お待たせ皇子様、出前です!

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23 山憂炎の頼み事

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 同じ夜、娘が妓楼にいるなど思いもしない雷浩然は皇都にある借家で一人書き物をしていた。
 因みに借家と言ってもしっかりした造りの一軒家だ。小さな池を有したそこそこ広い庭だってある。
 丁寧にった墨を含ませた筆をさらさらと動かしながら、彼は頭の片隅で礼部侍郎のことを考えていた。
 かの上司は未だにどうして侍郎止まりなのか、と小さな疑問が浮かんだのだ。家柄は決して悪くはないし、財力だってそこそこある。娘が貴妃となり皇子の祖父となって久しいのだ、礼部尚書辺りに昇進していてもいいはずなのだが、彼は何故か今も侍郎止まりなのだ。敢えて昇進しないようにしているとしか思えない。
 そう言えば以前、気になってどうしてまだ礼部でも中堅の自分を雪露宮勤務に推挙したのかと訊ねたことがある。そのときの彼の返答は、

 ――相手が皇子であれ、お主はおもねらないからだ。

 と、至ってシンプルで真っ当だった。
 確かにその通りでもあった。
 与えられた職責をこなす以外、雷浩然は官吏として動く必要を感じない。
 余程断れない状況でない限り、他の官吏たちはコネ作りの場にする宴席に出ることもしない。
 彼には出世欲が皆無とは言わないが、人並みにあるわけでもなかった。
 いつか地元緑安に戻ろうと思っているし、義理の父の朝廷嫌いもあって、朝廷の中枢に入り込む気はさらさらなかったのだ。
 ともかく、礼部侍朗のその何気なく人の本質を見抜く目が、彼が尚書ではなくとも侍郎たる地位に座っていられる所以なのだろうと思う。
 しかし、それはそれだ。

「……おもねらない、か」

 公正と言えばそうだが、慎重に近付ける人間を選び肖子偉の味方を作らないよう意図した人事だったのではないかと感じてしまう。昇進しない理由もそこにあるのだろうか。
 それは正鵠せいこくを射ていたが、まさか自分の娘がその真相を暴く騒動の当事者などとは思いもよらない雷浩然だった。




 後日、礼部侍郎の要請で刑部の役人が動き、第二皇子の噂の真犯人たちのうちでも明らかに法に触れ悪辣だと判断された者たちを一斉検挙した。
 その刑部主導での一連の動きより以前に礼部侍郎は自らの罪を自白し、進んで牢に入った。
 彼は取り調べでは一貫して第二皇子の関与を否定したという。
 積極的な入牢も彼のためだろうとやや同情的に周囲はみなしていたが、かと言って即時解放を奏上するわけでもなかった。今回の一件は太子の問題も孕んだ微妙な問題でもあるからだ。下手に関わらない方が身のためだと判断したのだろう。

 一方、第二皇子肖子偉はというと、彼もまた自らの罪を訴え出た。
 しかし自らで自らを陥れるという珍妙な状況と動機や過去の諸々から情状酌量され、更には兄皇子の嘆願によりしばらくの間雪露宮での謹慎が決まったのだ……が。

「――えっ!? 子偉殿下が牢に入った!?」

 それは凛風にとっては寝耳に水だった。
 夜、皇都の父親の屋敷まで差し入れを持って来ていた彼女は、その父親からの話に愕然とした。
 当初は父親の帰宅を待つつもりでいたが、来てみれば書斎には明かりが灯っていて、珍しくもう帰っていたのかとそちらに顔を出せば、案の定彼は綴り閉じ本を読んでいた。
 今日は早いねと声を掛ければ「ここの所は早いんだ」とどこか沈んだ声が返り、明らかに様子がおかしかったので仔細を訊ねれば、本を置いた父親から改まった様子で椅子を促され、疲れたような溜息と共にそんな事情を教えられたのだった。
 凛風が妓楼に行った日から半月は経っていた。

「な、何でそんなことに!?」
「彼が世間をひいては朝廷を欺いた、皇子にあるまじき行いをしていたため……とだけ言っておこう」

(ああ、巷の事件を利用して噂を流した件か。でも彼本人は悪事の何一つとしてやっていないのに)

「そう。それで、いつから入ってるの?」
「確かー……もう十日程になると思う」
「そんなに!? ……因みに礼部侍郎は?」
「おや、彼を知っているのか?」
「え、えっと父さんの上司でしょ、だからよ。それに子偉殿下の祖父君だって聞いたし」
「ああ」

 ヒヤヒヤしたが、幸い不審には思われていないようでホッとする。

「礼部侍郎の方が一日先に牢に入っていたんだ。子偉殿下は自分も同罪だからとその翌日自ら足を運んで同じ牢に入ったらしい」
「自分でって……獄吏たちは止めなかったの?」
「それがどうも、正体不明の布だるまの出現にまごついているうちに、牢の中に入ったそれが実は殿下だとわかったらしい」
「そ、そうなんだ」
「しかも頑固に出ないと言い張るものだからお手上げだと言う話だ。そもそも行動の迅速さからみて、彼は元々そのつもりでいたんだろう」

 父親に非難している様子はない。むしろどこか同情的だ。きっと彼らの動機なども聞き及んでいるに違いなかった。

(でも元々そのつもりって、いつから? もしかして……だから妓楼での別れ際あの人は……)

 出前をしばらく止めると言ったのは訪れるこの事態を念頭に置いていたからか、と凛風は思い至った。

「兄殿下が説得しても聞かないという話だ。実際私も一度面会に行ったが、たとえ長期になろうと本気で礼部侍郎と牢獄生活を送るつもりでいらしたよ。二人一緒でないと牢からは出ないともな」
「そんな……。貴人牢なの?」
「いや、普通の牢だ」

 それでは寝台は簡素だしまだ何とか夏とは言え夜も寒いのではないだろうか。じめじめした薄暗い牢獄を思い描けば、体を壊さないか心配になった。
 それと同時に、祖父と共に牢獄に入るなど彼らしいとも思う。

「そう心配そうな顔をするな。私の見解では二人共近日中には牢から出されるだろう。子偉殿下の方は月末に皇太后の宴も控えている。皇太后様も自分の祝いの日に孫皇子が国牢の虜囚なのでは気分も晴れないだろう。あの方は日頃から随分とお身内を気に掛けていらっしゃるという話だからな」
「だといいけど……」

 尚も不安そうに顔を曇らせる娘へと雷浩然は温かな眼差しを送る。
 溌剌はつらつと金兎雲で空を飛ぶ躍動的な一面もあるが、こうして顔見知りを案じる心優しい健気な面もあるのだ。

「凛風、今晩の紫華の手料理は何だ?」
「ああ、そうだった準備するね」

 今ここでどれだけ自分が憂えようと何がどう変わるわけでもない。

(でも次に会う時まで、体を壊したりしないといい……)

 皇城内の牢は重罪人や重要人物の収監が多いため、警備上の観点から差し入れは基本的にできないと聞く。だから包子を差し入れる事もできない。
 ただただ肖子偉の無事を願うしかしてやれる事がないのをもどかしく思いながら、凛風は夕食入りの岡持ちを開けるのだった。




 二日後、雷浩然の推測通り、第二皇子とその外祖父は揃って牢を出された。
 礼部侍郎は捜査への詳細な情報提供及び朝廷へ私財の大半を寄進し、更には反省の色の明確な態度などを考慮された結果、減刑された。
 更には出獄と同時に彼は自ら職位を返上し、朝廷からは身を引いた。
 皇城内の出来事が一般庶民たちの耳に入り浸透するには、それなりの時間を要するのが常だが、凛風がその報せを知って喜ぶのは早くもその翌日だった。

 昼食時、いつものように母親と共に忙しく店内を動き回っていると、雅やかな風が舞い込んだ……とは言い過ぎだが、彼が入って来ただけで店内の空気が華やいだのは否めない。

「あ、若様! いらっしゃいませ! 空いてる席にどうぞ~」
「やあ阿風。今日も忙しそうだね」

 彼、山憂炎は優雅な足取りで些か狭い通路を奥へ進み、適当な席に着いた。

「いつもので」
「畏まりました」

 一目置く常連の来店に浮き浮きとする凛風が一旦厨房に戻ろうとすると、

「ああ待って阿風、実は今日来たのは、君に一つ頼みがあるからなんだ」

 山憂炎は顔を近づけてくると声を落とした。更には扇子をはらりと開いて意味深に微笑む。因みに今日の扇子には千年生きると言われる鶴二羽の飛翔図が描かれていた。

「頼みですか?」
「そう。近々皇太后の生誕宴があるんだけど、その当日に皇城まで白家の包子パオズを出前してくれないかな?」
「うちの包子を? え、まさか宴席で……?」

 いやいやまさか、きっと裏方で忙しく駆け回る官吏たちが片手間に食べられる食事用だと思い直していると、よく知る貴公子は手首で扇子を一度かえした。

「もちろんそうだよ」
「えっ……」

 光栄過ぎて言葉が出て来ない。

「そんなに沢山というわけじゃないから安心して欲しい」
「いえ、あの、もしかして若様って中央の官吏なんですか?」
「ああ、一応そうだけど、言ってなかったっけ?」

 凛風は何だか溜息をつきたい気分で首を左右に振った。ここにも国の中枢に縁ある相手がいたようだ。

「てっきり裕福な貴族か商家のボンボンだと思ってました」
「ボンボンって……そんな風に呼ばれていた懐かしい時代もあったっけ」
「はい?」
「ふふふ、実は朝廷では太師って役職をもらっているよ」
「…………え?」

 山太師とやらの話をしていた肖兄弟の声が、耳奥に重なるように蘇る。

「もしかして、仙人の山太師って……?」
「ああ僕のことだね。ついでに言えば、太子殿……こほん、君の祖父の楊仙人とも古い知己なんだ。そういうわけだからこれからもよろしくね、阿風」
「は、はあ……」

 気もそぞろな返事になった。
 果たして母親は彼の正体を知っているだろうか。
 いやこの際それはどうでもいい。

(じい様が嫌そうにしてた仙人の知り合いってこの人だったの? え、でも何でじい様はこんな良い人を嫌がってるの? っていうか仙人? 仙人んんん~~~~っ!?)

 新事実発覚というか暴露に凛風は厨房に注文を報告に行く事もしばし失念して、温柔な微笑を浮かべる山憂炎を仰天の目で見つめた。

 注文の料理を運び、彼が食べ終える頃合いを見計らって改めて話を聞けば、皇太后を含めた彼女の周囲の人間に是非とも白家の包子の味を教えたいのだという。

 仮に話を受けるにしても数は両手で岡持ちを持って運べる範囲内だったので、とりあえずは安堵した。
 するとここで山憂炎が凛風を傍へ手招いた。
 素直に応じると扇子を広げ自分たちの口元を隠して声も落とす。

「子偉殿下は、昨日牢を出られたよ。礼部侍郎と一緒にね」
「えっホントですか!? ――ととと、それは良かったです。教えてくれてありがとうございます」

 思わず大声を出してしまい店内の注目を集めてしまった凛風は慌てて口を押さえた。
 それでも小声で積極的に話す様子に、山憂炎はどこか可笑しそうに咽の奥で上品な笑声を立て含み笑いを深くした。
 この手の話は不用意に周囲に聞かれない方がいいのだろうし、仮に読唇術の使い手がいてもこれなら心配はない。

「さすがは太師だけあって、若様は私が布だるま殿下と友人な事まで知ってたんですね」
「ふふふ、君はほっつき歩き殿下とも仲がいいよね」

 肖子豪のことだ。

「ところで子偉殿下の体調はどうですか? 礼部侍郎のおじさんも歳だからキツイとは思いますけど、殿下も牢獄生活なんてして大丈夫だったんでしょうか。寝込んだりは?」
「そこは平気そうだったね。ああ見えて教養として一通り護身術はやってるから基礎的な体力はあるし、何より、獄中でも布だるまは健在だったから温かかったと思うよ」
「なるほど、それなら良かったです」
「けれどまあ、まだ牢は出ても雪露宮での謹慎処分は解けていないから、宮からは出られないかな。考えようによってはちょうど良かったかもね」
「というと……?」

 先を促す凛風に、美青年仙人は一つ呼吸を整えた。

「宴の開催場所が変更されて何と雪露宮になったんだよ。一月程前、当初の予定の場所が小火ぼやを出してしまってね。急いで修復して使えない事もなかったけれど、煤臭いし縁起も悪いと言う事で、急遽雪露宮に変更されたんだよ。だからどうかな? 宴には彼も出席するから、サプライズに包子パオズが出てきたらとっても喜ぶんじゃない?」

 凛風は自分では思いもよらなかった山憂炎の言葉に目を見開いた。

 サプライズ。

 母親に相談して駄目だと言われたらと不安になって、包子だけなら自分一人でも作れるのだからその時は自分だけでと強気に思い直した。
 それに、自分はどうやら肖子偉の望みを叶えたいと思っているようなのだ。

(もう一度絶対食べたいって言ってたもんね。直接は会えなくても、喜んでくれるならそれでいいか)

「わかりました。引き受けます。当日のいつ頃届ければいいですか? さすがに真っ昼間に空からこんにちはするわけにもいきませんし、物資搬入用の入口も教えて下さいね」
「それは追って知らせるよ。でも良かった、阿風ならそう言ってくれると思ってた」

 パチン、と小気味の良い音を立てて山憂炎は満足げに扇子を閉じると、食事は終えていたので代金を置いて席を立つ。
 彼からポンポンと頭に手を置かれて見下ろされ、その珍しくもないスキンシップを受け入れていると、

「ご馳走様。それじゃあね、僕の小皇女」
「え……?」

 彼は今までよりも近しいような深い笑みを浮かべた。素性を明らかにした気安さもあったのかもしれない。
 華麗な袖捌きで翻された長身を追うように、背中の黒髪が緩やかに広がった。

「いや皇女って……柄じゃないでしょ」

 外の陽光の中へと姿を消す背を見送って、凛風はこれも彼なりのユーモアだろうかと思いつつ、少し照れた心地で苦笑を浮かべた。
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