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第二部
118 ヒロイン不在の復活者
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軍医マクスウェルの取り調べはウィリアムの肝入りで行われるということで、担当の取り調べ官たちは手抜かりがないようにと慎重に尋問を行った。そんなわけで、吸血事件の一連は人形魔法のことも含め余す所なく明らかになった。
ザックを襲った兵士二人は操られていたという点から、実質お咎めなしだった。
釈放されて王都警備の任務に戻った二人は、それでも入院中のザックに負い目を感じて、毎日彼の病室に顔を出しているらしい。
これで王都を騒がせた吸血事件一連は解決し、安堵する王都民たちの話題は驚きの犯人の正体でしばらくは持ちきりだった。
しかし誘拐事件については多くが隠蔽された。
アイリス・ローゼンバーグという名も出なかった。
軍医は王国軍人としての籍を剥奪され中央牢の住人となったが、ことアイリスに関してはウィリアムからの圧力で口を噤まされたのだ。
司法取引同然に減刑がなされたわけではない。
彼自身求めることもなかったと聞く。
吸血犯としての厳しい実刑は免れない。
それなのにどうして黙して隠蔽に従ったのか?
それは利害の一致という部分が大きい。
アイリスはアーネストに連れ去られ、ウィリアムは彼に大きな敵意がある。
そしてマクスウェルもアーネストへの恨みを消してはいない。
ウィリアムは恋人を取り戻し、いつかアーネストの過去の罪を裁かせるつもりだと告げ、それを取引として元軍医は余計な言葉を呑み込んだのだ。
敵の敵は友とはよく言ったもので、そういうわけで双方は協力関係になった。
ウィリアムが情状酌量をさせなかったのは、アイリスに怪我を負わせたことを赦したわけではないからだ。
元軍医の方も彼のその怒りを察していたし、牢獄で過ごして我に返ってみれば、血が目的とはいえ無為に少女を傷付けたという自責は湧いたために、減刑を訴えなかったのかもしれない。
そんなわけで、ソーンダイク家の旧邸宅が元軍医の人形魔法の隠れ家とはされたがそれだけで、直接事件に関わるという意味でのアーネスト・ソーンダイクという名も結局表には出なかった。
アーニーという少年は無事に家族の元に戻ったとされ、リズという娘も故郷に帰ったとされた。書類にはそのように記録され、あたかも取るに足らない小さな事件だったかのようにひっそりとファイルの奥に仕舞われた。
「アーニーの素姓はわかっているんだし、アイリス嬢に会わせてくれって会いに行けばいいだろう。応じないなら公爵家に乗り込めばいい」
王都に留まっての事件の事後処理の片手間に処刑どころに顔を出したウィリアムへと、ホールのテーブルに水を出してやったマルスが不満の眼差しを向ける。
事件の片はついたが、アイリスの行方は依然として知れないのだ。
しかし匿っている相手はハッキリしている。
紅茶かコーヒーの一つでも出せなどとは言わず、ウィリアムはかと言って水にも手を付けず、椅子に腰かけたまま息を吐き出した。
「素姓がわかっているからこそ厄介なんだ。しかも彼の領地のどこに居るのかもわからない。わかったとしてもタウンハウスでそうしたように無断で屋敷に侵入していい相手でもない。向こうに気取られれば面倒を招く。何しろ彼は年若いがこの国の公爵だ。無礼を働けばこちらの不利になりかねない」
マルスは休めの姿勢になると、手にしていたモップの柄に両手と顎を乗せた。お情けで水は出してやったが現在は日課の掃除中なのだ。
店主がまだ入院中なので店の営業はしていないが、留守を預かる者として毎日掃除は欠かさずにしているマルスだった。
因みにその店主ザックは気力で怪我を治し……たわけではないが、回復は順調で明日には退院してくる。
「あんたも同列に偉い公爵家の人間だろう?」
「爵位を継いでいるのといないのとでは立場が異なる」
「ああ……次期頭領と現頭領とじゃやっぱり違うからな。けどそういうの一応あんたも気にするんだな」
ウィリアムは半分では失礼なと腹を立てながら、もう半分ではちょっと虚を突かれたようにした。
言われてみれば自分は慎重になり過ぎている気がしないでもなかった。ソーンダイク家のタウンハウスに無断で侵入した勢いはどこに行った、と。しかも自分たちが入った事はアーネストは既に知っているだろうし、もう一つ二つやらかしたところで大して差はないのではないだろうか、とも思った。
仮に大ごとになったとしても、形振り構わずアイリスを奪還して二人でどこか遠くに行っても悪くはないのだ。
実際、彼女が処刑されると聞いた時はそうしてもいいと考えた。
しかし当時も今もそうしないのは、最善ではないとわかっているからだ。この世界に馴染み始め歩み始めた彼女に、一切を捨てる選択をさせたくなかった。
悪役令嬢的な立ち位置にいたせいでまだまだ彼女に私怨を抱く者は少なくはないだろうが、それを乗り越える力が彼女にはきっとある。
いつ地球に戻るとも知れない状況だが、この世界で誰に追われる心配もなく周囲に祝福される権利がアイリスにはあって、自分はそんなアイリスと寄り添って生きていきたい。
それがウィリアムの一番の願いだ。
「……不要な軋轢は後々災いの元だからな。まあ、こちらも準備を整えてから正式な訪問のアポを取るつもりだ」
「お貴族様って本当に面倒だな。何にしろ、僕もあんたに協力させてくれ。アイリス嬢を護るって誓ったんだ」
「へえ……それはまた頼もしいことで」
ウィリアムの声音には微かな苛立ちが滲んだが、彼は笑みの奥にその嫉妬心を押し込めた。
マルスは粗暴な山賊たちの中で育ったにもかかわらず生真面目に過ぎる。
服装をきちんとすればどこかの貴公子と紹介しても誰も疑わないだろう。
会った当初は互いに敵意もあって会話もろくに続かなかったが、アイリスの救出に向けて行動を共にしているうちに慣れたのか、今は普通に会話だって出来ている。
マルスは基本人と接するのが苦手なのだと思っていたが、予想に反して環境への適応は早いようだ。
とは言え、アイリスが関わる事以外口数は少ないが。
「マルス、ザック殿が戻ってきたら、アイリスの件とは別にお前に一度来てもらいたい場所がある」
予期せぬ話題の転換と存外真剣な面持ちのウィリアムに、マルスは不思議そうな顔をした。
「どこに?」
「マクガフィン家」
今度はちょっと面倒臭そうな顔になった。
「何故?」
「それは…………来たらわかる。先日、とある人物がうちを訪ねて来た。エリオット、と言えば誰だかわかるか?」
「なっ親父殿か!? けどどうして親父殿があんたの家に? 山賊の頭がそもそもアジトにいないでどこをほっつき歩いてるんだ」
はあーと盛大に嘆息するマルスへと、ウィリアムは多少言いにくそうにした。
「事前に聞いていなかったのか。アジトは引き払ったそうだ」
「何だって!?」
マルスの仰天と言って良い様子には、少しの傷心が垣間見えた。
拠点の移動などされては実家がなくなったも同然で、しかも何も言わずに姿を消したのだ。信頼できるザックの元に送り出してくれたのは良いが、捨てられたようにも感じたのだろう。
「親父殿は、あんたの家にまだいるのか?」
「いや、来たその日にどこかに去った」
「そうか……親父殿は見た目通りの野ゴリラ……いや自由人だからな」
きっと連絡手段はあるはずだと自分に言い聞かせるように呟いて近くの椅子に移動して肩を落とすマルスへと、ウィリアムは気休めの言葉は掛けなかった。
親子の形はそれぞれだ。たとえ父親を野猿どころか野ゴリラ呼ばわりしようとも。
「ところで、また話は変わるがアイリスの持っていた日記が今どこにあるか知っているか?」
「……日記? ああ、もしかして表紙に堂々とアイリス日記って書かれているあれか? 確かザックが表紙の修復をしてやってたやつ」
「表紙の修復?」
「僕がアイリス嬢を見つけた時から日記には剣での刺し傷があったんだ」
「そうなのか」
以前ウィリアムが記者に変装して得た証言には、アイリスが崖から落ちた際にそんな話もあった。
自分の居ない所であのお気楽そうな日記がちゃんと彼女を護ってくれたのだと思えば、感謝の念が湧きもした。
「日記は彼女の部屋に置いてあると思うけど、人の日記を盗み見るとか感心しない」
「中身に用はない」
「日記の存在意義って……」
「とにかく、あるのなら見せてくれ」
ウィリアムの様子は決して恋人のプライバシーを覗き見ようとするものではなく、それでいてふざけているわけでもなさそうだ。
「――断る。見たいならアイリス嬢の許可を取れ」
しかしマルスは頷くわけにはいかない。
淑女の部屋を勝手に漁るなど男として最低だ。
「彼女はここにはいないだろう」
「だからだよ。無事に取り返すんだろ。それから本人に直接訊けばいい」
一種の願懸けにも似た物言いに、ウィリアムは暫し黙り込む。
マルスもアイリスの無事な帰りを切望しているのだとよくわかるからだ。
しかし、マルスはあの日記が何であるかを知らないのだろう。
現在アイリス・ローゼンバーグを取り巻く状況は前と反転したと言って良い。
ウィリアムとしては、あの日記と話して何か一つでも多く情報を得たかったのだ。
「そうだな。わかった。アイリスが戻ってきてからにしようか」
しかし融通の利かない少年相手にどれだけ粘っても無駄だとさっさと判断して、彼は引き下がった。
「それじゃあ明日、ザック殿が退院してきた頃合いを見てまた顔を出す」
「わかった」
――ただし、この場では。
その日の深夜、マルスがとっくに寝入った頃を見計らってウィリアムは魔法でアイリスの部屋に忍び込んだ。
日記を探しに来たのだが、彼は暗闇の中で周囲の何にも手を触れずに佇んだ。
「おい、アイリス日記、いるなら返事をしろ」
極力抑えた声で問い掛ける。
しかし応えはない。
「タヌキ寝入りか? 俺が誰かわかっているだろう? アイリスの件でお前と話をしたい」
室内には物音一つしない。
日記が喋らなくなったことを知らないウィリアムは苛立って、日記本体を探そうと周囲に目を走らせる。
「何だすぐそこにあったのか」
日記は机の上に筆記具と共に置かれていた。
手を伸ばして取ろうとした矢先、
「――泥棒!」
部屋の扉が勢いよく開け放たれ、ランプを手にしたマルスが使い慣れた短剣を片手に斬り掛かってきた。
山賊としての経験値の賜か、マルスは縄張りに入り込む他者の気配にとても敏いようだ。
咄嗟に応戦したウィリアムはマルスの手からランプを弾くと短剣を持つ方の手を掴んで押さえた。
「泥棒め、大人しくお縄に付け!」
「待てマルス! 俺だ!」
「俺? 誰だって言うん……――は?」
聞き覚えのある声から誰だか思い出したのだろう、マルスは力を抜いて武器を下ろした。
「どうしてウィリアム・マクガフィン、あんたがこんな夜更けに不法侵入なんてしているんだ。ソーンダイク家の件といい、趣味なのか?」
説教をしそうな目で睨まれて、見つかった体裁の悪さからウィリアムがむすっとして言葉を噤んでいると、マルスは勘良くも察した。
「あ、昼間の日記の件だな」
ウィリアムは溜息を落とした。それが答えだと言わんばかりに。
「そうだ。俺はあの日記に用が――」
日記のある机の方を見やったウィリアムは絶句した。
彼が不自然に言葉を途切れさせ、どこか焦ったように目を瞠ったのを不審に思い視線を追ったマルスも同様になる。
先程ウィリアムがマルスの手から弾いたランプは日記の置かれた机へ飛んでオイルを零し、それに引火して日記ごと燃え出していたからだ。
「えっ、火を消さないと駄目だろ!」
日記はただの日記が燃えているように、メラメラとした炎を上げている。
山賊の洞窟でアイリスが蝋燭の火の先でうっかりちょっと焦がしてしまった時の比ではなく、表紙や端っこが紛れもなく黒くなっている。
これは早く消火しないと本格的に燃えてしまうだろう。
「おいあんた、早く魔法で水でも何でも出して消してくれ」
そう言ったマルスも自分は水場に水を取りに行こうと慌てて踵を返した時だった。
「――アチチチチチーッ! アッチイイイイイじゃないのさーーーーーーーーーーーーッッ!!」
零れたランプの火が辛うじてまだ光源を供給している淑女の寝室に、ウィリアムでもマルスでもない子供のような声が高らかに上がった。
ザックを襲った兵士二人は操られていたという点から、実質お咎めなしだった。
釈放されて王都警備の任務に戻った二人は、それでも入院中のザックに負い目を感じて、毎日彼の病室に顔を出しているらしい。
これで王都を騒がせた吸血事件一連は解決し、安堵する王都民たちの話題は驚きの犯人の正体でしばらくは持ちきりだった。
しかし誘拐事件については多くが隠蔽された。
アイリス・ローゼンバーグという名も出なかった。
軍医は王国軍人としての籍を剥奪され中央牢の住人となったが、ことアイリスに関してはウィリアムからの圧力で口を噤まされたのだ。
司法取引同然に減刑がなされたわけではない。
彼自身求めることもなかったと聞く。
吸血犯としての厳しい実刑は免れない。
それなのにどうして黙して隠蔽に従ったのか?
それは利害の一致という部分が大きい。
アイリスはアーネストに連れ去られ、ウィリアムは彼に大きな敵意がある。
そしてマクスウェルもアーネストへの恨みを消してはいない。
ウィリアムは恋人を取り戻し、いつかアーネストの過去の罪を裁かせるつもりだと告げ、それを取引として元軍医は余計な言葉を呑み込んだのだ。
敵の敵は友とはよく言ったもので、そういうわけで双方は協力関係になった。
ウィリアムが情状酌量をさせなかったのは、アイリスに怪我を負わせたことを赦したわけではないからだ。
元軍医の方も彼のその怒りを察していたし、牢獄で過ごして我に返ってみれば、血が目的とはいえ無為に少女を傷付けたという自責は湧いたために、減刑を訴えなかったのかもしれない。
そんなわけで、ソーンダイク家の旧邸宅が元軍医の人形魔法の隠れ家とはされたがそれだけで、直接事件に関わるという意味でのアーネスト・ソーンダイクという名も結局表には出なかった。
アーニーという少年は無事に家族の元に戻ったとされ、リズという娘も故郷に帰ったとされた。書類にはそのように記録され、あたかも取るに足らない小さな事件だったかのようにひっそりとファイルの奥に仕舞われた。
「アーニーの素姓はわかっているんだし、アイリス嬢に会わせてくれって会いに行けばいいだろう。応じないなら公爵家に乗り込めばいい」
王都に留まっての事件の事後処理の片手間に処刑どころに顔を出したウィリアムへと、ホールのテーブルに水を出してやったマルスが不満の眼差しを向ける。
事件の片はついたが、アイリスの行方は依然として知れないのだ。
しかし匿っている相手はハッキリしている。
紅茶かコーヒーの一つでも出せなどとは言わず、ウィリアムはかと言って水にも手を付けず、椅子に腰かけたまま息を吐き出した。
「素姓がわかっているからこそ厄介なんだ。しかも彼の領地のどこに居るのかもわからない。わかったとしてもタウンハウスでそうしたように無断で屋敷に侵入していい相手でもない。向こうに気取られれば面倒を招く。何しろ彼は年若いがこの国の公爵だ。無礼を働けばこちらの不利になりかねない」
マルスは休めの姿勢になると、手にしていたモップの柄に両手と顎を乗せた。お情けで水は出してやったが現在は日課の掃除中なのだ。
店主がまだ入院中なので店の営業はしていないが、留守を預かる者として毎日掃除は欠かさずにしているマルスだった。
因みにその店主ザックは気力で怪我を治し……たわけではないが、回復は順調で明日には退院してくる。
「あんたも同列に偉い公爵家の人間だろう?」
「爵位を継いでいるのといないのとでは立場が異なる」
「ああ……次期頭領と現頭領とじゃやっぱり違うからな。けどそういうの一応あんたも気にするんだな」
ウィリアムは半分では失礼なと腹を立てながら、もう半分ではちょっと虚を突かれたようにした。
言われてみれば自分は慎重になり過ぎている気がしないでもなかった。ソーンダイク家のタウンハウスに無断で侵入した勢いはどこに行った、と。しかも自分たちが入った事はアーネストは既に知っているだろうし、もう一つ二つやらかしたところで大して差はないのではないだろうか、とも思った。
仮に大ごとになったとしても、形振り構わずアイリスを奪還して二人でどこか遠くに行っても悪くはないのだ。
実際、彼女が処刑されると聞いた時はそうしてもいいと考えた。
しかし当時も今もそうしないのは、最善ではないとわかっているからだ。この世界に馴染み始め歩み始めた彼女に、一切を捨てる選択をさせたくなかった。
悪役令嬢的な立ち位置にいたせいでまだまだ彼女に私怨を抱く者は少なくはないだろうが、それを乗り越える力が彼女にはきっとある。
いつ地球に戻るとも知れない状況だが、この世界で誰に追われる心配もなく周囲に祝福される権利がアイリスにはあって、自分はそんなアイリスと寄り添って生きていきたい。
それがウィリアムの一番の願いだ。
「……不要な軋轢は後々災いの元だからな。まあ、こちらも準備を整えてから正式な訪問のアポを取るつもりだ」
「お貴族様って本当に面倒だな。何にしろ、僕もあんたに協力させてくれ。アイリス嬢を護るって誓ったんだ」
「へえ……それはまた頼もしいことで」
ウィリアムの声音には微かな苛立ちが滲んだが、彼は笑みの奥にその嫉妬心を押し込めた。
マルスは粗暴な山賊たちの中で育ったにもかかわらず生真面目に過ぎる。
服装をきちんとすればどこかの貴公子と紹介しても誰も疑わないだろう。
会った当初は互いに敵意もあって会話もろくに続かなかったが、アイリスの救出に向けて行動を共にしているうちに慣れたのか、今は普通に会話だって出来ている。
マルスは基本人と接するのが苦手なのだと思っていたが、予想に反して環境への適応は早いようだ。
とは言え、アイリスが関わる事以外口数は少ないが。
「マルス、ザック殿が戻ってきたら、アイリスの件とは別にお前に一度来てもらいたい場所がある」
予期せぬ話題の転換と存外真剣な面持ちのウィリアムに、マルスは不思議そうな顔をした。
「どこに?」
「マクガフィン家」
今度はちょっと面倒臭そうな顔になった。
「何故?」
「それは…………来たらわかる。先日、とある人物がうちを訪ねて来た。エリオット、と言えば誰だかわかるか?」
「なっ親父殿か!? けどどうして親父殿があんたの家に? 山賊の頭がそもそもアジトにいないでどこをほっつき歩いてるんだ」
はあーと盛大に嘆息するマルスへと、ウィリアムは多少言いにくそうにした。
「事前に聞いていなかったのか。アジトは引き払ったそうだ」
「何だって!?」
マルスの仰天と言って良い様子には、少しの傷心が垣間見えた。
拠点の移動などされては実家がなくなったも同然で、しかも何も言わずに姿を消したのだ。信頼できるザックの元に送り出してくれたのは良いが、捨てられたようにも感じたのだろう。
「親父殿は、あんたの家にまだいるのか?」
「いや、来たその日にどこかに去った」
「そうか……親父殿は見た目通りの野ゴリラ……いや自由人だからな」
きっと連絡手段はあるはずだと自分に言い聞かせるように呟いて近くの椅子に移動して肩を落とすマルスへと、ウィリアムは気休めの言葉は掛けなかった。
親子の形はそれぞれだ。たとえ父親を野猿どころか野ゴリラ呼ばわりしようとも。
「ところで、また話は変わるがアイリスの持っていた日記が今どこにあるか知っているか?」
「……日記? ああ、もしかして表紙に堂々とアイリス日記って書かれているあれか? 確かザックが表紙の修復をしてやってたやつ」
「表紙の修復?」
「僕がアイリス嬢を見つけた時から日記には剣での刺し傷があったんだ」
「そうなのか」
以前ウィリアムが記者に変装して得た証言には、アイリスが崖から落ちた際にそんな話もあった。
自分の居ない所であのお気楽そうな日記がちゃんと彼女を護ってくれたのだと思えば、感謝の念が湧きもした。
「日記は彼女の部屋に置いてあると思うけど、人の日記を盗み見るとか感心しない」
「中身に用はない」
「日記の存在意義って……」
「とにかく、あるのなら見せてくれ」
ウィリアムの様子は決して恋人のプライバシーを覗き見ようとするものではなく、それでいてふざけているわけでもなさそうだ。
「――断る。見たいならアイリス嬢の許可を取れ」
しかしマルスは頷くわけにはいかない。
淑女の部屋を勝手に漁るなど男として最低だ。
「彼女はここにはいないだろう」
「だからだよ。無事に取り返すんだろ。それから本人に直接訊けばいい」
一種の願懸けにも似た物言いに、ウィリアムは暫し黙り込む。
マルスもアイリスの無事な帰りを切望しているのだとよくわかるからだ。
しかし、マルスはあの日記が何であるかを知らないのだろう。
現在アイリス・ローゼンバーグを取り巻く状況は前と反転したと言って良い。
ウィリアムとしては、あの日記と話して何か一つでも多く情報を得たかったのだ。
「そうだな。わかった。アイリスが戻ってきてからにしようか」
しかし融通の利かない少年相手にどれだけ粘っても無駄だとさっさと判断して、彼は引き下がった。
「それじゃあ明日、ザック殿が退院してきた頃合いを見てまた顔を出す」
「わかった」
――ただし、この場では。
その日の深夜、マルスがとっくに寝入った頃を見計らってウィリアムは魔法でアイリスの部屋に忍び込んだ。
日記を探しに来たのだが、彼は暗闇の中で周囲の何にも手を触れずに佇んだ。
「おい、アイリス日記、いるなら返事をしろ」
極力抑えた声で問い掛ける。
しかし応えはない。
「タヌキ寝入りか? 俺が誰かわかっているだろう? アイリスの件でお前と話をしたい」
室内には物音一つしない。
日記が喋らなくなったことを知らないウィリアムは苛立って、日記本体を探そうと周囲に目を走らせる。
「何だすぐそこにあったのか」
日記は机の上に筆記具と共に置かれていた。
手を伸ばして取ろうとした矢先、
「――泥棒!」
部屋の扉が勢いよく開け放たれ、ランプを手にしたマルスが使い慣れた短剣を片手に斬り掛かってきた。
山賊としての経験値の賜か、マルスは縄張りに入り込む他者の気配にとても敏いようだ。
咄嗟に応戦したウィリアムはマルスの手からランプを弾くと短剣を持つ方の手を掴んで押さえた。
「泥棒め、大人しくお縄に付け!」
「待てマルス! 俺だ!」
「俺? 誰だって言うん……――は?」
聞き覚えのある声から誰だか思い出したのだろう、マルスは力を抜いて武器を下ろした。
「どうしてウィリアム・マクガフィン、あんたがこんな夜更けに不法侵入なんてしているんだ。ソーンダイク家の件といい、趣味なのか?」
説教をしそうな目で睨まれて、見つかった体裁の悪さからウィリアムがむすっとして言葉を噤んでいると、マルスは勘良くも察した。
「あ、昼間の日記の件だな」
ウィリアムは溜息を落とした。それが答えだと言わんばかりに。
「そうだ。俺はあの日記に用が――」
日記のある机の方を見やったウィリアムは絶句した。
彼が不自然に言葉を途切れさせ、どこか焦ったように目を瞠ったのを不審に思い視線を追ったマルスも同様になる。
先程ウィリアムがマルスの手から弾いたランプは日記の置かれた机へ飛んでオイルを零し、それに引火して日記ごと燃え出していたからだ。
「えっ、火を消さないと駄目だろ!」
日記はただの日記が燃えているように、メラメラとした炎を上げている。
山賊の洞窟でアイリスが蝋燭の火の先でうっかりちょっと焦がしてしまった時の比ではなく、表紙や端っこが紛れもなく黒くなっている。
これは早く消火しないと本格的に燃えてしまうだろう。
「おいあんた、早く魔法で水でも何でも出して消してくれ」
そう言ったマルスも自分は水場に水を取りに行こうと慌てて踵を返した時だった。
「――アチチチチチーッ! アッチイイイイイじゃないのさーーーーーーーーーーーーッッ!!」
零れたランプの火が辛うじてまだ光源を供給している淑女の寝室に、ウィリアムでもマルスでもない子供のような声が高らかに上がった。
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