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35 終幕は出前と共に
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「雷凛風!」
肖子偉が声も意識も向けた先、そこには時々雷浩然宅でも顔を合わせていた少女雷凛風が岡持ちを手に佇んでいた。
やっぱり常の通り男装の彼女は、手慣れた様子で大理石の円卓に岡持ちの中から取り出した蒸籠を広げた。
蒸籠には二人分の包子がある。
今この場にいるこの二人で食べるための包子だった。
熱々の湯気の中凛風がどうぞと促せば、肖子偉は嬉しそうにはにかんで腰かけ、凛風にも席を促した。
「明日から地方なんですね」
凛風がしみじみと問えば、包子に手を伸ばしていた肖子偉は小さく頷いた。
白い包子を手に取って二つに割る。
そうすればより一層香気と湯気が強まった。
「自分が成長するいい機会だと思っている。今まで私は駄目駄目だったから」
駄目駄目、と自分で言ってしまえる肖子偉が微笑ましくて、凛風は自分も包子を二つに割って頬張りながらも目を細めた。
「そういう向上心があればあなたはいくらでも成長できますよ」
「そうだといいのだが」
「私も応援しますし。どこに居ても出前を届けますから!」
肖子偉は目を丸くした。
「届けに来てくれると?」
「勿論ですよ。あーもうどうしてそんな予想外って顔してるんですか! 折角のほっこり気分も台無しですよ。私たちってそんな薄情な関係ですか?」
凛風が怒ったようにすれば、肖子偉は少したじろいでから包子に口元を埋めるようにしてもそもそと何かを言った。
「え? 何です?」
「……好きだ。改めて」
「ありがとうございます。うちの店をいつまでも御贔屓に」
肖子偉はしばし沈黙したが、ややあってもう一度口を開いた。
「……そなたのことだ」
「へ?」
「もう少し待つつもりだった。でも私は皇都を離れるから……その前にハッキリさせておきたい。曖昧なのは良くない」
包子を円卓の上に置いた肖子偉は真剣で切実な顔をして真っ直ぐ凛風を見つめた。
凛風は動きも思考も鈍らせた。
「改めて私の気持ちを言う。――雷凛風、そなたが好きだ。私と結婚を前提に交際してほしい」
「…………」
その話をされるとは全く以って予期していなかった凛風は、ゆっくり答えを出せばいいなんて思っていた自分を後悔した。
恥ずかしがり屋の彼がいつになく堂々と顔を上げている。
それだけ大切な事なのだ。
「黒蛇とやらには、そなたを盗られたくない」
彼は絶対になしだあーッと叫びたかったが、びっくりし過ぎて咽の奥から言葉が出て来ない。
告白からの期間を考えれば決して性急だとは思わないが、二度目の直球も直球な告白にまたもや頭がぐるぐるしてくる。
彼の綺麗に澄んだ焦げ茶の瞳に映されて、何故か気恥ずかしさも感じてしまった。そういえば彼の瞳は真っ黒ではなく少し色素が薄いのだなと、知ってはいたが今更ながらにきちんと意識した。
(私もこれからは布を持ち歩こうかな……)
自ら布だるま道に踏み込もうと迷走さえする凛風が黙って凝視していると、肖子偉はまるでのぼせたようにふらついた。
「大丈夫ですか!?」
身を乗り出して焦って支えると、頭を押さえられた肖子偉はそっと視線をずらした。
「……そなたからの視線に、心臓が持たなくて」
「そこまで!?」
乙女の中の乙女の称号を彼には是非授けたいと思った凛風は、そんな純粋さで慕われていると悟り、自分の心臓も何だか持たない気がしてきた。
「そなたの気持ちを聞かせてほしい」
「う、や、ええと……」
手を離し、内心の動揺に次の言葉を見つけられないでいると、肖子偉が諦観と悲哀を滲ませた薄い笑みを浮かべた。
「そなたの周りには魅力に溢れる男たちが多い。故に私のような布だるまでおどおどした男など、そなたの好みに合わないだろうとはわかっていた」
「え、いえあの」
「困らせてしまったのならすまない」
「ええと……」
それきりしばし会話が途切れ、やっぱり凛風は適当な言葉を思い付かない。
早く何か言わなければ大きく何かを間違えてしまいそうで、焦燥だけが募る。
「あの……」
自分でも何を口走るのかわからず何かを言おうとすれば、肖子偉がゆるゆると首を横に振った。
「無理しなくとも構わない。そなたが友情を感じてくれているのはわかっている。だから……今はそれで十分だと頑張って思うようにする」
「殿下、それは……」
「うん、私の告白は忘れてくれて構わない」
「忘れる……」
全くの埒外の言葉を聞かされた気分で凛風は唖然となった。
「そなたの負担にはなりたくないのだ。……私は、私の勝手な都合で答えを欲しただけで、どんな答えでも受け入れる。諦めるつもりはないが、それでも次に会った時は今まで通りの態度で接してくれると有難い」
「子偉殿下……」
「気にしないでほしい」
弱い笑みが返る。
いつもだったらきっとしょんぼりした子犬や子兎のような姿にはグッときていただろう。
しかし今は……。
(何か勝手に話を進めるから、理由はわからないけどイライラする)
それに自分は、しょんぼり顔よりも彼の安心したように微笑んだ顔の方が好きだった。
柔らかで温かな微笑が自分に向けられているだけで心が満たされるのだ。
そして、トクンと一拍心拍が高鳴って、庇護欲とは違った部分で触れたくなる。
それはどうしてだろう。
(それに、次会った時はって言うけど、これから先は向こうが出前してくれないと会えないのに)
出前抜きで自分から会いに行くという持ち前の積極的発想もなく、凛風は悲しくなった。
(出前を頼まなければどうせ今以上に滅多に会わなくなるから、振られてもいいって思ってるの? もしそうなら悔しい)
「……殿下の気持ちって、その程度なんですか?」
次第に湯気を減らす卓子の上の包子とは反対に、蒸気を噴き出して暴れ出す寸前の蒸籠のような気持ちになる。
そのせいか、ついつい棘のある言葉が転がり出た。
「た、ただ私はそなたが私を傷付けないよう断るのに腐心するだろうと思うと、申し訳なく思って……それで……」
凛風は軽い自己嫌悪を感じたが、肖子偉からの慌てた答えにそんなものも他の憤りの中に埋没した。
(ああもうどうしてこの人は、こんな時でさえ自分を後回しなんだろ。私だったら俺に付いて来いくらいは言うよ。大体私はまだ何も返事してないでしょーに! ……本当に馬鹿な人)
「殿下、そんな顔しないで下さい。笑って欲しいです」
気付けば溜息にも似た吐息と共にそんな台詞を口にしていた。
彼の事を考えればキラキラしたような感情が動いて、直前までの憤りは息を吐いた時には霧散した。
意識せず浮かべてしまった微苦笑は、目隠しされていた好意が積もって積もってようやく零れ出てきたような、仄かな意外さと、残りは心地の良い擽ったさから生まれていた。
「笑う……」
一方、そう呟く肖子偉は困惑に染まっている。
芳しい返事をもらえていない彼にとっては中々に難しい要求なのだ。
しかし、だ。
それでも彼は無理をして望みを叶えようとしてくれた。
頑張って笑ってくれたのだ。
雷凛風というたった一人のために。
彼にしては少々不格好な笑みに心が温かいもので満たされていく。
自分が感じたこの温かさを彼にも感じてほしいと思った。
彼にはいつも幸せでいてほしいと思った。
――好きだから。
(ああ、何だ。答えはこんなに簡単なことなんだ)
再び卓子の上に身を乗り出した凛風は、両手で肖子偉の頬を挟んでこちらは男前に破顔した。
「レ、雷ひふはふ……?」
「ああ違う。こうかな」
むにっと肖子偉の頬を親指で少し押し上げて両の口角を吊り上げてやる。
目を白黒させる大切な青年を見上げて、凛風は男前でもなくカッコ良くもない、ただの少女らしい笑みを浮かべていた。
そんな初めて見た笑顔に肖子偉は目を奪われ、瞬きさえ忘れたようだった。
「――子偉、笑って?」
いつもみたいに。いつも以上に。
凛風は内緒話でもするように顔を近づける。
――それが私の返事を聞いてあなたがする顔だから。
そう囁くように告げ悪戯っぽく口の端を引き上げた。
そんな表情をすればやっぱりいつもの頼れる美少年だが、そこにいるのは紛れもなく恋する一人の少女なのだ。
真意を解した恥ずかしがり屋の乙女皇子が、奇跡でも前にしたように呆然となる。
彼はこれが現実だと自身に言い聞かせるように数回瞬くと、最後に誰もが見惚れるだろう大輪の花にも勝る笑みを、その麗しい顔に咲かせた。
表向き悪態をついていても心の底では頭が上がらない相手というのはいる。
楊叡にとっての山憂炎がそれに当たるのだが、高山の仙境にある住まいに来てもいいと彼に許可をしてしまって以来、彼は三日と置かずに茶を呑みに来る。
……後悔しかなかった。
妻と二人きりの時間を邪魔されてハッキリ言わずとも大迷惑でしかないが、彼が妻との世間話の中で、皇太后の生誕宴に孫娘が包子を提供する話をしていたのを聞き、更には黒蛇の計画まで知ってしまい、心配でついつい下界に行ってしまったのは結果的には良かったので、全部が全部悪いというわけでもないのが悩み所でもある。
しかしまあ元はと言えば山憂炎が白家の包子を宴席の一品に推したのがいけないのだ。
孫が危険な目に遭ったのも、あのうねうね髪の変な盗賊から気に入られたのも、果ては第二皇子と付き合っているのも、あまつさえ、目下彼が悩まされている全ての元凶は今現在自分の真ん前の席で今日も妻の白蘭からお茶や手作りの点心を振る舞われている男、山憂炎のせいではなかろうか……と楊叡は疑っている。
「用事がないのならさっさと帰れ。暇仙人め。手土産に白家の包子を持参したのは有難くもらっておくがの」
犬でも追い払うようにしっしっと手を払えば、山憂炎は苦笑を浮かべた。
折角の友人をぞんざいに扱うなと妻から窘めるような目を向けられ、楊叡は正直ちょっと泣きたくなったが、これも彼が帰るまでの辛抱だ。
帰ったら思い切り甘えてやると決意している。
(膝枕に耳掻きは外せぬの)
「ああそうそう、実は次の子偉殿下の行き先なんですが、そこには海賊と通じる厄介な悪徳官吏がいましてね」
肖子偉が黒蛇と共に各地を歩き始めたのは楊叡も知っている。
不本意だが凛風からよく嬉しそうに彼の話を聞かされるのだ。
「山憂炎よ、何故わしにそのような内内の事情を明かすのだ?」
「え? だって阿風にも関わる事でしょう?」
「何故阿風が出てくる」
「え、だって彼の恋人ですし、子偉殿下が任地に赴けば自ずと彼女もその地に出前に行きますから多かれ少なかれ関わり合いになると思いますし、そうなれば太子殿下も静観していられない性分でしょう?」
「……」
心配でついつい首を突っ込んでしまうのは目に見えている……という山憂炎の決して外れていない分析に楊叡は嘆息した。
「とっとと帰れと思うていたが、気が変わった。どうせなら昼餉も食べていくがよい。もっとその地について詳しく聞かせよ」
「勿論ですよ、太子殿下~」
「だーっわざわざ椅子を寄せてくるでないわ! それにその呼び方!」
自分たちの様子に「本当に仲がいいわね」と妻が愉快そうに笑った。
その笑みを見たら怒っているのが急に馬鹿らしくなってしまった楊叡だ。
彼女と出会うまでは仙人としての静かな暮らしの中、時というものが平坦にさえ感じていた。
しかし出会ってからは長く穏やかだと思っていたそれはとても目まぐるしい。
(まあ主観の問題なのかもしれぬがな)
良い日も悪い日もあったが、運命の相手と出会えてからの時間は充実していたと言える。きっとこれからもそうだ。
(阿風にとってもあの若造がそうであればよい。……皇子という身分の男にろくなものはおらぬ故、本当は交際を認めたくはなかったがの)
かつての自分を含めた皇子全般に彼はそんな印象しか抱けない。
自然と溜息が零れた。
下手をすれば肖子偉を呪い殺しそうだった雷浩然を何とか宥めた苦労もそこには含まれていたりする。
血涙さえ流した義理の息子を見て、こいつやべえと思ったのは初めてだった。
雷浩然は雷浩然で結局は凛風の強い気持ちを無視はできず、肖子偉の為人も良く知っていたために折れたようだったが。
人にも仙人にも運命は見えない。
それでも心を渡したその人が運命の相手であれと心から願う。
「まあ、そういうものだの」
脈絡なく呟いて頬杖を突く自分を見て、妻と旧友は揃って微笑んだ。
その後、無事に第一皇子肖子豪が太子に冊立され、肖子偉は各地を回ったり皇都に戻ったりと忙しくしながら、朝廷の良き臣下として仕えている。
そんな彼の元へ、逢瀬も兼ねて凛風はよく出前を届ける。
いつも決まって金兎雲に乗って訪れ、二人の仲は誰が見てもとても良かった。
ただ時々、凛風は男装だったので断袖の仲に見られたりもしたが。
因みに、肖子偉には仙人の才能が微塵もなかったので、彼はどうやっても金兎雲に触る事はできなかった。
それでも一人と一雲は気が合うのか、何やかんやで凛風のためによく力を合わせていたという。
彼に同行している黒蛇は相変わらず凛風に対しては変態道まっしぐらだが、肖子偉の護衛や協力者と言う観点から見れば十分に頼りになる男だったので、いつしか凛風の彼への評価は変わりつつあった。
出前から始まって想いを通わせた一人の少女と一人の皇子。
この世に天の定めた運命の赤い糸があるのなら、きっと天の定めた運命の出前だってあるのだ。
これはそんな二人の物語。
肖子偉が声も意識も向けた先、そこには時々雷浩然宅でも顔を合わせていた少女雷凛風が岡持ちを手に佇んでいた。
やっぱり常の通り男装の彼女は、手慣れた様子で大理石の円卓に岡持ちの中から取り出した蒸籠を広げた。
蒸籠には二人分の包子がある。
今この場にいるこの二人で食べるための包子だった。
熱々の湯気の中凛風がどうぞと促せば、肖子偉は嬉しそうにはにかんで腰かけ、凛風にも席を促した。
「明日から地方なんですね」
凛風がしみじみと問えば、包子に手を伸ばしていた肖子偉は小さく頷いた。
白い包子を手に取って二つに割る。
そうすればより一層香気と湯気が強まった。
「自分が成長するいい機会だと思っている。今まで私は駄目駄目だったから」
駄目駄目、と自分で言ってしまえる肖子偉が微笑ましくて、凛風は自分も包子を二つに割って頬張りながらも目を細めた。
「そういう向上心があればあなたはいくらでも成長できますよ」
「そうだといいのだが」
「私も応援しますし。どこに居ても出前を届けますから!」
肖子偉は目を丸くした。
「届けに来てくれると?」
「勿論ですよ。あーもうどうしてそんな予想外って顔してるんですか! 折角のほっこり気分も台無しですよ。私たちってそんな薄情な関係ですか?」
凛風が怒ったようにすれば、肖子偉は少したじろいでから包子に口元を埋めるようにしてもそもそと何かを言った。
「え? 何です?」
「……好きだ。改めて」
「ありがとうございます。うちの店をいつまでも御贔屓に」
肖子偉はしばし沈黙したが、ややあってもう一度口を開いた。
「……そなたのことだ」
「へ?」
「もう少し待つつもりだった。でも私は皇都を離れるから……その前にハッキリさせておきたい。曖昧なのは良くない」
包子を円卓の上に置いた肖子偉は真剣で切実な顔をして真っ直ぐ凛風を見つめた。
凛風は動きも思考も鈍らせた。
「改めて私の気持ちを言う。――雷凛風、そなたが好きだ。私と結婚を前提に交際してほしい」
「…………」
その話をされるとは全く以って予期していなかった凛風は、ゆっくり答えを出せばいいなんて思っていた自分を後悔した。
恥ずかしがり屋の彼がいつになく堂々と顔を上げている。
それだけ大切な事なのだ。
「黒蛇とやらには、そなたを盗られたくない」
彼は絶対になしだあーッと叫びたかったが、びっくりし過ぎて咽の奥から言葉が出て来ない。
告白からの期間を考えれば決して性急だとは思わないが、二度目の直球も直球な告白にまたもや頭がぐるぐるしてくる。
彼の綺麗に澄んだ焦げ茶の瞳に映されて、何故か気恥ずかしさも感じてしまった。そういえば彼の瞳は真っ黒ではなく少し色素が薄いのだなと、知ってはいたが今更ながらにきちんと意識した。
(私もこれからは布を持ち歩こうかな……)
自ら布だるま道に踏み込もうと迷走さえする凛風が黙って凝視していると、肖子偉はまるでのぼせたようにふらついた。
「大丈夫ですか!?」
身を乗り出して焦って支えると、頭を押さえられた肖子偉はそっと視線をずらした。
「……そなたからの視線に、心臓が持たなくて」
「そこまで!?」
乙女の中の乙女の称号を彼には是非授けたいと思った凛風は、そんな純粋さで慕われていると悟り、自分の心臓も何だか持たない気がしてきた。
「そなたの気持ちを聞かせてほしい」
「う、や、ええと……」
手を離し、内心の動揺に次の言葉を見つけられないでいると、肖子偉が諦観と悲哀を滲ませた薄い笑みを浮かべた。
「そなたの周りには魅力に溢れる男たちが多い。故に私のような布だるまでおどおどした男など、そなたの好みに合わないだろうとはわかっていた」
「え、いえあの」
「困らせてしまったのならすまない」
「ええと……」
それきりしばし会話が途切れ、やっぱり凛風は適当な言葉を思い付かない。
早く何か言わなければ大きく何かを間違えてしまいそうで、焦燥だけが募る。
「あの……」
自分でも何を口走るのかわからず何かを言おうとすれば、肖子偉がゆるゆると首を横に振った。
「無理しなくとも構わない。そなたが友情を感じてくれているのはわかっている。だから……今はそれで十分だと頑張って思うようにする」
「殿下、それは……」
「うん、私の告白は忘れてくれて構わない」
「忘れる……」
全くの埒外の言葉を聞かされた気分で凛風は唖然となった。
「そなたの負担にはなりたくないのだ。……私は、私の勝手な都合で答えを欲しただけで、どんな答えでも受け入れる。諦めるつもりはないが、それでも次に会った時は今まで通りの態度で接してくれると有難い」
「子偉殿下……」
「気にしないでほしい」
弱い笑みが返る。
いつもだったらきっとしょんぼりした子犬や子兎のような姿にはグッときていただろう。
しかし今は……。
(何か勝手に話を進めるから、理由はわからないけどイライラする)
それに自分は、しょんぼり顔よりも彼の安心したように微笑んだ顔の方が好きだった。
柔らかで温かな微笑が自分に向けられているだけで心が満たされるのだ。
そして、トクンと一拍心拍が高鳴って、庇護欲とは違った部分で触れたくなる。
それはどうしてだろう。
(それに、次会った時はって言うけど、これから先は向こうが出前してくれないと会えないのに)
出前抜きで自分から会いに行くという持ち前の積極的発想もなく、凛風は悲しくなった。
(出前を頼まなければどうせ今以上に滅多に会わなくなるから、振られてもいいって思ってるの? もしそうなら悔しい)
「……殿下の気持ちって、その程度なんですか?」
次第に湯気を減らす卓子の上の包子とは反対に、蒸気を噴き出して暴れ出す寸前の蒸籠のような気持ちになる。
そのせいか、ついつい棘のある言葉が転がり出た。
「た、ただ私はそなたが私を傷付けないよう断るのに腐心するだろうと思うと、申し訳なく思って……それで……」
凛風は軽い自己嫌悪を感じたが、肖子偉からの慌てた答えにそんなものも他の憤りの中に埋没した。
(ああもうどうしてこの人は、こんな時でさえ自分を後回しなんだろ。私だったら俺に付いて来いくらいは言うよ。大体私はまだ何も返事してないでしょーに! ……本当に馬鹿な人)
「殿下、そんな顔しないで下さい。笑って欲しいです」
気付けば溜息にも似た吐息と共にそんな台詞を口にしていた。
彼の事を考えればキラキラしたような感情が動いて、直前までの憤りは息を吐いた時には霧散した。
意識せず浮かべてしまった微苦笑は、目隠しされていた好意が積もって積もってようやく零れ出てきたような、仄かな意外さと、残りは心地の良い擽ったさから生まれていた。
「笑う……」
一方、そう呟く肖子偉は困惑に染まっている。
芳しい返事をもらえていない彼にとっては中々に難しい要求なのだ。
しかし、だ。
それでも彼は無理をして望みを叶えようとしてくれた。
頑張って笑ってくれたのだ。
雷凛風というたった一人のために。
彼にしては少々不格好な笑みに心が温かいもので満たされていく。
自分が感じたこの温かさを彼にも感じてほしいと思った。
彼にはいつも幸せでいてほしいと思った。
――好きだから。
(ああ、何だ。答えはこんなに簡単なことなんだ)
再び卓子の上に身を乗り出した凛風は、両手で肖子偉の頬を挟んでこちらは男前に破顔した。
「レ、雷ひふはふ……?」
「ああ違う。こうかな」
むにっと肖子偉の頬を親指で少し押し上げて両の口角を吊り上げてやる。
目を白黒させる大切な青年を見上げて、凛風は男前でもなくカッコ良くもない、ただの少女らしい笑みを浮かべていた。
そんな初めて見た笑顔に肖子偉は目を奪われ、瞬きさえ忘れたようだった。
「――子偉、笑って?」
いつもみたいに。いつも以上に。
凛風は内緒話でもするように顔を近づける。
――それが私の返事を聞いてあなたがする顔だから。
そう囁くように告げ悪戯っぽく口の端を引き上げた。
そんな表情をすればやっぱりいつもの頼れる美少年だが、そこにいるのは紛れもなく恋する一人の少女なのだ。
真意を解した恥ずかしがり屋の乙女皇子が、奇跡でも前にしたように呆然となる。
彼はこれが現実だと自身に言い聞かせるように数回瞬くと、最後に誰もが見惚れるだろう大輪の花にも勝る笑みを、その麗しい顔に咲かせた。
表向き悪態をついていても心の底では頭が上がらない相手というのはいる。
楊叡にとっての山憂炎がそれに当たるのだが、高山の仙境にある住まいに来てもいいと彼に許可をしてしまって以来、彼は三日と置かずに茶を呑みに来る。
……後悔しかなかった。
妻と二人きりの時間を邪魔されてハッキリ言わずとも大迷惑でしかないが、彼が妻との世間話の中で、皇太后の生誕宴に孫娘が包子を提供する話をしていたのを聞き、更には黒蛇の計画まで知ってしまい、心配でついつい下界に行ってしまったのは結果的には良かったので、全部が全部悪いというわけでもないのが悩み所でもある。
しかしまあ元はと言えば山憂炎が白家の包子を宴席の一品に推したのがいけないのだ。
孫が危険な目に遭ったのも、あのうねうね髪の変な盗賊から気に入られたのも、果ては第二皇子と付き合っているのも、あまつさえ、目下彼が悩まされている全ての元凶は今現在自分の真ん前の席で今日も妻の白蘭からお茶や手作りの点心を振る舞われている男、山憂炎のせいではなかろうか……と楊叡は疑っている。
「用事がないのならさっさと帰れ。暇仙人め。手土産に白家の包子を持参したのは有難くもらっておくがの」
犬でも追い払うようにしっしっと手を払えば、山憂炎は苦笑を浮かべた。
折角の友人をぞんざいに扱うなと妻から窘めるような目を向けられ、楊叡は正直ちょっと泣きたくなったが、これも彼が帰るまでの辛抱だ。
帰ったら思い切り甘えてやると決意している。
(膝枕に耳掻きは外せぬの)
「ああそうそう、実は次の子偉殿下の行き先なんですが、そこには海賊と通じる厄介な悪徳官吏がいましてね」
肖子偉が黒蛇と共に各地を歩き始めたのは楊叡も知っている。
不本意だが凛風からよく嬉しそうに彼の話を聞かされるのだ。
「山憂炎よ、何故わしにそのような内内の事情を明かすのだ?」
「え? だって阿風にも関わる事でしょう?」
「何故阿風が出てくる」
「え、だって彼の恋人ですし、子偉殿下が任地に赴けば自ずと彼女もその地に出前に行きますから多かれ少なかれ関わり合いになると思いますし、そうなれば太子殿下も静観していられない性分でしょう?」
「……」
心配でついつい首を突っ込んでしまうのは目に見えている……という山憂炎の決して外れていない分析に楊叡は嘆息した。
「とっとと帰れと思うていたが、気が変わった。どうせなら昼餉も食べていくがよい。もっとその地について詳しく聞かせよ」
「勿論ですよ、太子殿下~」
「だーっわざわざ椅子を寄せてくるでないわ! それにその呼び方!」
自分たちの様子に「本当に仲がいいわね」と妻が愉快そうに笑った。
その笑みを見たら怒っているのが急に馬鹿らしくなってしまった楊叡だ。
彼女と出会うまでは仙人としての静かな暮らしの中、時というものが平坦にさえ感じていた。
しかし出会ってからは長く穏やかだと思っていたそれはとても目まぐるしい。
(まあ主観の問題なのかもしれぬがな)
良い日も悪い日もあったが、運命の相手と出会えてからの時間は充実していたと言える。きっとこれからもそうだ。
(阿風にとってもあの若造がそうであればよい。……皇子という身分の男にろくなものはおらぬ故、本当は交際を認めたくはなかったがの)
かつての自分を含めた皇子全般に彼はそんな印象しか抱けない。
自然と溜息が零れた。
下手をすれば肖子偉を呪い殺しそうだった雷浩然を何とか宥めた苦労もそこには含まれていたりする。
血涙さえ流した義理の息子を見て、こいつやべえと思ったのは初めてだった。
雷浩然は雷浩然で結局は凛風の強い気持ちを無視はできず、肖子偉の為人も良く知っていたために折れたようだったが。
人にも仙人にも運命は見えない。
それでも心を渡したその人が運命の相手であれと心から願う。
「まあ、そういうものだの」
脈絡なく呟いて頬杖を突く自分を見て、妻と旧友は揃って微笑んだ。
その後、無事に第一皇子肖子豪が太子に冊立され、肖子偉は各地を回ったり皇都に戻ったりと忙しくしながら、朝廷の良き臣下として仕えている。
そんな彼の元へ、逢瀬も兼ねて凛風はよく出前を届ける。
いつも決まって金兎雲に乗って訪れ、二人の仲は誰が見てもとても良かった。
ただ時々、凛風は男装だったので断袖の仲に見られたりもしたが。
因みに、肖子偉には仙人の才能が微塵もなかったので、彼はどうやっても金兎雲に触る事はできなかった。
それでも一人と一雲は気が合うのか、何やかんやで凛風のためによく力を合わせていたという。
彼に同行している黒蛇は相変わらず凛風に対しては変態道まっしぐらだが、肖子偉の護衛や協力者と言う観点から見れば十分に頼りになる男だったので、いつしか凛風の彼への評価は変わりつつあった。
出前から始まって想いを通わせた一人の少女と一人の皇子。
この世に天の定めた運命の赤い糸があるのなら、きっと天の定めた運命の出前だってあるのだ。
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