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第53話
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「……」
谷崎さんの言葉がすうっと私の胸に染み込んでいく。
何か言わなきゃ──そう思うのに、ぶわっと色々な想いがこみ上げてきて言葉にならない。優しい眼差しで私を見つめる谷崎さんを見つめ返すので精一杯だ。
……参った。
顔は熱くなってくるし、頭はぼうっとしてくるし、心臓の鼓動は激しくなるし……それなのに、私の心はどこかほっこりしている。何とも言えない不思議な感じ。
どう表現すればいいかわからないけど、心の中に空のカップがあって、そこに温かいお茶を注がれたような気分。それは冷たくもなければ、熱々でもなく……今の私にとってちょうどいい温かさで、ゆっくりと私の心の中を巡って、冷たくてカサカサになっていた場所を潤していく。
嬉しかった。
私の強がりを“強くありたいと思っている”と捉えてくれたこと。
私の中にある弱さや脆さを見抜いた上で、私に想いを寄せてくれたこと。
そして……抱きしめたくなるほどいじらしい。
この台詞を柏原つぐみに言えるのは、世界中どこを探しても一人だけだ。そのたった一人が今こうして私の隣にいる。そんな奇跡的で贅沢な現実を思うと、自然と口元が綻んでしまう。
谷崎さんが告げてくれた言葉のひとつひとつが、私の心の中にあったこわばりを解いていく。
ああ……心が満たされていく時ってこういう感じなのか。
少しこっ恥ずかしくて、少しくすぐったいや。だけど、私の胸の中は幸せな気持ちで満ち溢れている。
こんな気持ちになる日が来るなんて、会社の休憩室でふて寝した時は思ってもいなかった。
あの頃の私がふてくされたままだったら、ここに辿りつけなかった。
そして今の私が記憶喪失という現実にめげたままでも、きっと辿りつけなかった。
今、私がとても幸せで満たされているのは、過去と今──それぞれの私が失敗したり痛い思いをしながらも、色々なことに真正面からぶつかっていったから。そして何より……そんな私を温かい目で見守り、とても大切に思ってくれた人がいるからだ。
「……ありがとう」
谷崎さんはたくさんの言葉を伝えてくれてたのに、私が絞り出せたのはたったこれだけ。五文字じゃ足りないってわかっているけど、それしか言いようがなかった。
一言だけど、その中には色々な気持ちが詰まっている──私の意図が伝わったのか、谷崎さんは微笑みながら頷いてくれた。私も負けじと微笑み返す。
「まあ、その後が大変だったけどな」
「え?」
このまま甘い雰囲気が続いていくのかなとぼんやり思っていたけど、谷崎さんはあっさりとそれを打ち破った。
「つぐみは部下としては扱いやすかったけど、恋愛対象としてはとても手強かった」
「手強いだなんて大げさな……」
そう言い返したもの、思い当たるフシがあるだけに内心あたふたする。
「そんなことはない。本当に手強かった。不器用なくせに上司と部下というバリアを器用に張り巡らせて、迂闊に想いを告げられない雰囲気を作っていた」
「気のせい……」
ですよ──言おうと思ったけど、口ごもってしまう。
……言えるわけがない。
記憶はないけれど、私はその辺りのことを日記にバッチリ書いていたのだから。
私は谷崎さんの気持ちに薄っすら気づいていながら、気づかないフリをしていた。間違っても想いを告げられるようなムードにならないようにと予防線を張っていた。そのまま時が流れて谷崎さんの気持ちが別の人に向けばいいと本気で思っていた。
私を好きだと思ってくれる気持ちを蔑ろにしていたのだ。椎名さんを好きだった時にあんなに切ない思いを味わったのに……私は谷崎さんにそれをさせようとした。
やっぱり……最悪だ。
「ごめんなさい」
「いや、つぐみの中に俺の部下にならなければ、公認会計士になれていたかもしれないという葛藤があったのはわかってたから」
やっぱり……わかっていたのか。あの頃の私からすれば、悟られたくなかった気持ちだろうけど、私の弱さや脆さを見抜かれていたのなら仕方がない。だけど……自分と出会わなければって思っている相手を好きになるって……。
「……面倒くさいって思わなかったんですか?」
「思わなかった。つぐみの気持ちの整理がつくまで待とうと思っていた。それなのに、つぐみは俺の気持ちが冷めるようにって、自分は面倒くさがりやで大雑把だとか、食べるのは得意だけど料理は全然できないとか……素の部分をたくさん教えてくれたけど」
……無意味だった。
笑いながら語る谷崎さんの表情で悟った。
私ったら……でも、何となく谷崎さんと一緒になってからの私がキレイになった理由がわかった気がする。自分のダメな部分を知られているから伸び伸びしていたというか、いい感じに力が抜けたんだ。
「変わらなかったんですよね」
「ああ、らしいなって思ったけどな。むしろ得した気分だったよ。大路とか、片想いしていた相手には絶対に教えないだろうなって思うと」
「……何でもお見通しって感じだったんですね」
自嘲気味に言うと谷崎さんは意外なことを口にした。
「そうでもないぞ。つぐみは俺や仕事には隙は見せなくても、他の奴らには無防備なところがあったし。予想外の言動をするし……おかげで長期戦で行こうと思っていた計画が崩れた」
「……」
遠い目で語る谷崎さんを見て、胸がざわざわしてきた。
予想外の言動……谷崎さんの言うそれは多分……。
「それって大路さんの披露宴?」
恐る恐る尋ねると、谷崎さんは目を瞠って見せた後、気まずそうな顔をした。
「知ってたのか……」
その一言で忘れかけていた日記の内容が私の中で一気に再生された。
「……えっと今更ですけど、その節は本当に失礼致しました」
「いや、俺も悪かった。あの時は余裕がなかったから」
「谷崎さんが?」
谷崎さんとは程遠い言葉に眉をひそめると、谷崎さんはため息を零した。
「あの日のつぐみは最高にキレイだった。歌っている時の眩しさったら……」
あれを見られていた? って、冷静に考えたら当たり前だ。でも、あれをキレイと言われてしまうと……当時の谷崎さんの気持ちから考えたら無理はないけど。
「そんな大げさですよ。披露宴の一コマでしょう?」
恥ずかしさを紛らわせるように言うと、谷崎さんはちょっと不満げに首を横に振った。
「そんなことはない。目に焼き付けておきたいくらいだった。もっとも、俺はレンズ越しでしか見れなかったけどね」
ん? レンズ越し?
……私の脳裏に大路さんと姫島さんの披露宴のDVDの映像が浮かび上がってくる。
「あのDVDって谷崎さんが撮っていたんですか?」
谷崎さんの言葉がすうっと私の胸に染み込んでいく。
何か言わなきゃ──そう思うのに、ぶわっと色々な想いがこみ上げてきて言葉にならない。優しい眼差しで私を見つめる谷崎さんを見つめ返すので精一杯だ。
……参った。
顔は熱くなってくるし、頭はぼうっとしてくるし、心臓の鼓動は激しくなるし……それなのに、私の心はどこかほっこりしている。何とも言えない不思議な感じ。
どう表現すればいいかわからないけど、心の中に空のカップがあって、そこに温かいお茶を注がれたような気分。それは冷たくもなければ、熱々でもなく……今の私にとってちょうどいい温かさで、ゆっくりと私の心の中を巡って、冷たくてカサカサになっていた場所を潤していく。
嬉しかった。
私の強がりを“強くありたいと思っている”と捉えてくれたこと。
私の中にある弱さや脆さを見抜いた上で、私に想いを寄せてくれたこと。
そして……抱きしめたくなるほどいじらしい。
この台詞を柏原つぐみに言えるのは、世界中どこを探しても一人だけだ。そのたった一人が今こうして私の隣にいる。そんな奇跡的で贅沢な現実を思うと、自然と口元が綻んでしまう。
谷崎さんが告げてくれた言葉のひとつひとつが、私の心の中にあったこわばりを解いていく。
ああ……心が満たされていく時ってこういう感じなのか。
少しこっ恥ずかしくて、少しくすぐったいや。だけど、私の胸の中は幸せな気持ちで満ち溢れている。
こんな気持ちになる日が来るなんて、会社の休憩室でふて寝した時は思ってもいなかった。
あの頃の私がふてくされたままだったら、ここに辿りつけなかった。
そして今の私が記憶喪失という現実にめげたままでも、きっと辿りつけなかった。
今、私がとても幸せで満たされているのは、過去と今──それぞれの私が失敗したり痛い思いをしながらも、色々なことに真正面からぶつかっていったから。そして何より……そんな私を温かい目で見守り、とても大切に思ってくれた人がいるからだ。
「……ありがとう」
谷崎さんはたくさんの言葉を伝えてくれてたのに、私が絞り出せたのはたったこれだけ。五文字じゃ足りないってわかっているけど、それしか言いようがなかった。
一言だけど、その中には色々な気持ちが詰まっている──私の意図が伝わったのか、谷崎さんは微笑みながら頷いてくれた。私も負けじと微笑み返す。
「まあ、その後が大変だったけどな」
「え?」
このまま甘い雰囲気が続いていくのかなとぼんやり思っていたけど、谷崎さんはあっさりとそれを打ち破った。
「つぐみは部下としては扱いやすかったけど、恋愛対象としてはとても手強かった」
「手強いだなんて大げさな……」
そう言い返したもの、思い当たるフシがあるだけに内心あたふたする。
「そんなことはない。本当に手強かった。不器用なくせに上司と部下というバリアを器用に張り巡らせて、迂闊に想いを告げられない雰囲気を作っていた」
「気のせい……」
ですよ──言おうと思ったけど、口ごもってしまう。
……言えるわけがない。
記憶はないけれど、私はその辺りのことを日記にバッチリ書いていたのだから。
私は谷崎さんの気持ちに薄っすら気づいていながら、気づかないフリをしていた。間違っても想いを告げられるようなムードにならないようにと予防線を張っていた。そのまま時が流れて谷崎さんの気持ちが別の人に向けばいいと本気で思っていた。
私を好きだと思ってくれる気持ちを蔑ろにしていたのだ。椎名さんを好きだった時にあんなに切ない思いを味わったのに……私は谷崎さんにそれをさせようとした。
やっぱり……最悪だ。
「ごめんなさい」
「いや、つぐみの中に俺の部下にならなければ、公認会計士になれていたかもしれないという葛藤があったのはわかってたから」
やっぱり……わかっていたのか。あの頃の私からすれば、悟られたくなかった気持ちだろうけど、私の弱さや脆さを見抜かれていたのなら仕方がない。だけど……自分と出会わなければって思っている相手を好きになるって……。
「……面倒くさいって思わなかったんですか?」
「思わなかった。つぐみの気持ちの整理がつくまで待とうと思っていた。それなのに、つぐみは俺の気持ちが冷めるようにって、自分は面倒くさがりやで大雑把だとか、食べるのは得意だけど料理は全然できないとか……素の部分をたくさん教えてくれたけど」
……無意味だった。
笑いながら語る谷崎さんの表情で悟った。
私ったら……でも、何となく谷崎さんと一緒になってからの私がキレイになった理由がわかった気がする。自分のダメな部分を知られているから伸び伸びしていたというか、いい感じに力が抜けたんだ。
「変わらなかったんですよね」
「ああ、らしいなって思ったけどな。むしろ得した気分だったよ。大路とか、片想いしていた相手には絶対に教えないだろうなって思うと」
「……何でもお見通しって感じだったんですね」
自嘲気味に言うと谷崎さんは意外なことを口にした。
「そうでもないぞ。つぐみは俺や仕事には隙は見せなくても、他の奴らには無防備なところがあったし。予想外の言動をするし……おかげで長期戦で行こうと思っていた計画が崩れた」
「……」
遠い目で語る谷崎さんを見て、胸がざわざわしてきた。
予想外の言動……谷崎さんの言うそれは多分……。
「それって大路さんの披露宴?」
恐る恐る尋ねると、谷崎さんは目を瞠って見せた後、気まずそうな顔をした。
「知ってたのか……」
その一言で忘れかけていた日記の内容が私の中で一気に再生された。
「……えっと今更ですけど、その節は本当に失礼致しました」
「いや、俺も悪かった。あの時は余裕がなかったから」
「谷崎さんが?」
谷崎さんとは程遠い言葉に眉をひそめると、谷崎さんはため息を零した。
「あの日のつぐみは最高にキレイだった。歌っている時の眩しさったら……」
あれを見られていた? って、冷静に考えたら当たり前だ。でも、あれをキレイと言われてしまうと……当時の谷崎さんの気持ちから考えたら無理はないけど。
「そんな大げさですよ。披露宴の一コマでしょう?」
恥ずかしさを紛らわせるように言うと、谷崎さんはちょっと不満げに首を横に振った。
「そんなことはない。目に焼き付けておきたいくらいだった。もっとも、俺はレンズ越しでしか見れなかったけどね」
ん? レンズ越し?
……私の脳裏に大路さんと姫島さんの披露宴のDVDの映像が浮かび上がってくる。
「あのDVDって谷崎さんが撮っていたんですか?」
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