普通、仕事は常にあるものだけど」

「でも、有能な君には、私が手伝うまでもないんでしょう?」

「なかなか的を射たことを言うね」

「私、今日こそスペースシャトルに乗りたいなあ」

 何か夢を見たような気がするが、僕はもうその大半を忘れていた。いつもそうだ。記述できる状態で覚えていることはない。覚えていても、すべてを語ることなどできない。本当に印象的な部分だけを、なんとなく覚えている程度だ。

 しかし、その、本当に印象的な部分が、自分の中に残っていることに、僕は気がついた。

 それは、リィルがルーペを使っていたシーンだった。

 だから、きっと、僕は、ルーペを取り出したのだろう。

 玄関のチャイムが鳴って、僕の意識は現実に戻る。正面に座るリィルと目が合って、彼女が先に立ち上がった。

 リビングに設置されている応答用のマイクに向かって、リィルは訪問者に応じる。それから彼女は部屋を出て、玄関のドアを開けて対応し始めた。

 リビングのドアが開けっ放しになっていて、向こうから声が聞こえてくる。僕はコーヒーを一口飲んで、一人で食事を続けた。

「あ、いらっしゃい」リィルの声が聞こえる。「もしかして、連絡、貰っていました?」

「いいや」相手の声が聞こえた。「ちょっと、渡したいものがあって、来ただけ」

 暫くやり取りがあって、やがて会話は途切れた。玄関のドアが閉まる音が聞こえると、リィルがリビングに戻ってきた。

 部屋に戻ってきた彼女は、正方形の缶を抱えていた。

 それをテーブルに置き、彼女は笑顔で僕に告げる。

「ビスケット、貰っちゃった」

 僕は顔を上げる。

 それから、少し頰を引きつらせて言った。

「君さ、僕の頰を抓ってくれないかな」
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