始まりはどこから?

燕尾

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魔女の秘密

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 電車遅延にいつもより混雑している電車。
 朝からツイてないなと思うが、よくあることの範疇だと悟ってもいる。
 だが、俺が立っている前の座席で読書に没頭している乗客が、俺のことを忌み嫌っている部下って……嫌がらせにも程があると偶然に問いただしたい。
 わかっている。会社の最寄り駅がある路線なのだから、柏原がこの路線を使っていても不思議ではないと。
 だが、解せない。
 何で毎日15分前に出社して来る奴が、1時間前に出社している俺と同じ時間の電車に乗っているんだ?
 それに……どうして俺が気まずい思いをしなきゃならないんだ? しかも、ご丁寧に通勤電車で俺の顔など見たくないだろう──と柏原から顔を背けようとしている。どう考えてもおかしいし、理不尽だ。
 ……気を使うのはやめだ。俺に気づいて柏原が不快になってたとしても、俺が知ったことではない。早く出社するわけでもないのに、こんな時間帯の電車に乗っているこいつが悪い。
 そう開き直って、柏原の方を再び見た。俺は悪くないと思いつつ、目を合わせてしまったら……と内心ヒヤヒヤしたが、その心配は杞憂だった。柏原は窓の方をちらりと見た後、すぐに視線を本に戻した。車内の様子なんてどうでもいい──そう言っているような姿に、上司が立っている前で読書とは、優雅なものだと心の中で毒づいてみる。
 それにしてもすごい集中力。
 そんなに面白い本なのか? 仕事の時と同じ……いや、それ以上に真剣な眼差しに興味を掻き立てられるが、これ以上の詮索は悪趣味だ。自分がされて嫌なことは他人にするべきではない。余計な詮索を避けるべく、視線を本から外した。
 だが、俺のそんな思いをあざ笑うかのように、偶然は俺にまた嫌がらせをした。

 ──お待たせ致しました。電車が動きますのでご注意下さい。 

 車内アナウンスの言うとおりに気をつけていたはずだったが、再び動き出したの電車の振動で、よろけてしまった。吊り革を握っていたおかげで、大きくバランスを崩すことはなかったが、俺の目は避けていたものを捉えてしまっていた。
 何故、柏原がこの本を読んでいる? 柏原が手にしている本の存在に、すうっと冷たい空気が背中を通って行った。と同時に頭が凄まじい勢いで動き始め、俺の中にあった柏原の疑問を次々と解いていく。
 だから……なのか。

 俺には兄と弟がいる。
 饒舌で軟派な公認会計士の兄と寡黙で硬派なプログラマーの弟。
 外見や性格は真逆な奴らだが、二人には共通点もある。
 一つは早めに結婚したこと。そして、もう一つはタイプは違えど、どっちも天才肌の人間だということ。
 5つ年下の弟は成績にムラがあるタイプだったが、好きな分野に関しては突出した知識やセンスを持ち、高校時代にはプログラミングの全国大会で2年連続優勝という結果を残した。大学卒業後は大学時代に出会った天才達が設立した会社に加わり、うちの会社が受注を取るのに苦労している大企業からラブコールを送られるようなシステムを開発している。
 そして5つ年上の兄。
 ずば抜けた頭脳の持ち主で、大して勉強しなくてもテストで満点を取るタイプだ。全国模試で常に一桁台の順位を取っていたし、あっさりと最難関大学に合格した。
 俺は兄が勉強している姿を見たことがなかった。予備校には通っていたが、毎日というわけでもなく、家にいる時は漫画を読んでいたり、映画を観ていたり……常に余裕で飄々としていた。
 それは大学生になっても変わらず、勉強はそこそこにサークルやバイトに勤しんでいた。そんな兄が変わったのは大学3年の頃──公認会計士を志してからだ。大学よりも予備校で過ごす時間が多くなり、家でも勉強するのはもちろん、食事中でも参考書を手元に置いていた。行儀が悪いと注意されても、一秒でも時間が惜しいからと口にする兄の姿に公認会計士試験がとても厳しい試験だと悟ったのは言うまでもない。
 柏原が手にしている本は、兄が常に持ち歩いていた参考書と同じものだ。
 聞かなくたってわかる──柏原が公認会計士を目指していると。
 間近で兄の姿を見ていたから知っている──それがどれほど険しい道かを。
 そりゃ、そうだよな……。
 残業なんかしたくないよな。
 一秒でも多く勉強に費やしたいよな。
 仕事を増やされている場合でもないよな。
 勉強に使うエネルギーだって残しておきたいよな。
 届かないとわかった上で、参考書の文字を追っている柏原に心の中で話しかける。
 学生でも消耗する試験勉強を働きながらするのは、想像を絶する過酷さがあるはずだ。
 そんな奴に俺は何をした?
 教えられなくてもわかっている。とてもむごい仕打ちをしたのだと。
 柏原と関わるようになってからの自分の言動が頭を過ぎっていく。過去に戻れるなら自分で自分を殴りたい。
 何が「自分を低く見積もらせて楽しいのか?」だ。
 何が「今はいいかもしれないが、力を抑える癖がついたら後々後悔するぞ!」だ。
 そいつのバックグラウンドも考えずに、勝手なことを思っていた。走らざるを得ない人間に対して「たまにはゆっくり歩け」なんて、よく思えたものだ。俺は一体何様のつもりだ。

 ──本日は電車が遅れ申し訳ございませんでした。この電車は定刻より約20分遅れでの到着となります。
 車内に流れるアナウンスにはっとする。俺が一人自分を罵っている間に、電車はノロノロ運転でありながらも確実に進んでいたらしい。
 同じ駅で降りる乗客に押し出されるようにホームに出る。柏原は俺とは違うドアから降車したようだ。柏原は俺の存在に気づくことなく、ホームに溢れかえる人混みを器用にすり抜け、あっという間に俺の視界から消えて行った。
 俺は図らずも魔女の秘密を手に入れてしまった。だが、それは俺の愚かさや浅はかさを容赦なく暴いていった。まるで魔女の呪いのように……。
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