目覚めたら妊婦だった私のお相手が残酷皇帝で吐きそう

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第4話恩人は兜だった

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 ヴィクトルが解放してくれる理由はハッキリとはわからないけど、この機を逃せば次はないだろうからさっさと退散するに限る。
 本音じゃ「私の侍女によくも乱暴な真似してくれたわねこの最低男!」って詰りたかったけど、そんな事をして気が変わられても困るから言葉を呑み込んだ。不甲斐ない主を赦してジャンヌ……っ。
 さあ帰ろ帰ろおうちに帰ろ~ってそそくさとジャンヌを促して一歩を踏み出した私は、しかしそこで動きを止めた。

「お嬢様?」

 私より先に進んでしまったジャンヌが怪訝そうに振り返る。

「……またこんな招待が頻繁にあったら心臓に良くないわ」

 私は私だけに聞こえる声で呟いた。
 ここは一つ、策を弄するって程の巧妙なものじゃあないにしても予防線を張っておいて損はない。

「ジャンヌ、先に行って馬車の手配しておいてくれない?」
「え? ですが……」
「大丈夫。ちょっと言い忘れがあっただけだから。終わったらすぐに行くわ」

 お願い、と念押しすると彼女は私が心配なんだろうけど、その本人からの命令でもあるってわけで渋々と従ってくれた。
 まあこれはいざって時に飛び乗って出発進行~って逃げられるようにって布石よ布石。ヴィクトルみたいな超スーパー魔法使いの前で通用するのかどうかは考えない、うん。
 ともかく、ジャンヌがいなくなってからようやく私は彼の方へと顔を向けた。
 ぶっちゃけこの人だって暇じゃあないだろうにいつまでこの場に留まってるのかなって思う。私に帰っていいって言った時点でさっさときびすを返して公務に戻るのかと思ってたから意外や意外ね。
 律儀にお見送り? あははまさかねー。

 彼にとってアデライドは特別っちゃ特別だけど、それはあくまでもお気に入りって範疇だと思う。皇帝としての避けられないお世継ぎ問題的にもまあこいつとなら結婚しても悪くはないかってくらいにしか思ってないと思うわけよ。きゅんと恋してる感じはなさそうだもの。

 それに妊娠がバレたら如何にお気に入りだろうと問答無用で殺されると思う。

 だってヴィクトル・ダルシアク皇帝陛下って男は血も涙もない危険な奴で、大目に見てもらえてるからって余裕ぶっこいてると、気付いたら首と胴が離れてましたー……なんて笑えない結末も冗談抜きにあり得る。現にさっきだって乱暴に顎を掴まれた。最低よ。

「ねえ、一つ良い?」

 もう今更言葉遣いを丁寧なのに戻してもかえって不審を被るとの判断の下、そのままの口調で訊ねれば、向こうはほんの少し眉を動かした。だ、駄目だったですかあ~?

「言ってみろ」

 ほっ、大丈夫そう。

「ええとあのね、本音を言えばあなたと関係しちゃってからこっち、まだ気持ちの整理ができてないのよね。ああ怒ってはないの、私は」
「……それで?」
「うん、それで悪いけどしばらく招待とかそういうのは勘弁してほしいかな。整理が付いたらこっちからお茶にでも招待するから」
「しばらく……」
「そうそう、しばらく。だからそれまで待ってほしい。直接顔を合わせるのはなしで」

 皇帝陛下をご招待ってのは正直恐れ多いけど、この男主導で行動させるわけにはいかない。アプローチはこっちからって体裁を整えないと不都合があり過ぎる。

「……私の顔を見たくない、と?」

 目付きが険呑になって空気が刺々しくなった。

「そそそそんな事は思ってないっ。まだあなたのその恐ろしくハンサムなご尊顔を直接拝して話すのは、アレした日を思い出してストレスなの!」

 アデライドの記憶を覗くのは無声映画を観る感じでもあるけど、彼女視点でスクリーン一杯にこの美形とのアレが流れてるって何の嫌がらせよ。しかも肉体美の塊な上に妙に艶っぽかったのよこの男っ。そりゃあ令嬢達が騒ぐわけよ。
 まっ、私はいくらイケメンでも乱暴者は願い下げだから間違っても好きにはならないけどー。

「……ストレス、だと?」
「あっええとその~、はっ初めてだったから色々としんどかったって言うか、ほら女子って大変だから! 媚薬も使われてたしそのせいか体調も崩しちゃったし、まだ時間が必要なの!」

 どう大変かそこまでよく知らないながらも力説してみれば、ヴィクトルは押し黙った。

「ね? だからお願い時間を頂戴。ううん、下さい!」
「…………」
「招待する時は、どこの王様の結婚式かってくらいに誰もが羨む滅茶苦茶豪勢なお茶会にするから!」
「…………豪勢な結婚式?」
「そうそう豪勢な結婚式……じゃなくてお茶会ねお茶会!」
「…………」

 豪華だろうと何だろうと臣下の屋敷になんぞどうして行かにゃならんのだとても思っているのか、彼は眉根を寄せて難しい顔をしたけど駄目だとか嫌だとは言わなかった。……良いとも言わなかったけど。
 つい最近までおよそ二カ月とちょっとの会わない空白期間があったんだし、次もそのくらいは平気よね。二カ月もあれば女子修道院にトンズラも余裕~。
 ……って言うか、何か反応して。気まずいような落ち着かない沈黙の中いつまでもここに留まっていたくないんだけど。
 返事がないならもうこっちの解釈で行かせてもらう。

「では承諾っと言う事で、宜しくお願い致します。改めてご機嫌よう、ヴィクトル・ダルシアク皇帝陛下」

 終わり良ければってわけでここだけお嬢様口調に戻して、一応はスカートの裾をちょっと抓んで持ってレディの挨拶ってものをした。
 そうやって顔を上げて踵を返し掛けて、ふと目に入った赤に思わず足が止まる。
 ……正直お腹の子がやったってのはまだ推測の域だし、こっちが悪いとも思わない。思わ……ないっ、けどもっ。
 私は猛烈に迷った末に彼の前まで戻ると蝶々模様のハンカチを取り出して手に巻いてあげた。

「この手、私は謝るつもりはないけど、早くきちんと消毒して手当てした方がいいわよ」

 この人って何となく自分の怪我とか病気とかに無頓着そうだなって思ったらついついお節介焼いちゃったけど、彼はこれにも明確な返事を寄越さずゆるりと瞬いてこっちを見ているだけだった。いやだからさあ、その沈黙が怖いんだってば!
 話はもうないしとっとと背を向けて歩き出したものの、もしやまだこっちを見ているのかと思ったら、ちょっと強引な締め方だったし腹を立てた彼に背後からグサッとか刺される想像が浮かんだ。
 言い知れない緊張が込み上げてそろ~りともう一度念のためこっそり後ろに視線をやる。

「……まあ、向こうだってそう暇じゃないか」

 石の廊下には誰の姿もなかった。




 迅速に馬車の手配を完了させていたジャンヌと一緒に夕方ロジェ家に帰宅して、その日のうちに父親のロジェ伯爵からは女子修道院行きの許可をもらえた。

 馬車から降りて屋敷の使用人に伯爵が在宅なのを確認したその足で彼の書斎へと向かったの。
 最初は予想した通りヴィクトルと疎遠になるのを心配して渋られたけど、とある文言を添えたら簡単にもらえた。

『――実は、皇帝陛下をとても怒らせてしまいました』

 帰りまでにはその怒りも解けたけど、実際に怒らせたし嘘はついてない。
 侍女のジャンヌも「お二人には冷却期間が必要かと」なんて台詞を皮切りに、追い掛けられた挙句廊下でヴィクトルが詰め寄ったりした彼の一連の行動を蒼白な面持ちで伯爵に説明してくれた。ナ~イスアシスト!
 話を聞いた伯爵は、目敏くも私のドレスに付いていた微量の血にも気付いて愕然としていた。その血は何だって問われたけど、私は曖昧に笑みながら「ええとまあ色々ありまして」なんて敢えて言葉を濁した。あの時気絶中だったジャンヌにだけは事実を話してあったから、彼女はここじゃ伯爵に勘ぐられるような下手な動揺は見せなかった。
 伯爵にヴィクトルの怪我の件を隠したのは、聞いた途端に泡でも吹いて倒れそうだったからだけど、正解だった。
 彼は娘が皇帝の残虐行為の場に居合わせて、その際に飛び散った血が付着したとでも勝手に想像したんだろう、こうして五体満足で帰ってこれただけでも大ラッキーって思っているようだった。蒼白な顔で一人その場に両膝を突いて指を組んで滂沱と涙して天に感謝していた。
 伯爵夫人は確実に卒倒するからとこの場には呼んでいなかったのも正解だった。
 怒らせてしまった陛下への贖罪の気持ちを明確に見せるために、女子修道院で一年は祈りを捧げたいって話したら、少なくともそこに居る間は命は取られないとでも思ったのか、涙を拭いた伯爵は神妙な面持ちで「わかった」とゆっくりと頷いてくれたっけ。
 寄付と称した滞在費用も出してくれるって。やったー。
 まあでも先に女子修道院の方に意向を伝えて先方の返事を待って、部屋を準備してもらうのも当然オーケーをもらえてからだから、すぐには出発はできないみたい。そこはまあ仕方がない。
 私はその日のうちにムンムにも報告した。
 彼からは必要なら自分でも少し金品を持って行った方が何かあった時に役に立つだろうってアドバイスをもらった。彼曰く、決して清貧な修道女シスターばかりじゃないらしく、中には隠れてがめつく蓄財する不道徳な者もいるんだとか。
 そっかそういう相手を見極めて金をチラつかせれば、便宜を図ってもらえるってわけか。
 ふぉっふぉっふぉっムンムも中々にワルよのお~。まあ賛同した私も大概だけど。
 善は急げって言うし、明日にでも宝飾品を幾つか見繕って換金しよう。そう決めて、その日は精神的に疲れはした日だったけどトータルで見れば無事生きてるし計画も順調だしで、穏やか~な気持ちでベッドの上で目を閉じた。すや~。

 翌日、早速と侍女のジャンヌを連れて帝都の中心街に出掛けた。

 帝都の中心街には皇帝様の坐す宮城の他、教皇を戴く中央教会があり、その二つを一本線で結ぶ長~い大通り沿いには各種専門店が寄り集まっている。店舗も本店が多いのか他の地方にはない絢爛さで、業種を問わず見栄えを競い合うように軒を連ねていた。それもやっぱりここが国の中心たる帝都だからだろう。人通りだって大都市らしくいつも盛況だ……と、よくここに買い物に来ていたアデライドの記憶からそんな知識を得た。

 ただその煌びやかさ賑やかさは、一歩薄暗い裏路地に入れば鳴りを潜めるらしい。

 私は宝飾品を入れてきた小物バッグを手に馬車を降りると、御者に待っているように伝えてからジャンヌと連れ立った。
 目的地は通りの並びにある質店。
 路肩には他にも多くの馬車が停まっていたから、質店のすぐ前には停められなかったの。まあだけど歩いたって微々たる距離だから支障はない。

「ジャンヌはどこか寄りたい店はない? あればついでに寄るけど?」
「滅相もございません。お嬢様のお買い物の最中にどうしてこちらの買い物などできましょうか!」
「ついでなんだし気にする事無いのに」

 苦笑していると、前方の細い横道から突然小汚い服を着た子供が飛び出してきた。
 しかもその子はどうも私の方に突進してきている。

 えっこのままじゃ身長差的にタックルを噛まされるんじゃない?

 ――お腹に。

 これはきっと映画なんかじゃよくあるスラム街に暮らす少年がお金持ちから金目の物を盗もうとしているシーンと同じで、私に体当たりして転ばせてその隙にバッグを引ったくるって算段だろう。
 だけどこっちだってむざむざとお腹に攻撃を受けるわけにはいかない。
 それだけは絶対に駄目。
 今は宝石よりも何よりも大事な宝がいるんだから。

「お嬢様!」

 遅ればせジャンヌも気付いて叫んだけど、彼女は私の斜め後ろを歩いていたから余計にガードには間に合わない。

 でも心配無用。私は持っていたバッグを放り出して少年の狙いから外れる――はずだったんだけどおおお!?

 少年はこっちの予想と目論見通り私の高級バッグを目で追ったものの、馬車と同じで人だってそんなに急には止まれない。

 悪い事に私から目を逸らしたせいで足をもつれさせ、慣性に従って頭からこっちに突っ込んでくる。

 人間鐘突きーーーーッッ!?

 反射的に身を屈めお腹を両腕で庇って少しでも衝撃を和らげようと後ろに身を引いた。
 ぎゅっと体に力も入れ、筋肉のこの強張りが己の体を少しでもよろうように強固にするのを願った。

 だけど二歩くらい下がった所で背中が何かにぶつかった。

 え、嘘でしょ?

 後ろって壁だったっけ?

 だとしたらもろに少年と壁に挟まれて圧迫される!

 冗談じゃないっ!

 一秒にも満たない間に焦った私だったけど、両脚が掬われるようにしてふわりと体が浮いた。

「いっっってえええ!」

 直後、鉄板か何かに物体がぶつかるような鈍い音がして、少年のものだろう甲高い悲鳴が上がった。

 ななな何事!?

 わかるのは自分が誰かにお姫様抱っこされているって感覚くらいだ。
 両腕を体の前で縮こめて見上げた先の顔は逆光だったけど、細部は見えないながらもそのシルエットから相手が何かはハッキリとわかった。

 ――騎士兜ナイトヘルメットだった。

「……はい?」

 しかもフルフェイスタイプの大兜だから中身が誰だか全くわからない。こっちからは目元すら見えないし。
 もう一つ言えば、神々しくもシルバーに輝いてて眩しい。ピカリーンと兜の輪郭に沿って日の光が反射した。
 ちょっと磨き過ぎじゃない? まあ血がこびり付いてても嫌だけど。

 何はともあれ、まるで西洋風冒険ファンタジーゲームの中に出てくるようなカッコイイ銀甲冑の騎士様が私を助けてくれたらしかった。

 まあけど、こっちの世界にまだまだ馴染みのない現代日本の一庶民的には、中世の西洋兜なんてシュールな代物を被った相手が白昼堂々突如眼前に現れた日には、騎士様ドキドキキューン……なんてならない。

「お、お宅、どちら様ですか……?」

 私は感謝どころか思いっきり不審者を見る目で誰何していた。




 明らかにドン引きした私の問い掛けにフルフェイス兜の騎士から答えは返らなかったものの、無言のままゆっくりと私を地面に下ろしてくれた。
 慌てて駆け寄ってきたジャンヌから上から下までどこも怪我はないかを確かめられながら、私は騎士のすぐ傍に立って銀ピカの金属表面を視線でなぞるように見上げる。
 背も高いし逞しそうだし甲冑の中の人はたぶん男だろう。
 そう言えば帝都じゃ治安を護るために皇帝直属の騎士達が巡回しているんだっけ。
 咄嗟にうっわ不審者って思っちゃったけど、この世界じゃ甲冑を着た人間が街中を闊歩していたって何ら不思議じゃないんだった。何かごめんねー。

 でも、んん? 通りの向こう側に居る彼の同僚っぽい騎士二人は兜なんて被ってないけどお?

 二人共まんま素顔を出している。

 出で立ちだってこの人みたいに全身真っ銀銀な重装備じゃなくて、肩や胴体に合わせた防具を当てている他はすね当てや籠手こてを付けているくらいだ。軽装備って言っていい。
 武器は各自種類が違うのか腰に挿したり背中に背負ったりしてるけど、格好良くマントを靡かせてキラーンと白い歯を光らせたナイスガイな笑みを浮かべて、私を助けたこの騎士が戻るのを待っている。……騎士って無駄にイケメンが多くない?

「チクショ~ッまたあんたかよ鉄兜! いつもいつもオブジェかってんだ! 騎士は市民を護るのが務めなのに害してんじゃねえよ今のすっげえ痛かったホントめっちゃ痛かった慰謝料寄越せ!」

 わ~理不尽な訴えかつマシンガントーク。
 実技はいまいちでも口は達者な少年は石畳に尻餅をいたまま涙目で脳天を擦っている。たんこぶできたわねこれは。
 年齢は身長から判断するなら七歳か八歳くらい?
 でもすごく痩せてて栄養状態が芳しくなさそうだから、もしかするともう少し上なのかもしれない。何しろ小賢しそうだもの。

「おいこら聞いてるのか鉄兜!」

 少年は尚もギャースカ喚いて図々しくも被害者面をしている。
 言っとくけどお腹の子に何かあったら私は君を赦さなかったよ。
 ……またお腹の子が自分で魔法を使ってヴィクトルにしたみたいに弾いたかもしれないけども。それを考えたら、頭が血塗れの少年なんてスプラッタ~な姿を見たくはなかったから、やっぱりぶつからなくて良かったね。

「ちょっと少年。今のは自業自得よ。まずは私に言うべき言葉があるんじゃないの? え?」

 腰に両手を当てて悪役令嬢みたいに上からメンチを切ってやれば、少年は怯んだように「うぐっ」と息を詰まらせた。
 絶対に甲冑騎士の方が怖いと思うのに、どうしてぷりぷりしてても可愛い顔のアデライドには怯えるのよ。

 もしかして実はこの甲冑の人……ちょー弱い、とか?

 少年は「またあんたか」とか言ってたし、彼はどう見てもこの街で貧民として育ったんだろうし、顔見知り……いや兜見知りなのかも。
 とにかく、少年は急に大人しくなって俯いた。ろくに整えていないボサボサで長めの茶色い癖っ毛が彼の顔を隠したけど、毛先がフルフルと震えているから怯えているのがわかる。垣間見える涙目。……何だか捨てられた毛玉の子犬みたい。かわいそ可愛いようなー……?

「レディ、どうぞ」

 同情だか萌えだかが形をなす寸前で、視界にぬっと私の小物バッグが差し出された。気を利かせて銀の騎士が路上に落ちていたのを拾ってくれたらしい。正直ちょっと存在を忘れてた。
 ジャンヌはバッグよりもこの少年が私に危害を加えないかって心配してぴったりと傍に張り付いていたから、拾いに行けてなかったのよね。

「あ、どうもありがとう」

 って言うか何よー、この騎士様ってば喋れるんじゃない。
 声はくぐもっていて聞き取り辛いけど、知らない声。
 なーんてうっかり気を逸らした隙に、少年は起き上がって脱兎の如く駆け出した。

「ああっ逃げないで!」

 伸ばした私の手は僅差で空気を掴んだ。
 思わず歯噛みしたけど、直後甲冑の重さを感じさせない疾風の如き動きで騎士が少年の首根っこを捕まえてきた。

「放せよっ放せっ!」

 少年は手足をバタつかせて暴れたけど、逆に甲冑に素手をぶつけて痛そうに顔をしかめた。

「オレまだ何も盗ってねえだろ! 放せよ!」
「あのねえ、未遂でも立派な犯罪なのよ」
「レディ、この子をどうしましょうか? いつもは携帯食を少し分けてやって見逃してやるのですが、今日はよりにもよってレディに無礼を仕出かしたので、少々灸を据えてやる必要があるかと」

 悪い事をした子供を叱るのは大人の役目だけど、それよりも私には気になる点があった。

「騎士さんはこの子を餌付けしてるの?」
「餌付け? ハハッまさか。自分はこの子の生活全般を助けてはやれないですけど、せめて腹を少しでも満たしてやれればとは思ってますよ。某たち騎士だって腹が減っては生きていけませんから。戦場などでは特にね。食事は大事ですよ」

 こういう子を放っておけない質の良い人みたいだけど、うん、つまり結局それは餌付けよね。

「ええとじゃあとりあえず、下ろしてあげて」
「わかりました」

 少年は唐突に放されたせいか、ドサリとまた尻を打って「いって!」と悶えた。

「はい君、私に何か言う言葉は?」

 身を屈め目線を近付けた私へとビクビクしながらも、少年は決してその目を逸らそうとはしない。あら、これは中々に根性がありそう。

「路上強盗を働こうとしたんだし、もしも捕まったら大目玉食らうってわかってるの?」

 自分の行為が良くないって自覚はあるのか彼は眉尻を下げて視線を俯けた。

「全く、これで済むのを感謝しなさいね?」

 制裁の意味合いを込めて額にデコピンをしてやると、彼はパッと顔を撥ね上げ信じられないって色を宿した。

「こ、これだけ? 殴らないのかよ?」
「どうして。殴って欲しいの? 手が痛くなるし嫌よ」

 少年はまるで救われたような顔をした。
 ああ、この子は……。
 汚れててわかり辛いけど、頬に幾つか痣がある。困窮して以前にも盗みを働いたんだろう、その際に捕まって殴られた痕に違いなかった。
 大都市の光と闇。
 いつの時代の歴史を見ても、とある国家の栄光の陰には光から零れ落ちた人々がいる。
 私は少年の頬に無意識に手を伸ばして触れていた。痛かっただろうなって思ったら何かね、私が小さい頃怪我したらよく「痛いの痛いの飛んでけ~」って親とか祖父母なんかが撫でてくれたのを思い出しちゃったんだよね。
 少年がハッとして大きく目を瞠る。

「なっ、オレ、よっ」
「よ? そんなに驚かなくても。痛いの痛いの飛んでけ~って知ってる?」
「え? でもっ、オレ、よよよっ」

 驚き過ぎて硬直して上手く言葉も出ないようだった。

「よよよ?」

 騎士がふはっと噴き出した。

「ハハハ、ジョンの奴はレディのその綺麗な手が汚れると心配したんですよ。ほら、見ての通りに何日も体洗ってなさそうでしょう?」
「ああ、それで……」

 驚きもあるだろうけど、叩かれるかもって怯えもしたと思う。手先が汚れたくらいで叩かないよって笑い飛ばしてやりたかったけど、この世界の上流階級の中には平気でそんなのもいるのは事実だって私はもう知ってる。
 ……まあ頂点に坐すお方からして超絶物騒だものねえ。ただ、あの人は汚いからって理由じゃその相手を害したりはしないと思うけど。
 私が一人悶々と世界の不条理について考え始めていると、ジョンって名らしい少年はすっくと立ち上がった。

「わ、悪かったよ!」

 それだけを言って今度こそ脱兎以上に脱兎の如く走り去っていく。
 
「捕まえますか?」

 騎士の問い掛けに、私はやんわりと否定に首を振った。

「ううん、いい。反省はしたみたいだから」

 とうとう少年が横道に消えて、私は視線を転じてまじまじと甲冑騎士を凝視した。

「何か?」
「ええとその、助けてくれて本当にどうもありがとう」

 これは嘘偽りのない本心。そして奇抜な相手過ぎて危うく言うのを忘れるところだった言葉でもある。

「そう気になさらずともよろしいですよ。レディを護るのは騎士としての存在意義かつ本分ですから」
「騎士の鑑ね」
「恐縮です」
「おおーいエドゥアール隊長! いつまで油売ってるんですかー!」

 通りの向こうの騎士達がとうとう痺れを切らしたようにして声を投げてくる。
 隊長って呼ばれてるし、イケメン騎士達は彼の部下だったのね。

「今行くって。それではレディ、どうぞお気を付けて」
「え、あ、ちょっと待ってエドゥアールさん!」

 踵を返し掛けた騎士は、無表情に……って兜だから当然だけど、振り向いた。

「ははっエドでいいですよ。さん付けもいりません。何でしょう?」
「じゃあエド、エドと連絡を取るにはどうしたらいい?」
「某と、ですか?」
「うん。あなた達って依頼すれば道中の護衛なんかもしてくれるのよね?」
「ええまあ、行き先にもよりますが」
「馬車で三日くらいの距離なんだけど」
「そのくらいなら調整はつきますね」
「良かった」

 女子修道院まで何事もなく到着するためにも騎士の護衛は必要ってムンムとも話していたのよね。
 貴族達は、領地に居る間は大抵がその家その家で護衛や私兵を有するからわざわざ依頼なんてしないけど、社交シーズンや何かで帝都で過ごす間は、反乱でも起こす気なら別だけど皇帝の許可なく私兵をぞろぞろと連れては来れないから、護衛が必要な場合は民間か帝国の騎士団に依頼するのが普通だった。
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