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エピローグ
(1)
しおりを挟む「ありがとうございました」
紺の制服を着た警察官に航大は頭を下げた。一体何に対しての礼なんだと心の中で自身に突っ込みながらスニーカーに足を突っ込む。
まだ靴を履いている航大を置いて、長身で仏頂面の警官が関係者専用の駐車場までどんどん進んで行く。小走りでその背中を追いかけると、駐車場に白いプリウスが停まっているのが見えた。秋宏のものだ。
航大は振り返って警官に会釈をすると、足早に車に向かった。
……ああ、シャバの空気はうまいな。
まさか現実世界でそのセリフを言える日が来るとは想像もしていなかった。自虐的に苦笑いすると、乗用車のドアが開いた。
「航大!」
こっち、と秋宏が右手を上げる。その顔は安堵で泣きそうになっていた。
「にいちゃ」
足を速めた瞬間、反対側の後部ドアがバン、と音を立てた。
航大は思わず足を止める。それから息も止まった。
生温い風が栗色の長い髪をさあっと撫でる。目の前にいるはずのない人を、航大は上瞼を引きつらせながら見つめていた。
「な、んで……」
秋宏の車から降りてきたのは未莉沙だった。未莉沙は痩せこけた体型をカバーするように、ゆったりとしたシルエットの白いワンピースを着ていた。
「なんで……」
もう一度しぼり出した声はひどく掠れていた。おそらく未莉沙には届いていないだろう。しかし未莉沙は呼応するように視線を持ち上げた。
「会いにきました」
その声は自分の声よりももっと掠れ、そして震えていた。
「あ、会いに来たって……まだ」
万全の体調じゃないだろ。そう続けようと口を開くと、秋宏の声がそれを遮った。
「未莉沙ちゃんは自分の意思でお前に会いに来てくれたんだよ」
「え……」
秋宏は何か言いたげな航大と未莉沙を交互に見やると、「先に車に乗っとくから」と一言だけ言い残して運転席に回った。
未莉沙はアスファルトをざり、と鳴らすとゆっくりと航大に近付いた。神さまが創り出したような美しい造形に、青白い隈と浮いた骨が痛々しく現れている。顔を顰めた航大は思わず未莉沙から視線をずらした。
足元に影が伸びる。
いつの間にか数歩先のところに未莉沙が立っていた。
二人は正面から向き合う形になる。
こうして見ると未莉沙は自分よりもずっと小柄で華奢だった。未莉沙は航大の瞳を掬い上げるように見上げると、困ったように笑った。
「こうしてちゃんと会うのは、初めまして。なのかな」
「……あ、うん」
なんとも言えない空気が流れ、頭が痛くなる。未莉沙の顔を見ることができない。
どうしてここに?
今日はどういったご用件で?
空っぽの頭をフル回転させながら口にする台詞を選別していくが、場合によってはどれも相手を逆撫でしてしまう恐れがある。
大人しく沈黙を飲み込むと航大は一歩だけ下がり、そして勢いのまま頭を下げた。
「この度は、本当に申し訳ございませんでした」
力無い謝罪の言葉がアスファルトに吸い込まれて消えていく。七月の日差しに焼かれた頭部がじりじりと熱をもつ。顔を上げることができず、足元にぽたりと落ちた汗をただじっと見つめることしかできなかった。
「航大くん」
「えっ」
勢いよく顔を持ち上げられ、視界がぐるんと反転したような感覚になる。目の前にはきれいな顔を寂しそうに歪ませた未莉沙がいた。両頬には柔らかい手が添えられている。
「謝らないでよ」
頬を挟む両手に力が入り、未莉沙から目を逸らせない。中腰で自分よりも小さい女の子を見上げるというなんとも滑稽な立ち姿だった。
航大はゆっくり未莉沙から離れると、顔色を窺うようにおそるおそる口を開いた。
「あの……俺」
「うん」
「こんな事件に巻き込んどいて会う資格なんて無いと思ってたけど、ずっと、謝りたくて……」
「誰に?」
「山本、さんに」
「だからどうして」
「どうしてって……俺は、君の人生を奪ってしまった。俺が何も考えずに行動したから、その……」
あの悲劇を思い出させる言葉を使いたくなくて、つい吃ってしまう。
未莉沙の肩がなやましげに下がる。
「もう知ってるかもしれないけど、私アイドル辞めたんだ。だからもうそんなに自分を責めないで」
「……っ、でも」
「あー! もう!」
未莉沙は頭をぶんぶんと横に振ると、航大の胸元を掴み、無理やりに自分の方を向かせた。
大切な夢を諦めたというのに、その瞳はまだ強く光っている。
「私はあなたに救われたの!」
航大のシャツを握りながら、未莉沙は涙混じりにつづけた。
「自分がどれだけボロボロになろうが体当たりで助けてくれて…… 航大くんは私にとってのヒーローだよ。でも世間ではあることないこと吹聴されて、だから……今度は私が立ち上がらなきゃって、自分なりに頑張ったの。地位も名誉も失ってもいい。だから航大くんだけは、なんとしてでも救いたかった……」
時折詰まりながら話す未莉沙。
「お願いだからこれ以上自分を卑下しないで。私の航大くんへの気持ちを、頭ごなしに否定しないでよ」
「俺への……気持ち?」
目にいっぱいの涙を浮かべる未莉沙。その頬に、未莉沙のものではない透明の雫がぱたりと落ちた。
「あ……」
呼吸が引きつる。のどの奥が焼けるように痛い。途端に堰き止めていた涙がどんどん体の内側から溢れてきて、未莉沙の肩にまた一粒、二粒と染みをつくった。
「……っ、く」
みっともなく涙をこぼす航大を、未莉沙は子どもをあやすように優しい眼差しで覗き込んだ。
「私を救い出してくれてありがとう。ずっと、ずっと会いたかったよ。航大くん」
気付けば二人とも涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。航大は何度も頷きながら、未莉沙を抱き寄せた。
「俺も、会いたかった。会いたかった。ずっと」
「うん」
「怖い思いさせてごめん、痛い思いさせてごめん……ごめん……」
「謝るの禁止。航大くんがいてくれたから乗り越えられたんだから」
「……生きてて良かった」
「航大くんが繋いでくれた命だよ」
ゆっくり体を離し、航大は未莉沙の濡れた頬を指で拭った。
体から伝わる温度。ゲームの中で恋した人が、今目の前にいる。
「ねえ。誕生日の約束、覚えてる?」
未莉沙は首を傾げながら不安そうに笑った。
忘れるわけがない。誕生日当日、自分はわざわざそれを買って持って行ったのだ。ひしゃげてぼろぼろになってしまったが。
「美味しいオムライスの店、ちゃんと調べてるから」
そう言うと、未莉沙はまた涙を流しながら笑った。
「航大くん」
「ん?」
「私アイドルの次になりたいものがあるんだけど」
「なに?」
少し身を屈めると、未莉沙はこそりと航大に耳打ちした。聞こえてきた単語に顔が熱を帯びる。
「え? あの、えっ……」
「責任、取ってくれるよね?」
顔を赤らめる未莉沙。航大は左右に視線を泳がせるが、最後は覚悟を決めたように頷いた。
「俺でいいの?」
「航大くんがいいの」
「俺といたら事件のこと思い出して辛くならない?」
「そりゃ思い出すかもしれないけど、哀しい気持ちを違うもので上書きしてくれるのも航大くんしかいないと思うから。私はこの先も、航大くんと一緒にいたい」
「……頼りない、男ですけど」
「ふふ」
「一生かけて責任取らせていただきます」
頭を下げると、頭上から「堅いなあ」と声が聞こえた。それから顔を見合わせてくつくつと笑うと、どちらともなくゆっくり額を近付けた。
「君が好きだ、未莉沙」
「私も」
ずっと触れたかった手を握ると、未莉沙は撫でられた猫のように目をほそめた。温度を確かめるように指を絡ませ、また強く握る。幸せな温かさにまた鼻の奥がツンとなった。
透き通るような七月の青空がいつまでも二人を包んでいた。
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