短編中編マーブル(大体恋愛)

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恋する吸血鬼と吸血鬼調教書~恋人バディ誕生までの紆余曲折~1

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 パッ、と赤い紅い花弁が舞った。
 とても濃くて禍々しい程に目に焼き付くその赤は、妖しげな美しささえ伴って自分の目の前に沢山沢山落ちてきた。後から後から落ちてきた。
 その人の胸は急速に真っ赤な花弁に埋もれていって――濡れていって、元のシャツの色さえわからなくなった。
 血の気を失った白皙はくせきの頬にも大小の花弁が降りていて、そこで全てが止まってしまった。
 思考も記憶も声も指先も全身の血の巡りさえも、まるで止まる事のない時が止まったかのように動かない。きっと自分は時間の狭間に捕まっているのだ。だから何もかもが停滞しているのだ。
 でなければ、到底受け入れられない。
 艶やかな黒髪を乱し両目を閉じて床に横たわる青白い横顔はピクリともしない。

 これは夢、悪い夢だ。

 いつも柔らかな笑顔で名前を呼んでくれるその人がこんな風に眠るはずがない。まるで彫像のように静かに微動だにせずに。
 ふと、頬の花弁に目がいって、そこだけ動き始めた現実に息を呑む。

 花弁から重力に従って一筋伸びる赤い筋。

 沢山散った花弁は花弁などではなくて、それは紛れもなく人の血で……。

「ァ……アアァッ」

 麻痺していた嗅覚がそれ特有の鉄錆に似た臭いを知覚する。

 その人はもう……。

 その日、きれいに片付けられたその人の私室で、自分はその人を驚かそうと隠れていた。五歳六歳の小さな子供にしか隠れられない狭い場所に猫のように体を滑り込ませて丸まって、息を潜め今か今かと待っていた。
 しかしこの日はいつも帰って来る時間を過ぎても戻らなかったので、待ち草臥れてそこで器用にも眠ってしまったらしい。

 人の話し声で目が覚めて、まさか見つかってしまったかと緊張に息を詰め細い隙間を覗いたら、その人が床に倒れる様が見えた。

 重力に従い仰向けにかしいでいく体。

 けれど床にぶつかる寸前で誰かに支えられ無防備に倒れ込む事だけは避けられた。支えた太い腕が静かに体を横たえる。
 その時の自分にはまだ一体何が起きているのかわからず、急激に夢の中にでもいる気分で気付けば忍び寄るようにして距離を詰め全部がちゃんと見える所で隠れている事にした。
 そう言えばもう外は暗くて、それなのに部屋は電気も点けられていなくて、窓から入り込む満月の光だけしか明かりがないのだと薄ら認識したが、そんな周囲の状況は然して気にならなかった。
 それよりもずっとずっとずっと目の前の光景に意識を絡め取られていたからだ。
 本当にその時はまだその人は気絶しているだけで、目視でも胸だってちゃんと上下しているとわかった。
 でも心配で、しかし一緒にいる大柄な男が何故か酷く怖くて助けに飛び出していけない。自分は無力でまだ幼く、男は強そうで大人で、自衛の本能が自分をその場に縫い留めていたのだからそれは仕方がなかった。

 ただ、未来の自分がこの日を回顧する時、もしあの時勇気を振り絞って異なる行動をしていたら結果は違っていたのだろうか、と自問する事になる。

 何故なら、その直後、男は正確に心臓という急所を貫いてその人の命を奪ったのだ。

 嘘だと思った。

「――ん? うおやっべ、子供が隠れてたのか」

 急に降ってきたその低い声に背筋が凍り付いた。
 男の存在を忘れて引き攣れた悲鳴を上げたのがいけなかった。血の花弁を降らせた張本人であるその大きな影は、隠れていた隙間の出口に立ち塞がるようにして逆光の薄闇の中、二つの目を爛々と深紅に底光りさせている。

 ――深紅。

「ここの子供か? 見られたとなりゃ面倒だな」

 殺される、逃げろと本能が警鐘を鳴らした。けれど恐怖の糸に縫い止められたように両脚は動かないし、元より出口を塞がれている。
 大きな影がこちらに手を伸ばしてきたのがわかった。迫る漆黒は未来の全ての希望を呑み込んでしまうような気がした。心全部が圧倒されて恐怖に震える反応すら起こらない。
 捕まる。
 終わったと思った。

「――玉露ぎょくろ、その子に手を出すな」

 まるで突き刺すような声だった。

 よく知っているのに今まで聞いた事のない冷たさの滲んだその人の言葉が耳朶を打ち、即座に顔を向けて目を瞠った。

 目の前の男と同じ深紅の瞳のその人は、生を感じさせない白い頬に自らの血を付けたまま床から半身を起き上がらせていたのだ。
 とうとう、これは夢なのだと本気で思った。
 死んでいるのに、生きている。
 いやその逆だろうか。

「だが見られた」
「心配ないよ。この子にも知る権利があるしね。にしても随分手荒くやってくれたものだね」
「目覚めれば皆同じだろう」
「全く……君には美学がない」

 血に汚れたシャツを引っ張って不満そうにしかめる顔には見覚えがあるのに、確かにそこに存在するその人は今や全く未知のものに変貌していた。

(この人は、誰?)

 ううん。よく知っている大好きな人じゃないか。

(違う。違う。違う)

 本質的に全く違う知らない存在だ。

(誰? 誰? 誰? 誰に……何になったの?)

「エーン? 大丈夫だから出ておいで?」

 思考から混沌が消えた。

 その人はよく間延びさせて自分――えんの名を呼ぶ。

 いつの間にかすぐそばにしゃがみ込んでじっとこちらを覗き込む深紅の輝きに、まるで思考をはらわれたようだった。
 頭が真っ白で何が何だかわけがわからないまでも、彼の言う事はいつも無条件に正しくて、無意識に手足を動かして素直に隙間から出た。
 顔を見て、その人が今日ここからいなくなると直感した。
 そんなのは嫌だ。とてもとても嫌だった。不安が面に出ていたのだろう。その人は聞き慣れた優しい声で自分に言い聞かせる。

「エーン、大丈夫。また会えるから。俺がちゃんと迎えに来るからそれまでいい子にしているんだよ。ね、エーン?」
「お、お兄ちゃ……」

 戸惑っていると、深紅の瞳が慈愛に細められる。
 いい子いい子しようと伸ばされた十も年の離れた兄の指先がボブカットの媛の軟い髪の毛を絡める。

 刹那、兄妹の触れ合いは第三者によって断たれた。

 文字通り、寸断されたのだ。
 部屋の窓ガラスを突き破って飛び込んで来た何者かが真上から振り下ろした一振りの日本刀によって。
 銀色の軌跡が走って目の前で切断された兄の腕。
 指先の力を失ったそれは媛の髪をするりと放した。
 ボトリと重い音を立てて床に転がった腕は、次には魔法のように砂だか灰だかになった。
 媛は、驚愕と戦慄のあまり悲鳴すら出せない。硬直した全身が息をする事さえも許してくれない。

「こんな住宅街で気配を隠そうともしないなんて、節操がないと見える」

 闖入者ちんにゅうしゃは言い回しこそ落ち着いているが子供特有の高い声で怒気も露わに刀を構えた。
 その背に媛を庇う位置に立ち、切っ先を兄達の方へ向けている。

「ははっ油断したな彰人あきと
「全くだね。まあ後で回復させるよ」

 確かに兄を刺し殺したはずの犯人の男が揶揄からかうように言うと、横に立つ兄は何でもないように苦笑した。その表には痛がる様子も焦る様子もない。肘より少し先を失いながらも平然と立っている。

「血が……出てない……?」

 一滴さえも、垂れていない。媛の視線を気遣ってかもう片方の手で切断面を隠した兄からはやはりというか、既に生きたにおいがしなかった。

「アハハ、でもまさかこんな可愛いハンター君に不意を突かれるなんてね」
「今のうちに摘んでおくか?」

(上手く息ができない)

「……いや。それじゃあ丸きり俺たちは悪漢じゃないか。美学に反する」
「おいおい」
「まあ玉露、君はそのままで十分悪人面だけど」

 そうかい、と兄の軽口に嫌そうな顔をする男は細身の兄と並ぶと背も高いし体幹も太くて巨漢と言える。

(息が苦しい)

「それに周囲も気付いただろうし、分が悪い。さっさと退散しよう」
「へいへい、こっちも疲れるのは御免だしな」
「エーン、それじゃあね」

 二人は便利な逃走路が出来たと言わんばかりにまさに今さっき割られたガラス窓から颯爽と出て行った。自身を殺した見知らぬ男とまるで旧知のように肩を接する兄が理解できない。どうして生き返ったのか、どうして目の色が紅くなったのか、それも媛のいる常識にはなくて何をどう考えればいいのかわからなかった。

(苦しい。苦しい。苦しい)

 目の前が暗くなってふらついて、すぐ前にいた誰かの背中にぶつかって転ぶ。

「うわっ」

 その小さな背中は焦ったが、途切れる意識の前では謝罪の言葉を告げる事も疑問を訊ねる事も泣く事も、あらゆる取るべき行動が塗り潰された。
 心が張り裂けるような悲劇を、媛が媛の中でなかった事にしたのかもしれない。自分を護るために。

 そしてそれきり、記憶の蓋は閉じてしまった。

 媛は初めから一人っ子で、自分以外の兄弟姉妹はいない。
 何の疑いも引っ掛かりもなく、この後十五歳を過ぎるまで媛は無意識に真実を葬る事になった。
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